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元捕虜の訪日記録

日本政府招聘によるアメリカ兵元捕虜の来日
(2012年10月13日~21日)

2010年10月13日~21日、アメリカの元捕虜7人とその家族計14人が来日しました。日本政府の招聘による第3回目の訪問団です。
 7人のうち1人はB29搭乗員として撃墜されて東京憲兵隊へ、あとの6人はフィリピンやグアム島で捕虜となり、日本国内や満州の収容所に送られた方々です。
 各地の交流会では、どなたも話が尽きず、大幅に時間オーバーすることもたびたびでした。地方日程では、東京、横須賀、新潟、大阪、山口の収容所跡などを訪問しました。最年少が89歳、他は90代という超高齢で、車イスや歩行器を使う方も多かったのですが、10日間の旅程を無事にこなし、元気で帰国されたのは何よりでした。

来日された皆さんのプロフィール

ダグラス・ノータムさん(Mr. Douglas Northam) 92歳

1942年5月フィリピンのコレヒドール島で捕虜に。
ビリビッド、カバナツアンの収容所を経て、長門丸で日本へ。
大阪の梅田分所、福井の敦賀分所で使役。
1945年9月17日帰国。

ジョージ・サマーズさん(Mr. George R. Summers Jr.) 90歳

1941年12月グアム島で捕虜に。
アルゼンチナ丸で日本に移送され、善通寺、大阪の多奈川、梅田などの収容所を経て、富山県高岡市の伏木分所で終戦。
朝鮮戦争中に日本を再訪。

デービッド・ファーカーさん(Mr. David Farquhar) 90歳

1945年5月23日、搭乗していたB29が東京空襲中に撃墜され、千葉県市原市にパラシュート降下して捕虜に。
東京憲兵隊に拘留されたが、終戦後に大森収容所に移送され、ここで解放。

ランドール・エドワーズさん(Mr. Randall Edwards) 94歳

1942年5月フィリピンのコレヒドール島で捕虜となり、満州(現・中国東北地方)の奉天収容所に送られ、MKK(満州工作機械)で使役される。
戦後、占領軍として横須賀に駐留。

ジョン・リロイ・ミムズさん (Mr. John Leroy Mims) 90歳

1942年フィリピンのバターン半島で捕虜に。
「バターン死の行進」を生き延び、フィリピン内の収容所を経て、1944年日本に移送。山口県美祢市の大嶺炭鉱で労働。
戦後、占領軍として東京へ。

ロバート・エアハートさん (Mr. Robert Ehrhart) 89歳

1942年5月フィリピンのコレヒドール島で捕虜に。
フィリピン内の収容所を経て、日本に移送。
大阪の桜島分所では造船所のリベット打ち、兵庫県の明延分所では三菱銅山で削岩作業に従事。

ジョン・リアルさん (Mr. John Real) 90歳

1942年フィリピンのバターン半島で捕虜に。
「バターン死の行進」を生き延び、フィリピン内の収容所を経て、新潟市の東京第5分所に移送、臨港(新潟海陸運送)で石炭荷役に従事。

旅程

10月13日(土) 成田着 東京泊
14日(日) 英連邦墓地訪問(横浜)、市民交流集会(東京) 東京泊
15日(月) 外務省・官邸関係者訪問、テンプル大学交流会 東京泊
16日(火) 駐日米大使館訪問、レセプションなど 東京泊
17日(水) 個別地方日程(東京、横須賀、新潟、大阪、山口) 地方泊
18日(木) 個別地方日程、夕方京都へ移動 京都泊
19日(金) 京都:霊山観音、立命館大学国際平和ミュージアム訪問など 京都泊
20日(土) 京都観光など 京都泊
21日(日) 帰国

10月14日(日)午前 横浜英連邦戦死者墓地訪問

納骨堂で献花するノータムさん

この墓地には、主に第2次大戦中に日本国内の収容所で捕虜として死亡した英連邦(英・豪・加・印・NZ)の兵士が眠っていますが、納骨堂には例外的にアメリカ兵48名も葬られています。彼らは1945年12月に「鴨緑丸」という船でマニラを出発しましたが、マニラ港外で米軍機に撃沈され、次に乗り継いだ「江の浦丸」も台湾の高雄港で撃沈され、最後に乗り継いだ「ぶらじる丸」で門司港に着いた直後に息絶えた人々です。
 一行は納骨堂の棺に花を捧げました。

10月14日(日)午後 市民交流集会(東京)

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会場:大阪経済法科大学東京麻布台セミナーハウス(東京都港区)
主催:元捕虜・家族と交流する会
協力:POW研究会/「捕虜 日米の対話」

