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元捕虜の訪日記録

ジャック・シモンズさんの日立造船訪問−2011年3月4日

福林 徹

ジャック・シモンズさん(Jack Simmonds)さん(1922年生まれ、クイーンズランド州在住)は、1942年2月のシンガポール陥落とともに捕虜になり、チャンギー俘虜収容所で過ごしたが、1943年4月、泰緬鉄道工事の補充要員として移送されることになり、旭光丸に乗船した。しかし、米海軍の攻撃を警戒して船は進路を変更、結局、門司へ送られ、下関から汽車に乗り換えて大阪俘虜収容所第10分所(大正分所、大阪市大正区新千歳町)に収容され、大阪鉄工所(現・日立造船築港事業所)で働かされた。45年5月に大阪俘虜収容所第22/第7分所(武生分所、福井県越前市北府2丁目)に移され、信越化学の工場で働かされた。

氏は2004年5月に、元オーストラリア兵捕虜ニール・マックファーソンさんやジャック・ブーンさんと共に来日、POW研究会のメンバーと共に英連邦横浜墓地や、武生の信越化学工場を訪問、さらに、奈良日豪協会での交流会などに参加されたが、その時は大阪の大正分所跡地と日立造船築港事業所へは訪問できなかった。そこで、今回は大阪訪問を希望され、3月4日昼に、パートナーのドーン・シュテインドル(Dawn J. Steindl)さん、通訳ガイドの工藤まやさんと共に新幹線で新大阪駅に到着された。そして、「POW研究会」の福林徹と「朝日新聞」大阪本社の武田肇記者が新大阪駅で合流し、ジャンボタクシーで日立造船築港事業所へ向かった。

日立造船築港工場では総務部長の岩本浩さんや総務課長の笹部勇さんらの出迎えを受け、応接室で会社のパンフレット、社史、事業所付近の空中写真などを見ながら、当時と現在の事業所の様子を説明していただいた。会社からは、ジャック・シモンズさんへの贈り物も用意されており、日立造船の名前の入った作業用のジャンバーは、シモンズさんもすっかり気に入って、今回の旅行中ずっと着用されていたほどである。

シモンズさんの大阪での捕虜生活の様子は、氏の話とGHQ資料などの記述を総合すると、以下のようなものである。

大正分所は1943年5月にオーストラリア兵捕虜200人が到着すると同時に開設された。捕虜の宿舎は新築だったので、居住環境はましだったが、食糧不足により栄養失調や脚気に悩まされた。市電通りをはさんで南隣に新千歳小学校があり、小学生たちは校舎の2階から物珍しげに捕虜たちを眺めたという。

大正分所に入所すると、最初に「気をつけ」、「休め」などの号令や、自分の捕虜番号を日本語で覚えて集団行動をする訓練を徹底的にたたき込まれた。間違えると殴られるなど、とても厳しかった。日本軍や会社から作業着、外套、地下足袋などが支給され、43年6月1日から造船所での仕事が始まった。

日立造船の工場は、捕虜収容所から南へ2キロほど離れていて、捕虜たちは5、6人の監視員に引率され、隊列を組んで市街地を30分ほど行進して往き来した。その途中2つの運河を越えた(このコースは、現在で言うと、大正内港の海の底になっている新千歳町の収容所から千歳渡船場で大正内港を南へ渡り、鶴町商店街を南下し、工場の手前の船町の渡船場で木津川運河を渡ったことになる)。仕事場へは、おにぎりが1個入った小さな弁当箱を持って行った。給料は企業から軍へ捕虜1日あたり1円支払われ、捕虜はそのうち10銭を受け取った。仕事は1日8時間労働で、週1日休みという建前になっていたが、実際には労働時間はもっと長く、休みも1ヶ月に1日ぐらいだった。

監視員によるビンタは日常的だった。ただ、シモンズさんたちの作業グループの日本人「班長」たちは概して親切だったという。中には、英語を解する班長もいて、シモンズさんがオーストラリアのクイーンズランド出身だなどと話して意志が通じると喜んでいたとのことである。

なお、シモンズさんは自分の捕虜番号の「165番」を縫い込んだ日本軍支給の作業帽と、仕事の時に工場で盗んだ銅製のヤカンを持参されていて披露された。ヤカンは、工場退出時の身体検査の時に、ズボンのベルトにつり下げて外套で覆い隠して分所へ持ち帰り、床の下に隠して使っていたとのことである。

応接室での談笑の後、総務部長・課長さんらの案内で、事業所内を見学した。日立造船築港事業所は、現在は造船部門は閉鎖されて各種精密機械システムの研究・開発拠点になっているが、当時の建物も部分的に残っている。シモンズさんは鋳物工場で働かされ、船舶用エンジンのさび落としなどをしたというが、その長大な建物も残存しているのを見ることができた。

大正分所は1945年3月13日の大阪大空襲時に若干の被害を受けている。俘虜情報局編『俘虜取扱の記録』によると、同分所には焼夷弾14発、西成区の第13分所(津守分所)には焼夷弾41発が投下され、両方の分所を合わせて死者1人、負傷者11人が出ている。ただ、シモンズさんの記憶によると、空が真っ赤になり、大正分所も危険だったのは覚えているが、大きな被害はなかったとのことで、死傷者が出たのはもっぱら津守分所らしい。

このような空襲を避けるため、大正分所は1945年5月に閉鎖され、シモンズさんたちは福井県武生に移送された。その直後の6月1日の大阪大空襲のため、同分所の建物は焼失し、日立造船築港造船所も大きな被害を受けた。

なお、大正分所の跡地は、戦後、大正内港が拡張されたため、現在は海底に沈んでいる。

翌日の3月5日は、午前中に「ピースおおさか」博物館を見学し、シモンズさんも戦争当時の大阪の様子を改めて思い出された様子であった。午後は、遊覧船で大阪城周辺の景色を水上から観賞した後、京都へ移動された。

日立造船築港工場にて