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元捕虜の訪日記録

オーストラリア元捕虜・家族との市民交流集会−2011年3月8日

笹本妙子
記録:荒川美智代

この集会は「泰緬鉄道・チャンギ・日本の収容所を生き延びて」と題し、POW研究会と「元捕虜・家族と交流する会」の共催で、東京港区の大阪経済法科大学麻布台セミナーハウスで行われた。参加者は元捕虜の方々を含め約60人。司会進行は田村佳子、笹本妙子、通訳は小野木祥之、伊吹由歌子氏(「捕虜 日米の対話」東京代表)、Anthony Walsh氏(東京在住のオーストラリア人翻訳家)。

開会挨拶では「元捕虜・家族と交流する会」事務局長の有光健氏が、今回の招聘プロジェクトが実現した経緯を説明し、田村・笹本が映像資料で捕虜たちの生活状況を紹介した後、5人の元捕虜の方々が体験を語り、ご家族2人にもご挨拶をいただいた。途中から、長年捕虜問題の解決に尽力してこられた参議院議員の藤田幸久氏も駆けつけ、「捕虜問題は過去の問題ではなく、未来に対する重要な問題。我々も党派を超えてさらに努力していきたい」と挨拶された。閉会挨拶では、当会共同代表の内海愛子が「リチャーズさんは、“あの体験は忘れもしないし許しもしないが、理解していきたい。親切で魅力ある日本人がなぜあのようなことをしたのかを”と言われたが、私たちもそれを知るためにこの会を作った。これからも皆さんや関係者の話に耳を傾け、資料を掘り起こし、考え、記録し、世に伝えていきたい」と締めくくった。

5人の元捕虜の方々の証言

ハロルド・ラムジーさん

まず、私の戦争中の写真をお見せします。右から2人目が私です。ずいぶん痩せておりました。

最初、私は中東の戦争に行きました。私の兄弟はそこで戦死したのですが、私はそこから一旦オーストラリアに帰りました。日本はまだ戦争を始めていませんでした。その後、イギリス軍を支援するためにジャワに行きましたが、そこで我々の将軍が降伏したので、私も捕虜になりました。

シンガポールに数週間いた後、小さな船でビルマに連れていかれました。泰緬鉄道の建設工事です。何の医療設備もない所で、たくさんの人が死にました。もっともひどい収容所では、300人がコレラにかかって死にました。川の水を飲んだりしていたのですが、朝そこに座って水を飲んでいた人が夜になると死んでいる、そんな状態でした。

その建設工事が終わった後、まだ何とか使いものになる人は、今度は日本に移送させられました。元気だと思う人は立てといわれて私も立ちあがり、それで日本に連れていかれたわけです。シンガポールで船団を組んで日本に向かいましたが、アメリカの潜水艦隊が当時非常に強力で、船団は粉々に攻撃され、2隻の船(註:楽洋丸と勝鬨丸)に乗っていた約2000人の捕虜が死にました。誰にも救助されないまま沈んでいったのです。ローリー・リチャーズさんはその時救われたのですが、私も一緒に救助されて、川崎(註:横浜市鶴見区の東京第14分所)に連れていかれました。

そこにいた監視員は軍人ではなく民間人で、恐るべき暴力をふるう人で、何もやっていないのにただただ殴りかかってくる、というような状態でした。B29による空襲がひっきりなしに行われ、夜寝ていた時に空襲があり38人が亡くなりました(註:GHQ資料によれば、1945年4月15日の空襲で1人、7月13日の空襲で30人が死亡)。(7月13日の)空襲の前に23人が新潟(註:東京第15分所)に送られていました。このとき一緒に新潟に行くはずだった2人が病気になったため、入れ替わって行ったのが私ハロルドでした。私は新潟に行っていたから助かったのです。

新潟の収容所も大変暴力的なところで、私も何週間も動けなくなったこともありました。空から機雷が落とされたのですが、海に落ちて船が接近すれば爆発するところを、陸に落ちたので爆発しなかった。収容所の中に機雷が落とされたので爆発しなかったのです。