参加者はゲストを含め55人と盛会でした。7人の話の一部をご紹介しましょう。

「バターン死の行進」を体験したリアルさん――「所持品をすべて没収され、食べ物も水もなしで65マイルを歩いた」。訪問団長のノータムさん――「我々の人生も黄昏に近づいた。我々を酷使した企業から一言謝罪が欲しい」。開戦の日にグアムで捕虜になったサマーズさん――「善通寺に送られたときに見た沿道の村が平和で美しかった」。東京を空襲して撃墜され、“特殊捕虜”として憲兵隊に拘留されたファーカーさん――「終戦の日に殺されると思ったら、大森収容所に送られた」。満州の奉天収容所に送られたエドワーズさん――「日本の戦争遂行にダメージを与えるため、工場の機械を壊すなどのサボタージュをした」。アメリカ先住民の血が流れるミムズさん――「オドネル収容所では沢山の捕虜がバタバタ死んでいったが、私は先祖からの教えでお腹を温めていたので大丈夫だった」。大阪の収容所に送られたエアハートさん――「正気を保つために、身辺を題材にした漫画を描いていたが、所持品検査で没収されてしまった」。

どなたも話が尽きず、大幅に時間オーバーしたため、休憩も質疑時間も飛ばすことになりましたが、最後に当会代表の内海愛子さんが、「心の葛藤を乗り越えて来日して下さったことに感謝。皆さんの他にも、米比軍のフィリピン人、英印軍のインド人、蘭印軍のインドネシア兵などのアジア人捕虜がいたことも忘れず、この歴史を次世代に伝えていきたい」と締めくくりました。

10月15日(月) 玄葉外務大臣表敬訪問

【外務省記者発表要旨】 外務省ウェブサイト >>Link

(要旨)玄葉大臣は,このプログラムを通じて皆様の日本に対する「心の和解」を促進できることを願っていると述べ、特に戦争捕虜として悲惨な経験をされた皆様が多大な損害と苦痛を受けたことに対し,改めて心からのお詫びを申し上げると述べた。さらに、今後も本プログラムを続けていきたいと語った。 一行を代表してダグラス・ノータム氏が,本プログラムは価値あるものであり,今後も継続することを期待すると述べ、大臣に友好を記念するメダルを贈呈した。

外務省提供 友好記念のメダル

10月17日(水)~18日(木) 地方日程

<東京・横須賀>

17日、ファーカー夫妻とエドワーズ夫妻は、ファーカー氏が終戦後に送られた大森収容所跡地と、エドワーズ氏が戦後の一時期、占領軍として駐留した横須賀を訪問し、当会の田村、西里、前川、笹本が同行しました。

大森収容所跡地は現在、平和島競艇場の観客スタンドになっていますが、そばに平和観音像が建ち、説明板に「平和島は、さきの大戦中相手国の俘虜収容所があったところ、戦後はわが国戦犯が苦難の日々を送ったいわば『戦争と平和の因縁の地』……」と書かれています。

一行はこの平和観音像を訪ね、土地所有者の㈱京浜開発の貴賓室で歓待を受けました。

午後は横須賀へ。着いたのは海上自衛隊基地。部屋に通され、広報官がスライドを見せながら説明を始めると、エドワーズさんが突然「ここは違う!僕が行きたかったのは米軍基地だ」と言い、エドワーズ夫妻と外務省担当官が慌てて米軍基地に向かいました。

残されたファーカー夫妻とP研メンバー4人は、海上自衛隊基地内を見学しました。

平和観音像前にて 海上自衛隊横須賀基地にて

<新潟>

リアルさんは当初、東京・横須賀訪問グループに入っていましたが、来日してから新潟訪問を強く希望し、16日夜、急遽、新潟行きが決まりました。当日の17日朝、突然の知らせを受けた当会メンバーの木村昭雄さんが、大事な会議を抜け出してリアルさん父子の案内役を務めました。

東京第5分所の跡地は住宅地となり、何の痕跡も残っていませんが、リアルさんは、港の仕事に出かける途中、住民に石を投げられたことなどを語ってくれました。次に埠頭を見学。リアルさんたちは石炭の荷役作業をさせられたそうです。水道局のタワーに登ると、信濃川と日本海が交わる河口や町並みが一望できました。周辺の様子はすっかり変わっていましたが、リアルさんは新潟に来られて大満足の様子でした。

