POW研究会トップ活動報告元捕虜の訪日記録日本政府招聘によるアメリカ兵元捕虜の来日>アメリカ人元捕虜と日本の市民との交流会
 
元捕虜の訪日記録

アメリカ人元捕虜と日本の市民との交流会

ロバート J. フォグラーさん

(日本語で)コンニチハ! 私たちは(日本に来て)素晴らしい日々を過ごしています。日本政府および日本の皆さんが私たちのためにしてくださっている様々な素晴らしいことに感謝しています。今まで(5日間)あちこち見物させていただいて日本の違う側面をいろいろ勉強することができました。友情というのはとても大事なものです。私たちは希望と夢と自由を携えてここに来、そしてついに友情が実現しました。私たちは時々、“友情”という言葉が意味するものは何だろうと考えるのですが、あなた方がその意味を確かに示してくださいました。本当にありがとうございます。

私はカリフォルニアのサンディエゴの町からやってきました。背丈は6フィート2インチ(約187センチ)、体重は210ポンド(約95㎏)、そして90歳です。私は軍隊生活を勤めあげた後、エンジニアとしても仕事をしてまいりました。その後引退してから30年程経っております。

簡単ではありますが、戦争体験についてお話します。私はバターンにいて、悪名の高いバターン死の行進を歩かされました。その後船で滿洲に送られ、奉天(現・瀋陽)の収容所に入れられました。私は非協力的であるとみなされていました。規則にあまり従わなかったので、日本の(岐阜県)神岡にある収容所に移送されました。そこの鉛鉱山で大変な労働をさせられました。「シゴト タクサン」。そこで一人の看守の方と友人になり、素晴らしい友情をはぐくむことができました。その友情は彼のご家族とその後45年に亘って続いております。その方は岡田政雄さんです。昨日、岡田さんの長男ご夫妻にお会いすることができまして、とても感動いたしました。実は、私は戦後日本に5回来ております。神岡にも一度訪問しましたが、大歓迎を受けました。サンディエゴの市長も参加したのですが、皆さんが非常に親切に出迎えて下さいました。それは、日本の学生をアメリカの我が家に数週間ホームステイさせた後のことです。私たち夫婦はその学生のアメリカでの両親になりました。これが私の体験です。残りの部分はいいでしょう。私の心は少しずつ変わりつつあります。ありがとうございました。

オスカー・レオナルドさん

フォグラーさんが自由ということを仰いましたが、まさに私の気持ちを表現して下さいました。私はミンダナオでシャープ少将の直属の指揮下にありました。バターンとコレヒドールの陥落後は約一カ月間ゲリラとして戦いましたが、彼が(本国から)命令をうけたため、私も降伏するよう命令されました。シャープ少将は降伏せよとの直接の命令を受けるまで、降伏しようとしませんでした。そして私はマニラ発の一番最初の捕虜輸送船の一つであった鳥取丸に乗せられました。マニラから大阪まで42日かかりました。その後大阪で汽車に乗せられて、川崎に送られました。私は川崎で私の捕虜生活のほとんどを過ごしました。その間三井倉庫、三菱、昭和電工、(もう一つ企業名あり)それらの企業で働かされたのですけども、その後これらの施設はほとんど空襲にあいまして焼けおちました。そして終戦間近の7月、私たち100人の捕虜は日立の銅山と精錬所に送られました。それは7月1日のことでした。そして7月22日(私が以前いた)川崎の収容所が空爆され、22人の捕虜仲間が爆死するということがありました。

天皇が終戦の宣言をして、日本が降伏をした後、9月2日に特別捜査官が収容所にやってきて私を連れていきました。私は平和条約が調印された時ミズーリ号にいた数少ない捕虜の一人です。そこから徐々にアメリカに戻りました。入隊を決める前から、医学準備コースに通っていたのですが、軍隊生活を経験して、必要とされる全ての教育課程を成し遂げるのは自分には難しいと感じました。そこで、薬学の道に進みました。92歳になった今でも薬局で仕事をしております。