戦時中の3年半の間で一回だけプレゼント(註:赤十字の慰問品)をもらいました。その中にチーズがあったのですが、収容所の人がそのプレゼントを盗み、石鹸だと思ってチーズで自分の身体を洗いました(笑)。

原爆が2個落とされて人々は恐怖に陥り、日本は8月15日か16日に降伏しました。我々は1945年8月20日に斬首されるはずだったのですが、免れることができました。

ノーマン・アンダートンさん

最初にまずPOW研究会にお礼を申し上げたいのですが、大変うまい具合に話を繋いでくださいまして、ありがとうございます。更に、先ほど見せていただいた画像で、我々がどういう状態であったか、皆さんもよく理解できたのではないかと思います。玉山(和夫)さんからいただいたこの本は、泰緬鉄道がどのように建設されたか、ということをよくわかるように書いていると思います。

イギリス軍が降伏する2〜3日前に、私はシンガポールでイギリス人用の病院収容所に入れられました。実は、日本軍がこの病院に攻撃をくわえた時に、たくさんの医療関係者が亡くなったりしました。日本軍は、約200人の医療関係者をそこで殺しました。その後、我々はシンガポール市内でいわゆる戦場掃除というものをさせられたわけですけれど、その時に見たのは6人のさらし首でありました。高い木の上にさらされておりまして、これは日本軍の指示を聞かないとこうなるよ、という脅しのために市民向けになされたことでした。

その後、私はハロルド(ラムジー)やローリー(リチャーズ)と同じように、泰緬鉄道の建設に向かいました。イギリス・オーストラリア・オランダの約6万人の捕虜が、その建設のために駆り出されておりました。それから現地のアジア人の方々が27万人駆り出されていました。イギリス・オランダ・オーストラリアの捕虜のうち3分の1が死亡しました。アジア人ロームシャの方々が何人死んだかは、誰にも分かりません。

捕虜の中で本当の英雄はお医者さんでありました。全体で43人の医療将校、お医者さんがいたわけですけれども、多くのお医者さんが日本軍から殴られたりしました。それはつまり、お医者さんが労働現場に誰を出して、誰を出さないかということを選別する役割を担っていたからであります。中でも捕虜の扱いがひどかったのは、マルヤマ大尉という男でありまして、非常に厳しく捕虜を作業に駆り出す仕事をやっておりました。マルヤマというその男は、戦争が終わったあと早死にしました。熱帯潰瘍の絵をさっきご覧になったかと思います。こうなったら足を切ってしまうほかありません。あるお医者さんは、44人の四肢の切断をする手術をしました。ただし手術用の器具であったのはただひとつ、木を切るのこぎりであります。別のお医者さんでビルマ側にいた人は、120人の手術をしました。

あまり知られていないことの1つに、看護婦の方々のことがあります。シンガポールが攻撃されているときに、自分の国にうまく船で帰った人もいますけれども、帰れずにそのまま捕まった人たちもいます。捕まった看護婦はやはり捕虜収容所に入れられました。小島にたどり着いた看護婦の一団がありました。この人たちは海岸に連れら出されて機関銃で撃ち殺されました。その中の一人に、捕虜収容所に連れてこられた人がいます。もう一人生き残った人もいます。

シンガポールに残った捕虜は、そこで飛行場の建設作業に従事させられました。大きな長いトンネルを掘るという作業もやりました。これは貯蔵庫にするという話でしたが、実際のところそれはお墓でした。ある司令官が言ったことですが、戦争が終わって連合軍が上陸してきた時には、全ての捕虜は殺される、そしてそのトンネルのお墓に埋められて、証拠を隠滅してしまうんだというような話でした。

