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元捕虜の訪日記録

日本政府招聘によるオーストラリア人元捕虜・抑留者の来日
(2012年10月1日~8日)

2010年10月1日~8日、オーストラリアの元捕虜・抑留者4人とその家族計8人が来日しました。日本政府の招聘による第3回目の訪問団です。4人のうち2人は戦争捕虜としてシンガポールや泰緬鉄道で使役され、あとの2人は民間人として中国やフィリピンに抑留された方々です。

今回、元捕虜だけでなく元抑留者も招聘されたのは、こんな経緯があったようです――2010年度から始まったこの招聘プロジェクトについては、オーストラリア国内で大きく報道されていましたが、元抑留者のベグリーさんはその記事を読んで、キャンベラの日本大使館に手紙を書きました。「私は元民間人抑留者です。9歳の時に抑留され、大変な辛酸をなめました。日本政府は、このような抑留者も戦争の被害者として招聘を考えても良いのではないでしょうか?」と。これがきっかけでベグリーさんら元抑留者も招聘されることになったのだそうです。

今回のメンバーには日本に送られた方はいなかったため、収容所跡地訪問はありませんでしたが、各地で小学生や大学生、市民との交流会が催され、心温かで実り多い交流が繰り広げられました。特に、被爆地広島で市民や子どもたちと交流できたことは非常に意義深く、来日者の方々も大きな感銘を受けたようでした。

来日された皆さんのプロフィール

ウィリアム・シュミットさん(Mr. William H. Schmitt)94歳 元捕虜

南オーストラリア州在住。
1942年3月ジャワで捕虜に。翌年シンガポールに送られ、チャンギ収容所に収容、飛行場の建設作業に従事。赤痢などの病気や飢餓に苦しみ、帰国したときは体重42キロに。
同行:娘Susan Allard さん(65)

コリン・ハムリーさん(Mr. Colin Hamley)90歳 元捕虜

ビクトリア州在住。
1942年3月ジャワで捕虜に。シンガポールを経て、泰緬鉄道に送られ、いくつものキャンプを転々とし、言葉に尽くせぬ苦難を体験。同じく泰緬鉄道に送られた兄(当時22歳)を喪ったことは大きなトラウマとなった。
同行:妻Valerie Jean Hamley さん(84)

エルサ・ハットフィールドさん(Mrs. Elsa Francis Hatfield)88歳 元抑留者

ビクトリア州在住。
上海に生まれ育ったが、1941年12月(当時18歳)、家族と離れオーストラリアに帰国途中、フィリピンに抑留された。1945年2月、米軍のマニラ奪還により解放。戦後、占領軍の一員として広島県呉市などに駐留。
同行の妹June Patricia Martinさん (79) は、上海に抑留された。

コリン・ニール・ベグリーさん(Mr. Colin Neil Begley)79歳 元抑留者

クイーンズランド州在住。
救世軍で働く両親のもと、中国で生まれ育つが、天津の宿舎学校在学中(当時9歳)に開戦。北京の知人宅に一時引き取られた後、1943年初頭から終戦まで、家族と共に揚州の民間人抑留所に抑留された。
同行:妻 Belinda April Begleyさん (62)

旅程

10月1日(月) 成田着 東京泊
2日(火) 東京都内寺社訪問、在京豪大使訪問など 東京泊
3日(水) 東京都内視察、表敬訪問、政府要人訪問など 東京泊
4日(木) 横浜英連邦戦死者墓地訪問、東京都内で市民交流集会 東京泊
5日(金) 各人ゆかりの地や希望地訪問(広島・岡山・静岡など) 地方泊
6日(土) 各人ゆかりの地や希望地訪問。夕方、京都着 京都泊
7日(日) 京都:霊山観音訪問、市内観光など 京都泊
8日(月) 午後、関西空港発

10月2日(火) 東京都内の神社や小学校訪問

板橋区内の神社で日本文化を体験し、小学校では子どもたちの大歓迎を受け、給食の様子を見学しました。

10月3日(水) 玄葉外務大臣表敬訪問

【外務省記者発表要旨】 外務省ウェブサイト >>Link

(要旨) 一行8人は外務省の玄葉大臣を表敬訪問した。大臣は、わが国がオーストラリア人元戦争捕虜を含む多くの人々に対し多大の損害と苦痛を与えたことについて、深い反省と心からのお詫びの気持ちを表明し、今回の来日が日豪の和解と友好に資することを望むと述べた。これに対し、一行を代表してウィリアム・シュミット氏が、この経験は過去のものであり、戦後、日豪の関係は貿易関係等においても良好であり、両国の和解が進んでいることは喜ばしいと述べるなど、友好的な雰囲気の中で意見交換が行われた。

外務省提供

10月4日(木)

<午前> 英連邦戦死者墓地訪問(横浜)

心配された台風も去り、くっきりと晴れ渡った青空の下、オーストラリア大使館主催の慰霊祭が行われました。副大使や武官、外務省の大洋州課長なども列席する中、元捕虜・抑留者の方々はしっかりとした足取りで十字架に献花しました。ハットフィールドさんは戦後区に眠るご長男(呉に駐留中に生後まもなく死亡)のお墓にお参りし、他の方々もオーストラリア区に眠る戦友や知人のお墓を見つけて、感無量の様子でした。その後、大使館心尽くしのモーニングティーを楽しみ、和やかなひとときを過ごしました。

<午後> 市民交流集会(東京)