ハロルド A. バーグバウアーさん

私の名前はハロルド・バークバウアーと申します。私は今アリゾナのピオリアという所に住んでおります。フェニックス市の少し郊外にあります。1939年から1969年まで従軍し、1940年にフィリピンに着きました。戦争中にマーティンB-10のフライトを3回こなし、フィリピン・スカウツと共に2か月半騎馬戦を繰り広げました。そしてミンダナオ島で捕虜となり、4つの捕虜収容所に入れられました。その後日本に送られ、富山の近くの名古屋第6分所(高岡市)に送られました。日本では富山の日本重化学工業(現)で働かされておりました。先の火曜日に彼らとお会いしまして、彼らは私たちが収容所で行った作業に対して感謝を示してくれました。一つだけ申し上げたいことは、富山でのある女性たちのことです。彼女たちはよく、我々に合図を送り、食料のある場所を示してくれました。そして、我々は後で食料を拾いにいったものでした。彼女たちはとても親切でした。今回の旅では日本の人々に対して目を開かれる思いを致しました。彼らはとても親切で、日本重化学工業で私どもは大変歓待を受けました。このようなプログラムが今後も成功裏に続いていけばと願っております。

ロイ E. フリースさん

私はエドワード・フリースです。私は1923年にワシントンのシアトルで生まれました。フィリピンに直接船で送られましたが、南の島での休暇に行くような気分でした、12月7日までは。

一年半程フィリピンの収容所にいた後に、日本の門司に船で送られました。船では500人もの捕虜がこの会場より少し小さい部屋に入れられました。門司から電車で福岡17分所(大牟田)に送られました。そこで私たちは炭鉱作業をあてがわれました。二年間の炭鉱での強制労働の後、日本が降伏し、ようやくアメリカへと帰国しました。その後も福岡17分所でひどい目にあったということに対する憎しみというか、嫌な思いというものを私は忘れることができませんでした。(今回大牟田を訪問したのですが)、そこでの歓迎にとても驚きました。沢山のパパラッチがいて、映画スターのために用意されたのかと思いました (笑)。人々はとても親切で、快く受け入れて下さいました。戦時の体験からはこのようにもてなしていただけるとは夢にも思いもしませんでした。全ての状況に対する心境の大きな変化が本当に起きています。日本でとてもよい時間を過ごすことができました。旅行のスケジュールはとてもタイトで忙しかったのですが、全ての瞬間をとても楽しみました。ご支援していただきましてありがとうございました。

ジェームズ(ジム)・コーリアさん

私はジェームズ・コーリアと申します。以前は教師で、進路指導員のようなこともしていましたが、引退してカリフォルニアのサリナスに在住しております。サリナスは世界のサラダボウルのように多文化に満ちております。日本に来られて大変嬉しく思います。私はこの旅に出る前は非常に複雑な錯綜した思いでおりました。私は日本に行っていったい何をどのように感じるのか、想像もつかない状態でした。しかし、来て本当に嬉しく思っています。私はこのグループの中では赤ん坊だと思います。まだ88歳ですから。

私は1940年7月にフィリピンに派遣されましたので、パールハーバーが始まった時は既に一年半以上フィリピンで軍務についておりました。私は12インチ艦砲の砲兵としてコレヒドール島に駐留していました。我々のコレヒドールでの任務は、日本海軍がマニラ湾を通過して侵入してくるのを防ぐことでした。バターンが陥落するまではうまくいっていたのですが、我々は島を降伏しなければなりませんでした。コレヒドールの後、カバナツアンの第3収容所に送られましたが、食事といえば水っぽいご飯とたまねぎ汁でした。どういうわけか、日本軍はたまねぎしか持っていなくて、それを茹でたのですが、澄んだ水の中にたまねぎの断片がごくわずかに浮かんでいるというようなものでした。アメリカ人は米の正しい料理の仕方も分かりませんので、決して口にあうような美味しいものではありませんでした。これは重大なことでした。というのも、マラリアにかかったりすると、食欲がなくなってしまうからです。とにかく食べ物が口に合わないので、ますます状況が悪くなりました。そのために多くの者の病状が悪化していったのだと思います。カバナツアンの後、少しの間Carchio(クラーク飛行場?)で日本軍の飛行機を爆撃から守るための舗装作業をやらされました。