日本の憲兵隊、軍の警察ですね。これは非常に暴力的でありまして、ドイツのゲシュタポよりもっとひどいと私は思います。拷問に三種類ありました。お箸を耳に入れる、もう一つは重い何かを持って立って、上に掲げさせる。ひざまずいて。その時憲兵隊が両脇に立って、その男を殴りつける。最もひどいものは、米ですね。炊いていない生の米を口に押し込む。その後水を流し込む。それで腹がぐっと膨れてしまう。お米が膨れ出すと、痛さで耐えかねるという状態になります。寝かされているとき、その腹の上で踊るんです。

シンガポールにおける女性への暴行について話をしますと、二つの事例があります。私にはとてもお話することができないような……。ただ一言申し上げれば、針を胸に刺す。タナカユキさんという方(註:広島平和研究所の田中利幸教授)が、そのことを『隠された恐怖Hidden Horror』という本に詳しく書いています。一人の非常なる狂気を持った日本兵のことが書かれています。泰緬鉄道建設やパプアニューギニアにおいて、日本軍の上官が部下をいかにひどく扱っていたかという話です。非常に厳しい病気や、あるいは飢えという状況がありましたが、人肉食ということも行われていました。

ジャック・シモンズさん

私はシンガポールにわずか3週間いただけで捕虜になってしまいました。その後船で、当初はビルマの泰緬鉄道の建設に送られるはずだったのですが、途中で進路を変えて日本に向かいました。3週間船に揺られて門司に着き、それから下関で汽車に乗せられて、どこか知らないところに運ばれていきました。結局着いたところは大阪でした。

収容所の建物は新しく、500人が収容できる建物でした。一つの棟を200人の捕虜で使用しました。大変住みやすいところで、何をするのかよく分からなかったのですが、ともかく我々が要求されたのは、鉄と称するあらゆるものを使って戦争に役立つ物に加工する、そんな作業でした。どんな仕事をするかの作業日誌のようなものがありました。

43年6月1日から仕事を始めました。仕事場へ行くには、二つの運河を越え、かなりの距離を歩いて行きました。そこの一番偉い人からいろいろな班に分けられて、私の場合はドリルによる穴あけの作業を割り当てられました。酸素・アセチレン焔による穴開けや照明などの仕事をする人もいました。ドライドックで——その頃ドイツの船を造っていたんですが——リベットを打つ作業や組み立ての作業、その他一連の仕事をやっていた人たちもいます。

食事は、仕事に行くときにはお弁当を持って行きます。小さな弁当箱におにぎりが一個。我々は班長のことを「チャーリー・チャップリン」と名付けていました。

石鹸がなかったので、運河をさかのぼってくるハシケの船員に向かって、顔を洗う真似をして石鹸をくれと伝え、もらってかついで帰りました。ある人は、鋳物工場で鋳物を洗うための砂を乾かして粉せっけんにしていました。

仕事場の班長は、ちょっと年配の温和な人で、家庭持ちだったのですが、彼のベッドは私たちと同じものでした。ある班長のことを「オールド・ビル」というあだ名で呼んでいましたが、その班長があるとき私たちがいるところに来て、私とその仲間の間に座って、「あんた方はどこから来たんだ」と聞きました。私は床にオーストラリアの地図を描き、州を描き分けて、「この中のクイーンズランドから来たんだ」と言ったら、班長が「ブリスベン」という風に言いました。ジャックさんはどこから来たのかと。私はそのブリスベンからはじめて、二つ三つ町を描いて、「ケアンズ、ここだ」と言いました。その班長は、ケアンズの通りの名前をあげてみせました。なぜそんなことを知っているのかと聞きましたら、その班長は16、7歳の頃、第一次世界大戦で、オーストラリア兵をエジプトに運んだことがあると言いました。

あるとき非常に激しい空襲があり、その後、他に何もすることがなかったので、ロッカールームに行っていろいろ開けて、ロッカーの中からこの帽子をいただきました。165番と書いてあった、それが私の帽子になりました。また別の時、引き出しにヤカンがあったのを見つけ、友達にどうしようかと言ったら、これを持って帰ろうという話になりました。それでオーバーコートでこういう具合にして(コートの下に隠す仕草をする)、収容所までヤカンをいただいて帰りました。3年間私はこのヤカンを床の下に隠しました。