>>詳細はこちら

会場:大阪経済法科大学東京麻布台セミナーハウス(東京都港区)
主催:元捕虜・家族と交流する会
協力:POW研究会

平日でしたが、ゲストを含め約45人が参加しました。

ゲストが語る体験や思いは四人四様でした。泰緬鉄道での過酷な体験から、日本をひどく憎んだが、ある時、憎しみを持ち続けるのは無意味だと悟り、憎しみを封印したというシュミットさん。泰緬鉄道での自身の悲惨な体験と兄の死により、日本への複雑な感情を持ち続けているハムリーさん。戦中はフィリピンに抑留、戦後は占領軍として日本に駐留し、日本人の苦労もわかったというハットフィールドさん。9歳で中国に抑留されたが、同様に子供時代に戦争の犠牲になった日本人と語り合いたいと話すベグリーさん。ご家族から紹介されたエピソードも大変興味深く、実り多い会となりました。

10月5日(金)~6日(土)ゆかりの地や希望地訪問

シュミットさん父娘は、富士山麓に観光。ハムリーさん、ハットフィールドさん、ベグリーさんとその家族計6人は広島と岡山を訪問し、市民や小学生、大学生と交流しました。

<広島>

●幟町小学校での交流会

幟町小学校は、原爆による白血病で12歳の時に亡くなった佐々木禎子さんの母校です。

体育館に集合した全校生徒約500人が、オーストラリアの第2の国歌といわれるウォルチング・マチルダのBGMと手拍子でゲストを迎えました。校長先生が「6人のお客様は、戦争中苦しい体験をされました。広島市民も長年原爆で苦しみました。学校の友達も沢山亡くなりましたが、みんながお互いに交流を通して、平和への思いを伝えられたら幸いです」と挨拶した後、ハムリーさん、ハットフィールドさん、ベグリーさんがそれぞれの体験を話しました。

その後、6年生の代表2人が日本語と英語で挨拶し、2年生がゲストに折り鶴のレイをプレゼントしました。そして全員で「折り鶴の飛ぶ日」を歌い、最後にまたウォルチング・マチルダのBGMと手拍子でゲストを見送りました。ゲストの方々は大変感動し、思わず涙が流れたとのことでした。

●被爆死した米兵捕虜の慰霊碑の見学

原爆投下時、爆心地から400㍍の距離にあった中国憲兵隊司令部には、中国地方で撃墜された米軍機の搭乗員が12人収容されており、全員が被爆死しました。

自ら被爆者でもある森重昭さんは、丹念な調査の末、彼らの名前を特定し、遺族を捜し当て、その遺影を追悼平和祈念館に登録するとともに、憲兵隊司令部跡に慰霊碑を設置しました。ゲストの方々は森さんの案内でこの碑を見学しました。

慰霊碑には廃墟となった広島と犠牲になった搭乗員の写真、そして「……(前略)このささやかな銘板をもって、戦争のもたらす悲劇を絶えず我々の心に銘じることを願う」と英文で刻まれています。

●オーストラリアから持参した千羽鶴

一行は、佐々木禎子さんをモデルにした「原爆の子の像」を訪ね、ベグリーさんがオーストラリアから持参した千羽鶴を捧げました。ベグリーさんは禎子さんの話を本で読んで感銘を受け、自分の町の子どもたちに呼びかけて、千羽鶴を折ってもらったのです。

森さんが禎子さんの兄の佐々木雅弘さんから預かったメッセージを読み上げました。「……皆様が体感された辛く苦しい思いは二度と他の方々にさせてはなりません。私達はそのことを肝に銘ずる必要があり、代々と世代をこえて伝え続けなければなりません……」

その後、原爆ドームを見学し、原爆慰霊碑に献花し、最後に平和記念資料館を見学しました。資料館で見た映画や展示に、皆さんかなりショックを受けていたようです。

<岡山>

●岡山大学での交流会

捕虜問題の研究者である中尾知代准教授の司会で、ゲスト3人がそれぞれの体験を話しました。ハムリーさんは「これまで私はずっと日本を憎んでいて、戦友が日本訪問の話をしても耳を傾けなかった。しかし、今回の日本訪問でやっと耳を傾けることができる」と語り、ハットフィールドさんは「(占領軍として駐留中)広島で見た原爆の惨状にショックを受けたが、広島は美しい町になり、日本は平和を尊重する国になった」と語りました。ベグリーさんは突然立ち上がって、日本語で「キョーツケ! 番号! 1,2,3……10!」と大きな声を上げ、学生たちを驚かせました。抑留中に覚えた日本語だったのです。学生や市民から沢山の質問があり、熱気のある交流会となりました。

最後に、岡山大学の男声合唱団が「上を向いて歩こう」などの歌を披露し、女子学生のクラリネット演奏による「ほたるの光」でゲストを見送りました。

10月7日(日)京都・霊山観音訪問

京都市東山区にある霊山観音のメモリアルホールには、日本軍の管轄下で死亡した捕虜・民間人抑留者全員(約4万8000人)の名簿が保管されています。前日に京都の全日空ホテルに宿泊された元捕虜・抑留者の皆さんは、この日午前、霊山観音を見学しました。名簿は国籍別・アルファベット順に整理されており、自分の肉親や友人を失った方は、その名前を見つけて改めて過去への想いを馳せられている様子でした。

その後、一行は三十三間堂見学をはじめ、京都市内の観光を楽しまれました。

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