1944年8月25日、能登丸で日本に輸送されました。最初は門司上陸し、瀬戸内海を進み、大阪では一晩砂利の上で寝ました。大変背中が痛くて辛かったのを覚えています。その翌日(富山県)高岡送られ、能町工場で働かされました。それは現在日本重化学工業という違う会社になっております。我々のマントラ、収容所で口にしていたのは、「シゴト タクサン、メシ スコシ」というものでした。いつも同じ不満でした。我々は或る晩日本人の軍曹にこのことを告げると、彼は「あぁ、食欲は健康のバロメーターである」と言いました。しかし食事は増えませんでした! あと2つのことをお話ししたいと思います。一つ目は、私はバーグバウアーさんと同じ収容所にいたのですが、14日間働いて、一日休みがある、というような状態、しかも日が昇る時間から日が沈む時間まで長時間労働でした。そしてレクリエーションや気晴らしといえるようなものは一切なく、1944年9月から解放される1945年9月までの1年ちょっとに及ぶ間、ただただ感覚に対する絶え間ない攻撃の日々でした。最後にもう1つお話します。私は何年もの間、どこに行っても、パーティーであれ、社交の場であれ、「コーリアさんは“天皇の賓客”でありました」と紹介されていたものでした。今、我々が真に天皇の賓客であることは、とても皮肉なことであると思います。

ハリー・コーレさん

私の名前はハリー・コーレと申します。私はコレヒドール島で他の兵士、民間人、上官たちと共に捕虜になりまして、その後カバナツアン収容所に他の捕虜と入れられ、二年程おりました。私が収容所にいた間に、毎月非常に多くの捕虜達が死んでいきました。一番多い時には一日に50人から60人の死んだ捕虜を埋葬することがありました。私はそこに2年間いて、その後日本に送られました。ここにいらっしゃる紳士(フリースさん)と共に、炭鉱で働かされるために大牟田に送られました。炭鉱では10日間続けてずっと働きまして、10時間から14時間毎日労働しました。10日目になると、シフト交替のために、仕事を終えました。大牟田の炭鉱で重傷を負った者たちも沢山いました。なぜなら、坑道は長く、地上より低い部分は海から浸水していました。また、炭鉱内の状況はとてもひどく、落盤が何度もありました。私自身もそのような二回の落盤から逃げ出しました。二回目は大変重傷を負うような怪我をしてしまったので、彼らは私を炭鉱内の仕事に再び送ることができませんでした。なので、私は炭鉱内で使う機材の清掃などを炭鉱の外でしていました。そのような状態で私がちょうど外作業に縱事していた時に(長崎に)原爆の一つが落とされました。その後アメリカに送還されるまで、原爆からの放射性降下物のある収容所に2カ月間いました。

アメリカに戻ると学校に戻り、エンジニアになって東海岸から西海岸側に来て仕事をして、ロサンゼルスに60年間これまで住んでおります。26年程、航空事業関係でエンジニアとして仕事をして引退し、それからしばらくいくつかの仕事もしましたけれども、また再び引退しました。現在は、ロサンゼルスの政府の病院で退役軍人管理局というのがあるのですが、そこで働いております。海軍、陸軍、海兵隊等全ての退役軍人のための病院です。妻もそこでボランティアとして働いています。私は幸運なことに給料をいただいております。病院での仕事の他に無給でもう一つ仕事をしております。捕虜のための支援組織と呼ばれるもので、兵士だった時に負った病気や怪我の補償を得ようとしている元捕虜の方たちが私のところに来ます。これが私がしていることです。あともう1つだけ言うことがあるとしたら、私は88歳です(笑)。

ラルフ・グリフィスさん

私はラルフ・グリフィスと申します。ミズリー州のハンニバルという町に住んでおります。

私は17歳の時に陸軍に入りまして、フィリピンの方に着任いたしました。そしてコレヒドール島で基礎訓練を受けましたが、第一次世界大戦当時の軍備を備えているに過ぎませんでした。最後にコレヒドール島が陥落し、ビリビットの捕虜収容所に収容され、それからカバナツアンに収容され2、3か月ほどおりました。それから輸送船の鳥取丸に乗せられ、台湾の台北に行って海軍の潜水艦に拾われました。そこから韓国の釜山に行きました。私どもは熱帯用の服しか持っていなかったので、釜山で暖かい服が支給されました。それから列車で満州の奉天に向かいました。私は奉天では滿洲工作機械(MKK)という工場で労働をさせられました。そして終戦時に8人のアメリカ兵がパラシュートで降りてきまして、私どもを解放しました。彼らが日本人に戦争は終わったと告げました。その後、ロシア軍が来まして、正式に私どもは解放されました。私は奉天に恐らく2か月いました。そしてロシア軍に列車に乗せられ、大連に行きました。そして病院船に乗せられ沖縄に行き、沖縄からマニラ、そして故郷へ帰りました。皆さんのお手元にある写真は私が23歳で戦後帰国した時の写真です。それだから笑っているわけなのです。ありがとう。