<山口>

ミムズ夫妻は、大嶺炭鉱を経営していた宇部興産本社のある宇部市と、大嶺収容所(広島第6分所)があった山口県美祢市を訪問。「捕虜 日米の対話」の伊吹由歌子さんが同行しました。

17日に訪問した宇部興産本社では、40年前の炭鉱の作業の様子を収めたフィルムを見せてもらいました。展示室では、宇部興産紹介の英語フィルムを鑑賞した後、炭鉱関連の展示を見学しました。

18日は、美祢市の村田浩司市長を表敬訪問した後、市民の戦争体験を記録する「5日の会」の羽佐間正巳氏や山本史雄氏の案内で、収容所跡や大嶺炭鉱抗口などを見学しました。途中、羽佐間氏が経営する保育園の子どもたちが日米の国旗を振って歓迎し、ミムズ夫妻もとても嬉しそうでした。収容所跡には「5日の会」が建立した記念碑があります。ミムズさんは記念碑に花を捧げ、収容所で暴行を受けて首に怪我を負い、体がマヒしたことなどを語りました。

収容所跡の記念碑前にて(田中哲郎氏提供)

<大阪>

●10月17日(水) 神戸

戦時中、大阪の収容所にいたダグラス・ノータムさん、ジョージ・サマーズさん、ロバート・エアハートさんの3人は、この日、新幹線で東京から神戸に到着。電通の社員、外務省の職員、「捕虜 日米の対話」の徳留絹枝さん、当会の福林が同行しました。

神戸港クルーズをしながら昼食の予定だったそうですが、天候が悪く、また、足の悪い元捕虜の方々が船に乗ることの不便さから中止になりました。代わりにオリエンタルホテルの展望台で神戸港を眺めながら昼食をとりました。

午後4時頃、専用バスで大阪の日立造船築港工場へ移動。ここは、昨年、元オーストラリア兵捕虜のジャック・シモンズさんが訪れて、昔の面影の残る工場を見学し、会社側も写真などの資料を用意して工場の歴史を説明、良い交流ができました。今回の米元捕虜エアハートさんは、日立造船桜島工場におられた人なので、この工場に直接の関係はありませんでしたが、会社側の対応は丁寧でした。

●10月18日(木) 大阪

●日本通運梅田分所跡地

18日午前、電通の社員、看護師、外務省の職員、「捕虜 日米の対話」の徳留絹枝さん、当会のモートン、福林が同行して、日本通運梅田支店を訪問。ここは昔の雰囲気を残す広大な梅田貨物駅の正面にあり、ダグラス・ノータムさんとジョージ・サマーズさんが収容された大阪俘虜収容所梅田分所があった所です。

会社側からは総務課長が応対し、戦時中の学徒勤労動員のことを記した「社史」などを見せてくれましたが、捕虜収容所に関する記事はありませんでした。ノータムさんとサマーズさんは、梅田貨物駅を眺めながら、何となく昔の記憶がよみがえるようで、感慨深い様子でした。ただ、2人が実際に派遣されて働いたのは、吹田駅と大阪港の近くの貨物駅だったそうです。別れ際に、総務課長が2人にねぎらいの挨拶をすると、サマーズさんは「このような取り扱いを戦時中にしてくれれば良かったのに」と答えられました。

日通梅田支店にて 梅田貨物駅

●大阪市立高見小学校

次に、此花区の大阪市立高見小学校を訪問しました。

ここは、ロバート・エアハートさんが収容されていた日立造船桜島分所跡地に近い学校で、2、3年前に同校の校史が発行された時、編集担当の先生がP研のHPを見られて私に捕虜収容所のことを問い合わせて来られたので、私は若干の情報を提供しました。その縁で、今回、元アメリカ兵捕虜が来日することをお知らせすると、校長や地域の人に伝えてくださり、学校挙げての歓迎となりました。私たちが到着すると、5年生3クラス全員90人ほどと教職員や地域の人たち20人ほどが集まり、元捕虜の話を聞きました。生徒からは「どうして軍隊に入ったのですか」、「原爆をどう思いますか」、「なぜ戦争が始まったのですか」等のたくさんの質問が飛び出して熱心な話し合いになりました。最後に、生徒代表がクラス全員の写真入りの寄せ書きをエアハートさんに贈呈しました。その後、可愛い1年生全員が登場して合唱や楽器の演奏で歓迎してくれました。昼食時には、子供たちと一緒に給食を食べながら、昔を知る地域の人からの話も聞きました。

