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元捕虜の訪日記録

日本政府招聘によるアメリカ兵元捕虜の来日
(2011年10月16日〜23日)

2011年10月16日〜23日、アメリカの元捕虜7人とその家族が来日しました。日本政府の招聘による第2回目の訪問団です。全員フィリピンで捕虜となり、福岡県大牟田市に送られた方が2人、富山県高岡市が2人、満州の奉天と岐阜県神岡町が1人、川崎と日立が1人、奉天が1人でした。日本に来る前は逡巡と葛藤があったが、多くの日本人に温かく迎えられ、長い間囚われていた感情から解き放たれたと語る人もあり、誰にとっても印象深く充実した旅であったようでした。

来日された皆さんのプロフィール

ロバート J. フォグラー(Robert J. Vogler)さん (90) 訪問団長

カリフォルニア州サンディエゴ在住。1940年、陸軍航空隊に入隊。「バターン死の行進」を歩きました。1942年10月、「鳥取丸」で中国の奉天(現・瀋陽)に送られ、1944年5月に日本の神岡(岐阜県、名古屋第1分所)に移送されました。彼と夫人は1997年、神岡を再訪し、鉱山や町の関係者、一般市民や小学生から暖かい歓迎を受けました。(同行:息子)

オスカー・レオナード(Oscar Leonard)さん(92)

カリフォルニア州パラダイス在住。1939年、アイダホ州警備隊に入隊。その後1940年に陸軍航空隊に入隊。1942年6月、ミンダナオ島で捕虜となり、1942年10月、「鳥取丸」で日本に移送。川崎(東京第2分所、第5派遣所)と日立(東京第7分所)の捕虜収容所に収容されました。戦後薬剤師となり、今でも近所の薬局を臨時で手伝っています。(同行:妻)

ハロルド A. バーグバウアー(Harold A. Bergbower)さん(91)

アリゾナ州ピオリア在住。1939年、陸軍航空隊に入隊。1942年5月にミンダナオ島で捕虜となり、1944年8月、「能登丸」で日本に送られました。高岡市の能町捕虜収容所(富山県、名古屋第6分所)に収容され ました。戦後も空軍に留まり、日本の航空自衛隊を訓練するため再来日し(1954−1957)家族と共に、浜松と板付(福岡)に滞在しました。(同行:娘)

ロイ・エドワード・フリース(Roy Edward Friese)さん(88)

カリフォルニア州カリメサ在住。1941年に陸軍航空隊に入隊。 1942年5月にコレヒドール島で捕虜となり、1943年7月、「クライド丸」で日本に送られました。大牟田捕虜収容所(福岡県、福岡第17分所)に収容されました。戦後、陸軍に再入隊し、1947年に空軍に移籍しました。20年間の軍人生活の後、引退しました。(同行:娘)

ジェームス C. コーリア(James C. Collier)さん(88)

カリフォルニア州サリナス在住。1940年に16歳で陸軍航空隊に入隊。1942年5月にコレヒドール島で捕虜となり、1944年8月、「能登丸」で日本に送られました。高岡市の能町捕虜収容所(富山県、名古屋第6分所)に収容されました。戦後31年間、高校と公立短大で英語と心理学を教え、進路指導員も務めました。(同行:息子)

ハリー・コーレ(Harry Corre)さん(88)

カリフォルニア州ロサンゼルス在住。1941年に陸軍入隊。1942年5月にコレヒドール島で捕虜となり、1943年7月、「クライド丸」で日本に送られました。大牟田捕虜収容所(福岡県、福岡第17分所)に収容されました。現在も、ロサンゼルス退役軍人病院で、患者の立場の代弁者として働いています。(同行:妻)

ラルフ E. グリフィス(Ralph E. Griffith)さん(88)

ミズーリ州ハンニバル在住。1941年17歳で陸軍に入隊。1942年5月にコレヒドール島で捕虜となり、1942年10月「鳥取丸」で、朝鮮を経由して中国の奉天(現在の瀋陽)に送られました。戦後は鉄道会社で37年間働き、引退しました。(同行:妻)

旅程

10月16日(日) 成田着 東京泊
17日(月) アメリカ大使館訪問・外務省訪問・テンプル大学講演など 東京泊
18日(火) 地方へ:収容所跡など各人の希望地(大牟田・高岡・東京)訪問 地方泊
19日(水) 夕方、京都へ 京都泊
20日(木) 京都:霊山観音・金閣寺・立命館大学国際平和ミュージアム訪問 京都泊
21日(金) 東京へ:国会議員との懇談・記者会見 東京泊
22日(土) 英連邦戦死者横浜墓地訪問・市民交流集会 東京泊
23日(日) 帰国

