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元捕虜の訪日記録

アメリカ兵捕虜の家族の善通寺・本山訪問

笹本 妙子

来日の経緯

グアム島で捕虜になり、日本国内の収容所に送られたアメリカ人軍医リチャード・ブランド・ウィリアムズ二世(Richard Bland Williams Jr.)の子息リチャード・ブランド・ウィリアムズ三世(Richard Bland Williams 3rd;父と同姓同名)が2010年4月、夫人と共に来日した。

ウィリアムズ氏はメリーランド大学の教授で医学博士。京都の病院で講義をするために4月上旬から下旬までの約3週間日本に滞在し、その間の4月10日(土)〜11日(日)に香川県善通寺市の広島第1分所跡と山口県山陽小野田市本山の広島第7分所跡を訪問、4月17日(土)〜18日(日)には東京でP研会員と懇談した。

父ウィリアムズ軍医について

1941年12月10日、グアム島が日本軍に占領され、同島の海軍病院に勤務していたウィリアムズ軍医は、他の軍人・民間人と共に捕虜となった。

翌1942年1月12日、約420名のグアム島捕虜たちは“あるぜんちな丸”で日本に移送され、15日に香川県多度津港に到着、善通寺俘虜収容所(のち広島第1分所)に収容された。同収容所は太平洋戦争開戦後、国内で最初に開設された収容所で、後に開設された収容所に比べると待遇が良く、日本側からは“模範収容所”、捕虜側からは“プロパガンダ収容所”とみなされていた。

1942年11月末、ウィリアムズ軍医は仲間の医師数人と共に、救急医療班として門司収容所(福岡第4分所)に派遣された。当時、門司港には南方から到着した輸送船で多数の死者や病人があふれており、ここで彼は多くの死者を看取ることになった。

やがて1943年7月、山口県の本山収容所(広島第8分所)に送られ、そこで2年を過ごした後、終戦を迎えた。本山の捕虜たちの証言を読むと、患者たちのために献身的に尽くし、たゆまぬ努力を続けたウィリアムズ軍医に対し、「最大の賛辞を贈りたい」と述べている。

戦後は海軍医療研究所で研究者として働き、1983年に68歳で亡くなったが、家族に捕虜体験を語ることはほとんどなく、息子のウィリアムズ氏がわずかに聞いたのは、前述の門司での体験ぐらいだったとのこと。しかしトラウマを持っている様子はなく、家族に対しても穏和で良き父親だったという。

善通寺訪問

10日(土)の善通寺訪問ではP研会員の小林皓志氏(広島県福山市在住)と森広幸氏(香川県三豊市在住)が、以下の場所を案内した。

1.善通寺収容所跡(現在、善通寺市立西中学校)

2.陸軍墓地にある捕虜の合同墓(10名の米、英、豪出身の名前が刻まれている)

3.乃木資料館(陸上自衛隊善通寺駐屯地内にあり、捕虜関係の資料も展示している)

夫妻はそれぞれの地を感慨深く眺めていたが、夕刻には山陽小野田市に行かねばならず、時間が短くて当時の関係者とは会えなかった。収容所跡の中学で2,3人の女生徒たちと会話を交わし、一緒に写真を撮ったり、地元で評判の讃岐うどん屋さんに連れて行ってもらったのが印象的だったという。

山陽小野田市訪問

その日の夕刻、山陽小野田市に到着。迎えてくれた市役所の職員が焼鳥屋に連れて行ってくれ、大いに盛り上がったという。

翌11日(日)は、まず新聞3社、テレビ局2社の取材を受けた後、収容所跡地を見学。今は何も残っていないが、当時収容所の近くで雑貨屋を営み、収容所に物資を納入していた人のお宅に、当時少年少女だった地元民6人が集まり、当時の思い出を語ってくれた。看守が見ていない隙に捕虜にタバコを差し入れてあげたとか、終戦後投下された救援物資のチョコレートやガムをもらったとか、生鮮食料品と物々交換をしたなどのエピソードを聞いて、ウィリアムズ氏は「当時少年少女だった皆さんとこうして一緒に現地に立ち、当時の記憶を分かち合うのは感極まるものがある」と涙を浮かべていたという。父上の遺品の中にパラシュート生地で作った星条旗があるので、一層このエピソードが印象深かったに違いない。

近くの浜に、1942年末に捕虜たちを門司から本山に運んだ船(団平船という)の残骸が残っており、それも見学した。これは筆者も10年ほど前に見たが、捕虜を運んでから間もなく嵐で沈没し、そのまま70年近くも残っているのだという。満潮時には水面下に隠れてしまうのだが、今回はちょうど干潮時だったので、全体の骨組みが見えたという。

山陽小野田市内には本山収容所の他に大浜収容所(広島第9分所)もあり、これまで捕虜の家族・遺族が2組、昨年はオーストラリアの作家が訪問したが、市役所職員や地元の方々がいつも快く対応して下さり、本当にありがたく思う。

東京訪問

1週間後の17日(土)、ウィリアムズ夫妻が上京、P研会員の長澤のりさんと筆者が品川で落ち合い、昼食をご一緒しながらいろいろな話を伺った。父上は特に体験記などは書いていないが、それでもいくつかの記録を残しており、ウィリアムズ氏はそれをUSBメモリーに入れて持参し、P研に提供して下さった。以下はそれらの記録の一部である。善通寺はプロパガンダ収容所ということもあってか、捕虜たちの生活風景が撮影され、アメリカにまで送られていたことがわかる。

乃木資料館にてウィリアムズ夫妻・小林氏・自衛官

善通寺収容所にてウィリアムズ軍医(右)

ウィリアムズ夫妻の訪問を伝える宇部日報。
 写真の星条旗は捕虜たちがパラシュート生地で手作りし、解放後に本山収容所で掲げた。
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ウィリアムズ軍医が日本軍の捕虜として善通寺収容所に収容されていることを伝える故郷の新聞。
 写真は善通寺収容所内で勉強する捕虜たち。
 記事の日付は不明。
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善通寺収容所内で、部下の捕虜たちがウィリアムズ軍医のために製作して贈呈した手製のエンブレム。
 ウィリアムズ軍医の名前や「日本・四国・善通寺」などの文字が刺繍されている。

エンブレムの裏面。

門司収容所(福岡第4分所)のウィリアムズ軍医から故郷の両親宛の俘虜郵便。
 収容所長の竹田中尉の検閲印がある。
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同左。「カリフォルニア・コロラド1943年9月15日」の消印がある。
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本山収容所でのウィリアムズ軍医(1943年)。
 髪が短く刈られている。

トルーマン大統領からウィリアムズ軍医への帰還祝いの手紙。
 1945年12月14日付。
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