メディアは「読売新聞」と在日米軍の新聞「星条旗」が取材に来ており、後日、記事になりました。

高見小学校での交流会 高見団地となった日立造船桜島分所跡

●ピースおおさか

高見小学校を辞した後、ピースおおさかミュージアムへ向かいました。

大阪大空襲やアジア太平洋戦争に関する館内の展示を見学した後、会議室で、館の職員や市民などを含めて25人ほどが集まり懇談会を開きました。参加者の中には、シベリア抑留者でテニーさんと顔見知りの池田幸一さん(91歳)、学生の頃桜島分所の近くに住んでいて、毎日、捕虜たちが工場へ向かうのを目撃、予科練入隊後は特殊潜航艇の乗員になった山下重雄さん(86歳)、国民学校への通学途中、大阪市内の今宮駅で捕虜が働かされているのを見て戦争を実感したという大阪空襲の体験者の伊賀孝子さん(81歳)などがあり、それぞれの思いを語ってくれました。

この後、京都へ向かい、途中、ノータムさんが働いていたという吹田駅前の朝日ビールの工場付近に立ち寄る予定でしたが、ノータムさんは「今日は充実した1日で満足したので、もう立ち寄らなくてもいい」と言われ、そのまま京都のホテルに直行しました。

ピースおおさかの展示を見学 ピースおおさかでの懇談会

10月19日(金) 京都

●霊山観音

各地の訪問を終えた元捕虜の皆さんは、18日夕方に京都駅ビルのホテルグランヴィア京都に集合し、19日朝、電通の社員、看護師、「捕虜 日米の対話」の伊吹由歌子さん、当会のモートン、福林が同行し霊山観音を訪問しました。

同寺では、3年前に始まった外務省の招聘事業による元オーストラリア兵捕虜とアメリカ兵捕虜の訪問の時には、いつも、メモリアルホールに保管されている捕虜・民間人抑留者の死者名簿と個人カードの閲覧の便宜を計ってくださっており、その厚意には深く感謝です。また、この死者名簿についてのモートンさんの研究もさらに進み、元アメリカ兵捕虜・家族一行も、その説明に興味深く耳を傾けていました。

昼食は近くの老舗料亭でとり、立命館大学国際平和ミュージアムに向かいましたが、ノータムさん夫妻は疲れたとのことでホテルへ帰って休まれることになりました。

霊山観音境内 メモリアルホールの死者名簿を閲覧

●立命館大学国際平和ミュージアム

立命館大学国際平和ミュージアムでは、玄関で大勢の職員やボランティアガイドの人たちに迎えていただきました。最初に、英語ガイド部会の方々の案内で館内の展示を見学し、その後、午後3時から会議室で交流会を開きました。

今年は、「戦争遺跡に平和を学ぶ京都の会」や「平和友の会」の協力の他、ミュージアムの事務室から立命館大学の教員・学生に交流会の連絡をしていただいたこと、「京都新聞」が予告記事を出してくれたことなどにより、ゲストを含めて70人ほどの集会になり、盛況でした。

以下に質疑応答の一部を紹介します。

問:都市の空爆で民間人の被災に罪悪感はなかったか。

答:無差別攻撃によって一般人が巻き添えになった点は申し訳ないが、町中の工場では武器の部品を製造しているからと、空爆命令が出た。仕方がない部分がある。

問:原爆投下をどう思うか。

答:原爆は一気に戦争を終結させる目的であり、やむを得なかった。一般的によく知られた説だが、我々捕虜は原爆によって救われたし、早期終戦で多くの人命が救われた。

問:米国は沖縄を守っているつもりか、それとも占領しているつもりか。占領しているとしか思えない。

答:占領などと考えていない。米国は沖縄と日本の安全のために沖縄に軍隊を展開している。米軍の駐留は経済面でも沖縄を助けているという事実がある。

問:沖縄で米兵によるレイプ事件が起こったが、どう思うか。

答:若い米兵が好き勝手なことをしたということだろう。米兵が起訴され、裁判で有罪となればそれに従うべきだ。

問:戦争は正当化できるか。(韓国人女子学生)

答:誰しも戦争を正当化できるものではない。戦争を喜ぶ者なんていない。私は原爆投下予定地の一つ新潟の収容所にいたから、ことさらそう思う。

その他、元捕虜の側からは、「米国将兵2万3000人が降伏して戦争捕虜となった。現在の生存者は100人ぐらいだ。そのうちの6人が今ここに出席している」等の話があり、日本人の参加者からは「元捕虜から直接、話を聞く機会は限られるだろう。貴重な交流会に出席できて幸運だった」等の感想も寄せられました。

メディアは「京都新聞」が取材し、翌日に記事が掲載されました。

市民・学生との交流集会
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