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元捕虜の訪日記録

ハロルド・ラムジーさんの横浜鶴見訪問−2011年3月4日

笹本妙子

ラムジーさんが訪日メンバーに選ばれたことを最初に教えてくれたのは、メルボルンに住むノンフィクション作家のパティ・ライト女史である。彼女は彼に何度もインタビューし、著書“The men of the Line”でも4ページを割いている。彼は泰緬鉄道と楽洋丸沈没という地獄を体験したが、それよりも日本で受けた虐待の方がもっと酷かったと語っている。「彼はとても日本を憎んでいた。でも、今回彼を訪ねて来た日本領事館のスタッフの誠実な態度に心を動かされ、日本に行く気になったらしいのよ。彼は古き良き時代の典型的なオーストラリア男で、剛毅だけどユーモアがあって、私は大好きなの」と彼女はメールに書いてきた。

ラムジーさんは、領事館の聞き取り調査で「川崎の収容所に送られた」と答えているが、よく調べてみると横浜市鶴見区にあった東京第11派遣所(※のちに第14分所と改称。詳細は「東京第14分所−東芝鶴見工場(笹本妙子著)」参照>>PDFで見る)とわかった。この収容所は鶴見区内の4ヵ所を転々としているが、彼が到着した44年9月頃には平安町にあり、捕虜たちは末広町の東芝鶴見工場(現・東芝京浜事業所)で使役された。45年4月に平安町の収容所が空襲で焼失すると、東芝工場内に移転したが、ここも45年7月の空襲で木っ端みじんに破壊され、30人もの捕虜が死亡した。が、彼自身はその前に新潟に送られたため、辛うじて難を逃れたのである。

3月5日、ラムジーさんと息子のステファンさん、JTBの通訳ガイドの黛さん、そして田村さんと私の計5人で東芝鶴見工場を訪問。最初に同工場のPRビデオ(英語版)を見せてもらった。それで初めて知ったのだが、同工場は発電所の主要機器を作っており、特に原子力発電の分野では東芝は大きなシェアを占めているという。ラムジーさんはとても驚いた様子で「オーストラリアでは原発は怖いというイメージを持っている。日本は原爆被害を受けているのに、なぜ原発を?」と訊ねた。担当者は「原爆と原発は違う。原発は安全なのに、なぜそんなことを訊くのか?」とでも言いたげな怪訝な顔をしていたが、まさかその数日後に福島第一原発の事故が起ころうとは、夢にも思わなかった。その原子炉の何基かはまさに東芝が作っているのだ。ラムジーさんも帰国後にこのニュースを見てさぞ仰天したことだろう。

工場には捕虜に関する資料が何も残っておらず、収容所の位置も結局わからなかったが、敷地内を車で案内してもらった時、工場の彼方にくっきりと浮かび上がる富士山を見て、ラムジーさんは「(平安町の)収容所から工場に歩いて来ると、いつも富士山が見えた」と語った。捕虜たちは鉄くずなどを運ぶ仕事をしていたというが、彼は仕事のつらさや虐待を受けた話などは語ろうとしなかった。

工場を辞すと、平安町の収容所跡に向かった。ラムジーさんは、収容所は運河に面していたと言い、確かにGHQの調査報告書の航空写真でも運河沿いにある。しかし、事前に私が下見に行くと、運河は埋め立てられ、収容所があったとおぼしき場所はマンションになっていて、何の痕跡もなかった。近隣に収容所のことを知る人はいないかと、古そうな家を尋ね回ったが、戦後に引っ越してきた人ばかり。この辺りは空襲でみな焼け野原になったのだから無理もない。 ラムジーさんにとっても空襲の記憶は強烈だったようだ。収容所には防空壕があったが、45年4月の空襲で収容所は焼失し、捕虜用の防空壕には運河の水が入り込んできたという。この空襲では捕虜が1人死亡したが、ラムジーさんは無事で、7月の空襲もその直前に新潟に送られたために免れた。その前には泰緬鉄道と楽洋丸を生き延びている。パティ・ライト女史の表現を借りれば、彼は「いくつもの“ニアミス”をくぐり抜けた“殺されにくい人”」だった。その強運ゆえに、89歳になって日本を再訪することができたのだ。そして、今度もまた東日本大震災を間一髪で免れた。この旅によって、日本への憎しみを解き、これからの日々を心穏やかに楽しく過ごされるよう願っている。

横浜港をバックに東芝鶴見工場敷地内にて

平安町の収容所跡にて