POW研究会トップ活動報告元捕虜の訪日記録>日本政府招聘によるオーストラリア人元捕虜・抑留者の来日 2014-10
 
元捕虜の訪日記録

日本政府招聘によるオーストラリア元捕虜とその家族の来日
(2014年10月20日~10月27日)

2014年10月20日~10月27日、日本政府の招聘で、元オーストラリア人捕虜4人とその付添家族8人、計12人が来日しました。今回で5回目となる招聘でした。元捕虜の方々は全員90歳以上、最高齢97歳という皆さんでしたが、様々な日本人と交流し、充実した日程をこなしていかれました。リッジウェルさんが4日目に体調を崩し、その後の行程には参加せずに帰国されましたが、他の皆さんは元気に全行程を終えられました。リッジウェルさんを含め全員無事に帰国されたのは何よりでした。

22日の交流会はTBSテレビや東京新聞が取材に来ました。直江津に行かれたヒルさんにはテレビ朝日系の新潟放送が同行取材し、その様子はスーパーJ新潟で放映されました。また朝日新聞・上越タイムズ・新潟日報でも報道されました。

来日された元捕虜の方々の略歴

ルイス・ローレンス・セドリック・ヒルさん(Mr. Lewis Lawrence Cedric Hill) 91歳

1923年6月24日生まれ。ヴィクトリア州ワンティナ在住。
ジャワで捕虜となり、日本の直江津収容所に送られる。

付添:
イボンヌ・プリティさん(Mrs. Ivonne Pretty) 娘 60歳
ロデリック・ヒルさん(Mr. Roderick Hill) 息子 58歳

ミルトン・(スノウ)・フェアクロウさん(Mr. Milton (Snow) Fairclough) 93歳

1920年8月28日生まれ。西豪州ヴィクトリアパーク在住。
ジャワで捕虜となり、ダンロップ部隊の一員として泰緬鉄道に送られ、建設工事に従事。

付添:
リディア・クレーンさん(Mrs. Lyndia Crane) パートナー 65歳

リチャード・リッジウェルさん(Mr. Richard Ridgwell) 96歳

1918年1月25日生まれ。西豪州マウント・プレザン在住。
シンガポールで捕虜となり、チャンギ収容所を経て、泰緬鉄道に送られる。

付添:
ジム・リッジウェルさん(Mr. Jim Ridgwell) 息子 63歳

ラッセル・ユーウィンさん(Mr Russell Ewin) 97歳

1916年11月5日生まれ。ニューサウスウェールズ州ベルローズ在住。
シンガポールで捕虜となり、チャンギ収容所へ。1942年7月、ボルネオ島(カリマンタン島)サンダカンに移送、地下活動の一員となる。1943年10月サラワクのクチン収容所に送られる。

付添:
リチャード・ウォレス・ブレイスウェイトさん(Richard Wallace Braithwait) 友人 67歳

おもな日程

10月20日(月) 成田着 【東京泊】
21日(火) 国会議員との交流、豪大使館訪問等 【東京泊】
22日(水) 外務省表敬訪問、市民交流会等 【東京泊】
23日(木) 横浜英連邦戦死者墓地訪問 【東京泊】
24日(金) 地方旅行 【地方泊】
25日(土) 地方旅行→京都 【京都泊】
26日(日) 京都霊山観音にて死亡捕虜の名簿閲覧 【京都泊】
27日(月) 関空発

国会議員との懇談会~元朝鮮人戦犯との対面

10月21日午後、参議院議員会館において、豪元捕虜の皆さんと国際IC推進議員連盟(IC議連)の国会議員の皆さんとの懇談会が行なわれました。今回来日した4人の元捕虜のうちフェアクローさんとリッジウェルさんは泰緬鉄道に送られ、フェアクローさんはヒントク、リッジウェルさんはヘルファイヤーパスで使役されました。ヒントクは有名なダンロップ軍医がいた所であり、また朝鮮人の李鶴来(イ・ハンネ)さんが監視員を務めていた所でもありました。フェアクローさんの手記には、李さんと思われる監視員のことが書かれています。「The Lizard(トカゲ)」というあだ名の残酷な監視員で、フェアクローさんが赤痢による下痢で苦しんでいたときに、彼を仕事に出そうとして殴ったが、ダンロップ軍医が断固として拒否してくれた、という話です。