もう一点お話ししたかったことは、私はこの招へい事業に参加させていただけたことを、日本政府に感謝したいと思います。日本の人達はとても親切で、大変礼儀正しく感謝いたします。

質疑応答

Q: 皆さまに御苦労様とまず言いたいと思います。でも考えてみるとあなたがたの辛い厳しい仕事というのは、日本の大企業の利益の為に行われたもので、給料も受け取らず補償も受け取ることができないという事実がまだ残っています。最近韓国政府はそういう戦犯企業に対して韓国の公共事業の小さいものですね、1800万円以下のプロジェクトについては参加できないというガイドラインを出したんです。そういう動きについて皆さんはどうお考えになりますか? もしお苦しい話についてお返事したくないというのであれば、別にお返事しなくても結構です。

A: ご質問を充分に理解しようとはしますが、私たちは平和を構築するための招待を受けて今こちらに来ておりまして、特別な対談のためではありません。ですので、申し訳ございませんが、厳密な友情のみを求めています。それが我々がここにいる理由です。この友情を続けていきたいと思います。とても素晴らしい友情だと思っています。ありがとう。

---

Q: 捕虜収容所でアメリカの水兵を見かけた方はいますか? 軍艦で捕獲された方は? 海軍のアメリカ人捕虜に関する情報をお伝えしたいのです。ありがとうございます。

通訳: この方からのプレゼンの本です。

A: 沢山いました。コレヒドールで捕まった者、哨戒用魚雷艇で捕まった者、潜水艦で捕まった者、様々です。彼らは歩兵としても戦わなくてはいけませんでした。

---

Q: 一点お伺いしたいのですが、惨めな状況の日々で、皆さんを支えたのは何ですか?自分の国へ帰れると信じる精神はどこから来たのですか? 何があなたを突き動かしたのですか? 意思を留めておくことができたのはなぜですか?

A1: 色々作り話をしました。よく短い詩をつくっていました。例えば「45年には生きて故郷に帰る」、「48年にはゴールデンゲートを見る」。幾つかはつまらない詩ですが、我々は士気を高めるためにこのような多くのことをしていました。

A2: 一つ覚えているコメントがあって、それは、炭鉱で20年働いても最後は帰れるだろう、多分、と話したことがありました。

A3: カバナツアンではもちろん娯楽が何もありませんでした。そこで夜になると座って、タバコを持っている幸運な者はタバコを吸い、色々な話をしたものでした。その中に、米西戦争の時にフィリピンに来た者が軍隊の中にいました。彼らは40代で、フィリピンがアメリカに占領された後の1899年フィリピン革命の話をしてくれたものでした。過酷な状況ということを除けば、自分の話をするのには格好の機会でした。

A4: 断固としていなくてはいけませんでした。毎日、「今日は絶対死なないぞ」と言っていました。決意を固くもっていなくてはいけません。

A5: 誰もが考える最も重要なことの一つは食べ物のことでした。食べ物は不足していたし、いつも米と玉ねぎ汁しか与えられなかったからです。ですので、皆が食べ物の専門家になりました。誰もが故郷で自分のお母さんはこういうものを作ってくれていたとか、それらの献立を全部思い返しました。当時軍から支給されたフェルト製の帽子をかぶっていたのですが、レシピを忘れないようにと、虫眼鏡を取り出して、太陽に当て、それらのレシピを帽子や何にでも焼き付けました。故郷に帰ったら絶対に作ると決めたレシピでした。

A6: 質問で聞かれたことに、何が私たちを突き動かしたのか、というのがあったと思います。私たちは皆故郷へは戻らないだろうという結論にある時点で達しました。戦時中我々はアメリカが新しい補給品を持って援軍にやってくるのを待っていました。しかし結局のところやってこないと気付いたわけです。その結果、バターンの兵士たちはBattling Bastards of Bataan(バターンの見捨てられた軍隊)として知られます。なぜなら、彼らには(助けてくれる)ママもいない、パパもいない。ただ単にBattling Bastards of Bataan(バターンの見捨てられた軍隊)なのです。アンクル・トムもいない。