10月17日(月)玄葉外務大臣表敬訪問

【外務省記者発表要旨】 外務省ウェブサイト >>Link

大臣は一行を歓迎し、「今回で二回目を迎えたこのプログラムを通じて皆様の日本に対する“心の和解”を促進できることを願っている。特に戦争捕虜として悲惨な経験をされた皆様が多大な損害と苦痛を受けたことに対し,改めて心からのお詫びを申し上げる。より良い日米関係のために関係者との和解に向けて引き続きしっかり取り組んでいきたい」と述べた。一行を代表してロバート・フォグラー氏より「日米の友情を確認できるこうしたプログラムに関する日本政府の取り組みは素晴らしいものだと認識している,こうしたプログラムを通じて,日米の更なる友情が築かれることを望んでいる」と述べた。

10月18日(火)〜19日(水)

<バーグバウアーさん、コーリアさんの富山県高岡市訪問>

収容所のあった北海電化伏木工場(現・日本重化学工業)を訪ね、所長や社員たちに体験を話す 高岡市長(右から3人目)を表敬訪問、あたたかい歓迎を受ける。

2人は、日本重化学工業と市長訪問の他、高岡市内の公園やお寺などの観光も楽しみ、市民や子どもたちが親しく声をかけてくれるのがとても嬉しそうでした。

<フリースさんの福岡県大牟田市訪問>

コーレさんは奥様の怪我のため、大牟田行きを断念、フリースさんだけの訪問となりました。収容所跡地、炭鉱跡地、石炭産業科学館などを訪ねましたが、どこでも心温まる歓迎を受け、大勢の報道陣に囲まれ、日本の変わりように感慨ひとしおのフリースさんでした。

<フォグラーさん、レオナードさん、グリフィスさんの東京・平和島訪問>/p>

戦中、この付近に大森収容所(東京俘虜収容所本所)がありました(3人がいた収容所ではありません)。終戦直後、ここは「大森プリズン」となり、東条英機元首相を始めとするA級、BC級戦犯を収容した時期もありましたが、やがてその跡地に競艇場の観客スタンドが建ち、一帯は一大レジャーランドとなりました。平和島観音像の由来記には「この場所は、戦中は俘虜収容所があったところ、戦後はわが国戦犯が苦難の日々を送ったいわば『戦争と平和の因縁の地』……」と書かれています。

東京都大田区の平和島観音像前にて

10月20日(木)京都訪問

<霊山観音>

ここには、国内外で死亡した捕虜の名簿や個人カードが保管されており、全員で閲覧しました。コーリアさんが親友の名前を見つけ、涙をこらえきれなくなった姿が印象的でした。

<立命館大学国際平和ミュージアム>

同館の高杉館長やスタッフ、ボランティアガイド、立命館大学の藤岡教授や学生など30人近くが集まり、元捕虜や家族の方々と懇談しました。その後、同館の展示を見学。日米の人々の間で熱心にいろいろな話を交わす姿が見られました。

10月22日(土)

<英連邦戦死者墓地 (横浜保土ヶ谷)訪問>

ここは、主に第2次大戦中、捕虜として日本国内で亡くなった英連邦の兵士たち1700余人が眠っている墓地ですが、納骨堂には例外的にアメリカ兵48人の遺骨も納められています。戦争末期、フィリピンから捕虜を乗せて日本に向かった輸送船「鴨緑丸」が、出港直後に米軍の爆撃で沈没、乗り継いだ「江ノ浦丸」も高雄で爆撃されて沈没、最後に乗り継いだ「ぶらじる丸」がかろうじて門司にたどり着いた時、息絶えてしまった人々の一部です。一行は納骨堂にお花を捧げました。

<市民交流集会in東京> >>詳細はこちら

会場:大阪経済法科大学東京麻布台セミナーハウス(東京都港区麻布台)

主催:元捕虜・家族と交流する会

協力:POW研究会/捕虜 日米の対話

集会には市民や学生など約70人(元捕虜・家族を含む)が参加し、元捕虜の方々が語る体験談に熱心に耳を傾けました。ご高齢の上に旅の最終日とあって、皆さん大変お疲れでしたが、会場からの質問にも誠実に答えて下さり、帰りがけには口々に「真の意味の相互理解の基礎を作っていく意義ある会だった」「この交流会は本当に意味深いものだった。ありがとう」との言葉を残して行かれました。

元捕虜の方々からプレゼントされたメダル。表には「日本人とアメリカ人捕虜の友好プログラム—歴史的な出来事—、2011年10月17日、日本」、裏には「希望、夢、自由、友情、ついに実現」と書かれていました。

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