大阪に何回か空襲があったあと、私どもは福井県武生に移送させられました。そこでカーバイドの工場で働きました。そこでの状態は極めて良かった。食事は十分ではなかったけど。交代制の勤務で仕事をしました。私は日勤の方の仕事をしていたのですが、ある日の午後、仕事に行ったら班長が今日は仕事がないと言ったんですね。それで、戦争が終わったんですかと聞いたら、そんなことはない、ただ作業をする材料がないから、とそういう言い方でした。その後何もしないでおりました。そして、45年の9月になってから、私どもは解放され、祖国に帰れました。船でまずマニラに行き、そこで3週間滞在し、再びアメリカの船に乗ってオーストラリアに帰りました。

ローリー・リチャーズさん

藤田先生にお礼を申し上げたいのですが、大変記念すべき会合にお呼びくださいましてありがとうございました。今後ともぜひ続けていただきたいと思います。藤田議員には我々を招いていただいて大変感謝しているのですが、5人の元オーストラリア兵が日本に来たということは、日本側からすると大変具体的な謝罪の形になっていると思います。同じようにPOW研究会のなされた仕事にも心から感謝を申し上げたいと思います。この努力によって今回の旅が実現し、政府に対する影響力も大変あると、そういう風にみております。

私の仲間がすでに話したこの時代の苦しい状況については、今は繰り返そうとは思いません。私がお話したいのは、そういう中で医療将校としてどんなことをやってきたのかということです。食事が非常に不足し、医療品、薬なども不足し、そしてきつい労働に駆り出されていた、そういう状況の中で医療将校がどんなことをしたかについてお話します。

泰緬鉄道の建設部隊の中にはオーストラリア人だけで43人の医師がいました。この医師たちは国に帰ってからたくさんの賞状や勲章を授けられたのですが、実際のところ、この勲章は医師ではなくて衛生兵の人たちに渡されるべきではないかという風に思いました。衛生兵と言っても、ほとんど訓練されないまま師団の募集に志願し、現場で衛生兵になった人たちです。

最後の2年間、私が直面した最も難しい仕事というのは、神様を演じることでした。つまり、兵士たちの生死を握っていた、というのが私に課せられた最も重い責務でありました。私の責任で、そういうことをやっておりました。兵士が私の前に来るそのわずかの時間の間に、この男はこの日作業に就くべきか、収容所にとどまるべきかを判断しなければならなかったのです。たまに収容所に卵が何個か手に入ることがあるわけですが、その時にもこの卵は誰にやるべきかという大変難しい選択を迫られました。もうすぐ死にそうな人に最後のお土産としてあげるか、あるいはもう少し頑張れば生き残れるような人にあげるか、そういう選択であります。医療上一番難しい問題は、マラリアでした。マラリアに罹ってしまうと2週間で死んでしまいます。マラリアの他には赤痢、熱帯潰瘍、脚気というようなものがありました。こうして多くの人が死んでいきましたが、私の場合いかにしてたくさんの死者を出さないかということに心を砕きました。泰緬鉄道の建設に18カ月間携わったわけですが、その中で私の部隊の死亡率は13パーセントでありました(註:全体の死亡率は約30%と言われる)。

この泰緬鉄道の建設が終わってから、先にどなたかがすでに証言しましたが、日本に向かう部隊に編成されました。私は楽洋丸で日本に運ばれたのですが、魚雷攻撃を受けて沈められ、その際11パーセントの人が救助されました。それは大変勇気のある日本の海軍の船員たちによって救われたわけであります。その海域というのは米軍の潜水艦がたくさんいたわけですから、大変危険な場所です。そこであえて救助してくれたという意味で、大変勇気のある行動だったと思います。こんな言い方さえありました——日本からアメリカまで歩いていくことができる。それは潜水艦の潜望鏡ですね、潜望鏡の上を次々歩いていくことによって行ける、それぐらい潜水艦が多かったわけです。