ところがその李さんが、参議院議員の藤田幸久さんの働きかけで、元捕虜の方々に会うことを決意し、IC議連との懇談の場に参加されました。元捕虜の方々が一通り話を終えると、藤田さんが李さんを紹介し、李さんは事前に用意した次のような原稿を読み上げました。

「私は元BC級戦犯の李鶴来ですが、戦時中は泰緬鉄道建設にヒントク分駐所で俘虜を使役し、管理業務に従事しました。今日は、はからずも、元俘虜の方々と家族らにお会い出来、感無量です。1943,44年頃の収容所の状況は、粗悪な生活環境、きびしい労働環境、病気になっても必要な医療も受けられず、多くの俘虜が犠牲になりました。日本軍の加害者の一人として、改めて深くお詫び申し上げます。私は戦後俘虜を虐待したとして、オーストラリア俘虜9名から、一度ならず二度も告訴され、当初は死刑の判決を受けて、後程20年に減刑により、1951年日本に移管、1956年10月釈放になり、日本に60年も住んでいますが、日本政府に釈放後の処置、謝罪と補償を鳩山一郎内閣以来歴代内閣に半世紀以上も要請しておりますが、誠意がなく、未解決のまま、不条理が続いているのです。(後略)」 李さんの話を聞いたフェアクローさんは呆然とし、会が終わると、息子さんが通訳の所に飛んできて、「彼の名前は何というのか?」と訊きました。そしてお父さんの話に出てくる朝鮮人監視員李鶴来(日本名:広村鶴来)だということが分かると、やはりそうかと複雑な顔をしていました。その後、全員で記念写真を撮りましたが、フェアクローさんは李さんには近づかず、リッジウェルさんが李さんに握手していました。

元捕虜の方々(右)に謝罪の言葉を述べる李鶴来さん(左)
前列は元捕虜の方々と李鶴来さん(中央)

(笹本妙子)

市民との交流会

10月22日午後、大阪経済法科大学麻布台セミナーハウスにおいて市民との交流会がおこなわれました。元捕虜のみなさん4人と付き添いのご家族等5人計9人をお迎えし、POW研究会会員を含む一般参加者は50名と盛会でした。詳しくはPDFをご覧ください。 >> PDFへのリンク

元捕虜と家族の方々

ブレイスウェイトさんのお話~サンダカン死の行進~

10月22日豪元捕虜との交流会後、POW研会員等12名がユーウィンさんの付き添いとして来られたリチャード・ウォレス・ブレイスウェイトさんのお話を伺いました。ブレイスウェイトさんはサンダカン死の行進で生き残った6名の捕虜のうちの一人、ディック・ブレイスウェイトさんの息子さんです。お話は約2時間におよび、参加者は貴重なお話に聞き入りました。詳細はPDFをご覧ください。 >> PDFへのリンク

父の体験を語るブレイスウェイトさん(左から2番目)

英連邦墓地訪問

4日目の10月23日(木)、元捕虜と家族の皆さんは英連邦墓地を訪問し、戦友たちの墓標に花を奉げました。P研からは笹本、田村、原田、村田、新会員の渡辺洋介、小宮の6人が参加しました。

リッジウェルさんが体調を崩して来られませんでしたが、あとの3人は矍鑠とした足取りでバスを降りてこられました。あいにくの雨でしたが、大使館による厳かな慰霊式の後、オーストラリア区に眠る戦友たちの墓碑を1人1人丁寧にご覧になっていました。

その後、イギリス区に張られたテント内に移動。墓地管理人の小林賢吾さんのアレンジで、近くの瀬戸ヶ谷小学校4年生31人が、元捕虜の方々のために歌を歌ってくれました。可愛らしい歌声に皆さん相好を崩し、一緒に足でリズムを取って楽しんでおられました。

さらに子供たちが3グループに分かれて、3人の元捕虜の方々に様々な質問をしました。「オーストラリアにはどんな動物がいますか?」「オージービーフを食べますか?(爆笑)」といった他愛ない質問から始まって、それぞれの戦争体験などにも及びました。素晴らしい交流だったと思います。