A7: アメリカに帰った時に、「女性なしでどうやってそんな長期間過ごせたのかい?」と聞いてくる人がいました。とても簡単です。我々は女性について考えることはありませんでした。食べ物について考えていたからです。

A8: 生存のために信仰心はとても大事だったと思います。カバナツアンで私は栄養失調系の病気を全て抱えており、もう死んでしまうだろうと思いました。そして神に祈りました。「お願いですから、ここから救ってください。これからは襟を正してまっとうに生きますので」。すると、その直後に赤十字からの支援箱が届き、私は救われました。

---

Q: 私は15歳の時に陸軍の航空通信兵として修業をして、17歳から19歳までシベリアで捕虜生活を送りました。捕虜の気持ちというのは私自身の痛みとともに、よくわかっております。それで二つほど質問致します。質問の一つは、日本の捕虜の場合にも、未だになかなか真実を語りません。辛く苦しく悲しいこと、話したいことの方が充ち満ちております。その点で皆さん方の場合では、全てをお話になることができるようになったのでありましょうか、ということがひとつ。

A1: はい、制限は何もありませんでした。

A2: 私は、解放された後に、マッカーサー将軍からのオーダーで自分の身に起きたことは何も語らない、もし語ったならば軍法会議にかけられるという、サインをさせられたので、その後本などは書いていません。

---

Q: 二つ目の質問は、日本は率直に申しまして、侵略国であります。その日本軍の捕虜になった悲しみや辛さや苦しみの上に立って、本当の意味での真の和解と平和という上で、戦争体験が消え去る中で、皆さん方は日本の若い人たちにどんなことをお考えになっているでしょうか、お聞きしたいと思います。

A1: この質問に答えるために、、、、あなたは兵隊だったし、私も兵隊でした。私たちは皆兵隊でした。このことは今まで出席した他の会合で他の方々にも話したのですが、どの国のどの兵隊もその国にとって名誉な存在であり、自分の国の名誉のために戦っています。その意味ではあなたがやったことと私たちがやったことに何も変わりはない。あなた側からしても、沢山の人、あなたの友人が殺されたり傷ついたでしょう。私たち皆にとっても同様です。戦争は戦争なのです。そして戦争は、私の考えでは、なくていいのです。私が思うに、市民ではなく政治家たちに争い事は任せた方がいいと思います。

A2: 私が母国の歴史を知ったのは中年になってからでした。そしてそれは高等学校の歴史教科書に載っていたのと全く違いました。歴史はあなた自身が学んで、調べなくてはいけないのです。アメリカで公民権運動が起きた時になってやっと私はこれらのことを考えなければという考えに達しました。本を読み始め、アフリカ系アメリカ人、そして特にネイティブ・アメリカンや第二次世界大戦中にアメリカで収容された二世三世に関して学びました。これらは犯罪です。公民権に反します。このことについて大論争を繰り広げるつもりはありませんが、少なくとも、自分で注意を払うことで学んだことがありました。

---

Q: カレン・スミス・滝沢と申します。カリフォルニアのサンディエゴで育ちました。もしあなた方のどなたかが私の祖父について知っているかお伺いしたい。彼はあなた方と同じ道筋を辿りました、コレヒドール、ビリビッド、門司、奉天。彼は軍医でゲイリー・ミラー・スミスといいます。もしあなた方のどなたかで怪我をしてこれらの地で病院に行った方は、彼のことを知っているのではないでしょうか? いらっしゃらないですか? (全員、Noと答える) それなら嬉しいです。なぜならあなた方は怪我も病気にもならなかったということですから。皆様にお目にかかれて大変うれしく思います。今回の旅を楽しまれたようでよかったです。ありがとうございます。

通訳: カレン滝沢さんは法政大学の先生でいらっしゃるのですが、おじいさまがコレヒドール島で捕虜になって、皆さんといろんなところで共通した経験があると思うので、おじいさんのことを知りませんか?とお尋ねになったのです。彼等は病気になったり怪我をしたりということがなかったらしくて、軍医であったおじいさんとはどうも接触がないようなんですが、現在、次世代の人たちがこのグループを運営していて、去年の会長だったジャン・トンプソンという方のお父さんが、カレンさんのおじいさんととても良く似た経路をたどっていますので、後で連絡を取れば、もしかしたら分かるかもしれません。

▲ページのトップに戻る