戦後、私は我々を救ってくれた非常に勇気ある日本の船員の人たちを探し出そうと思って努力をしました。しかるべきネットワークがあって、その人たちが大変援助してくれました。今日来ておられれば、菅原さんにお会いしたい。菅原完さんという方はPOW研究会のメンバーの一人ですけれども、この方がいろいろ情報を提供し、大変助けてくれました。救助してくれたその船の船長さんは海軍の一之瀬大佐と言いますが、彼あるいはその家族について、どなたでも知っておられる方がいたらぜひ教えていただきたい。その方に感謝を申し上げたいと思っています。

もう一度病気の話に戻りますが、我々が遭遇した疾病というのは全て予防可能でありましたし、また薬品等があったら処置可能なものでありました。大変残念なことですが、もしあの状況の下で、もう少しの食事、もう少しましな住環境、医療設備、医薬品、そして休息というものがあったならば、病気はもっと少なかったでありましょうし、衛生兵たちの仕事ももっと楽であったに違いないと思っております。

(楽洋丸から救助された後)私どもは酒田に送られたわけですが、2〜3日前、私はその酒田に行きました。そして大変嬉しいことに、二人の民間人の方にお会いすることができました。この方々は、収容所で大変私たちに親切にしてくれた人たち——1人は肉屋さん、1人は衛生兵——のご家族です。高橋さんという方が肉屋さんだったのですが、例えば馬が氷ですべって足を折ったりしますと、これはもう処分するしかないわけです。それで解体場所に持っていって、四つの部分に馬を切るのですが、その作業の時はオーストラリア捕虜の肉屋が手伝いをしました。その高橋さんが馬を解体するときに、あばら骨を二本ずつの大きさに切り離し、小売の肉屋さんにそれを渡していくわけですけれども、オーストラリア側の肉屋にもその二つのアバラの肉をこっそり渡してくれて、これはあんたがたで食えと、いう風にやってくれました。

泰緬鉄道の話に戻りますけれども、そこに何台かのトラックがあって、その運転は捕虜がやっておりました。道路の上を蒸気によって動く重たいローラーがあったのですが、その蒸気を作る燃料は材木でした。運転手は缶を二つ持っていて、その中に石油を入れていました。そのオーストラリア人の運転手は、その缶を持って、その中に入っている石油をロードローラーに使うのではなくて、地元の現場の人に売っていました。

(話を聞いていただき)ありがとうございました。特にPOW研究会の皆さんにはいろいろ準備していただいてありがとうございます。さきほど見せていただいた画像については、私はむしろ忘れたい。しかし、戦争の被害にあったことは私は決して忘れないし、許しもしません。しかし理解しようと思っています。この国に来てみると分かると思うのですが、皆さん大変親切だし、魅力ある国だし、魅力ある人たちばかりです。どうしてその国の人たちがあのようなことをやったのか、いうことについて理解をしていきたい、その際、この一週間くらいの間に遭遇したいろいろなことが、その理解を助けてくれるに違いないと思っております。

フレッド・ブレッドさん

私はシンガポールではなく、チモールで捕まって、オランダ軍の捕虜の中に加わりました。日本に送られた過程については先ほど他の人が話したのですが、ただ一言付け加えれば、その船(註:日本に移送されたときの捕虜輸送船)にはトイレがなかった。ここにある机くらいの大きさの板が(船の縁にせり出して)あって、そこにしゃがみこんでやるわけです。普段は船倉に閉じ込められているわけですが、そこに小さな木の札がかかっていて、自分がトイレに行っているか、どこで何をしているかということを、木の札のかける位置で示さなくてはいけなかった。それを忘れると看守のところに連れていかれてそこでさんざん殴られるという状態でした。

ハロルド・ラムジーさん

ノーマン・アンダートンさん

ジャック・シモンズさん

ローリー・リチャーズさん

フレッド・ブレッドさん