仲間の墓碑に見入るヒルさん父子 ユーウィンさんと子供たち

(笹本妙子)

地方訪問 ヒルさんの直江津訪問

10月24日(金)~25日(土) 、ルイス・ローレンス・ヒルさんと娘のイボンヌさん、息子のロッドさんは新潟県上越市の直江津を訪問しました。ヒルさんは1942年12月8日~45年9月4日まで約2年9か月の間、日本軍の捕虜としてここ直江津の東京俘虜収容所第4分所(直江津収容所)で過ごしました。P研から高田ミネが同行し、直江津では上越日豪協会の近藤会長や元会長でP研会員の石塚夫妻などが出迎えました。詳しい報告は、PDFをご覧ください。 >> PDFへのリンク

地方訪問 フェアクローさん、ユーウィンさんの広島訪問

10月24日(金)~25日(土) 、ミルトン・フェアクロー(93)と息子のデニス・フェアークロー、及びラッセル・ユーイン(97)と友人のリチャード・ブレイスウエイトの各氏が広島を訪れました。外務省大洋州課の箕谷 優さんと通訳の八重樫礼子さんが付添い、広島では森重昭さんご夫妻とP研会員の小林皓志他、広島通訳ガイド協会の2名がお迎えしました。詳しい報告は、PDFをご覧ください。 >> PDFへのリンク

京都霊山観音訪問

10月26日、地方訪問を終えて再び京都に集合した皆さんは、京都東山の霊山観音を訪問しました。霊山観音にはアジア太平洋戦争で亡くなったすべての外国人がカード化され国籍別に収納されています。

P研会員のモートンさんが箱に入った国籍別の名簿を取りだし、皆さんに説明。その後元捕虜の皆さんは、棚の引き出しの中の捕虜のカードを思い思いに探されました。

ユーウィンさんが交流会の時、そして横浜の墓地訪問の時にもお話になった弟さん(泰緬鉄道完成後、楽洋丸に乗せられ、日本に向かっている間に攻撃され沈没、死亡)のカードもありました。[12-9-44 Missing on board ship, Rakuyo Maru] またサンダカンで地下活動が発覚し処刑されたと話されたマシュー中尉のカードも。「1944年月3月2日銃殺、クチンのキリスト教墓地に埋葬」とタイプされていました。

フェアクローさんはタイの収容所で6人が射殺されるという事件があったが彼等の記録が無い、終戦間近のこと、きっと書類は憲兵隊によって処分されたのではないか、彼等の記録はオーストラリアにも無い、とおっしゃいました。またフェアクローさんは収容所に届いた両親からの葉書3枚をお持ちでした。それぞれ1944年3月2日、1945年5月13日、6月2日。受け取った時のことを尋ねると、「そりゃ、もう抱きしめたよ」と。誰にでも読めるよう、大きく全て大文字、その数行のみの文面には家族からの万感の思いが込められていることがよく分かりました。

ヒルさんも直江津の後の京都ですが、大変お元気でした。昭南神社の建設作業に従事したとのことで、追ってゆっくり伺うことにしました。忙しいけれどいろんなことがあり楽しい旅だよ、と口ぐちにおっしゃった皆さん、良い余韻を持ってこの招聘旅行を思い出して頂けたら、と願います。

モートンさんは、10月は毎週末様々な用事で外出、そしてこの米・豪の招聘旅行の件での京都での案内と大変忙しかった様子です。霊山観音では最近お坊さんがご挨拶に出られることも無く、モートンさんのみで対応しています。もちろん事前の掃除や後片付けも。今回の後片付けは豪元捕虜のお子さん達が一緒に手伝って下さいました。棚の中の各戦地からの砂などに添えられた国旗の数々がひどく色あせ、かつて盛大に式典が行われた折の赤じゅうたんもなく、頻繁に訪れる参拝客や観光客すら足を運ぶことのない、この忘れられたような第二次世界大戦戦死者を弔う場所、戦後70周年ではどのような立ち位置になるのかとも思いました。

死亡捕虜名簿を見せるモートンさん フェアクローさんに届いた両親からの葉書
霊山観音の前で記念写真

(田村佳子)