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元捕虜の訪日記録

イギリス兵元捕虜Frank Plantonの釜石・函館訪問

笹本 妙子

来日の経緯

Planton氏は1942年3月にジャワ(現・インドネシア)で日本軍の捕虜となり、同地のボーエイグロドック収容所で日本軍の飛行場の建設作業に使役された後、同年11月末に日本に移送され、函館市の函館収容所に収容、函館ドックで船のサビ落としやペンキ塗りなどの作業に従事させられた。半年後の1943年6月、岩手県上閉伊郡甲子村(現・釜石市)の大橋収容所に移送され、釜石鉱山で鉄鉱石の運搬作業などに従事、ここで終戦を迎えた。

戦後はインテリア関係の仕事をしたが、過酷な捕虜生活のトラウマに長く苦しめられ、日本に対する憎しみを抱きながら生きてきた。

2002年春、イギリス在住の恵子ホームズ氏が主宰する「アガペ」(イギリスの元捕虜や遺族を日本に招聘し、和解と癒しの活動を続けるグループ)の訪日団に加わって日本を再訪、広島県内の収容所跡地や、原爆資料館、沖縄、横浜の英連邦墓地などを訪問した。このときは函館・釜石訪問は果たせなかったが、この旅で出会ったPOW研究会の小林皓志や田村佳子、笹本妙子らと親交を結び、2006年5月30日に東京の英国大使館で行われた田村・笹本のMBE叙勲式に出席した足で、悲願の函館・釜石訪問を果たすことになった。

函館収容所

1942年12月1日、函館俘虜収容所本所として、函館市台町(現・船見町)の函館検疫所構内に開設。英・蘭・米などの捕虜300人が入所。捕虜は函館ドック、函館港運などで労働。初代所長は畠山利雄大佐、2代目は江本茂中佐、3代目は細井篤郎大佐。

1945年6月、空知郡美唄に移転。捕虜は三井鉱山美唄炭鉱で労働。

1945年8月15日、終戦。終戦時の収容捕虜は396人(英283,蘭53,米50,他10)。終戦までの死者は114人(移送途中の死亡も含む)。

戦後、所長や軍医など職員11人が戦犯に問われる。

大橋収容所

1942年12月1日、函館俘虜収容所第2分所として、釜石市に開設。捕虜200人(蘭91,英米豪109)が入所。捕虜は日本製鉄釜石鉱山で労働。初代所長は長沼正記中尉、2代目は川辺長康少尉?

1943年4月1日、岩手県上閉伊郡甲子村(現・釜石市)大橋に移転。

1944年4月20日、東京俘虜収容所に移管、同第6分所と改称。

1945年4月14日、仙台俘虜収容所に移管、同第3分所と改称。同年5月、横浜市鶴見区よりカナダ人捕虜など約200人が入所。

1945年8月15日、終戦。終戦時の収容捕虜は395人(加198,蘭93,英56,米40,豪8)。終戦までの死者15人。

戦後、所長など職員10人が戦犯に問われる。

旅程

5月28日(日)FrankPlanton,その娘AngellaJames,そのパートナーBariLogan、成田着。

5月29日(月)横浜の英連邦戦死者墓地を訪問、函館で死亡した親友WilliamThomasOutenの墓を詣でる。田村、笹本が同行。英紙TheDailyTelegraphが取材。

5月30日(火)田村・笹本の叙勲式(英国大使館)に出席。式の後、POW研究会メンバーによる歓迎夕食会。

5月31日(水)東京観光。

6月1日(木)東京から列車で釜石へ。田村・笹本・小暮聡子が同行。昼過ぎに釜石に着き、釜石市国際交流室長の清野信雄氏や地元メディア数社の出迎えを受ける。

まず釜石市郷土資料館を訪問し、大橋収容所関係の写真の中に自分の姿を発見。「大橋の生活はどうだったか?」との記者の質問に「函館に比べれば天国だった」と語る。

次に大橋収容所跡へ。今は空き地となっている跡地に降り立つと、「ここに川があったはず。その上には線路があったはず」と指し示し、記憶力の確かさを披露。次に釜石鉱山跡へ。鉱山は閉鎖され、今はミネラルウォーターを生産するのみだが、鉱山資料館に展示された鉄鉱石を持ち上げてみて、「こんな鉱石を貨車に積み込む作業をさせられた」。閉鎖された抗口を開けてもらうと、奥に進み、天井に張り巡らされた電線を見て、「坑内では電動の貨車、坑外では蒸気機関車で鉱石を運んだ」。

その後、釜石市長を表敬訪問、歓迎への感謝の気持ちを述べると、市長は、釜石市は平和都市宣言をしており、国際交流に力を入れていることを説明。ちなみに、釜石には数年前にオランダ兵捕虜の遺族が2,3度訪れ、市民との交流が続いている。

夜は、国際交流協会準備委員会による歓迎夕食会。

6月2日(金)午前、釜石中学で全校生徒約460人を対象に講演会(詳細は後述)。午後、列車で函館へ(小暮は東京へ)。駅で西里扶甬子と合流。

6月3日(土)朝、「函館空襲を記録する会」代表の浅利政俊氏(函館収容所について長年調査)と北海道新聞の中川記者、堂本記者の案内で函館収容所跡へ。函館山の中腹、函館湾を見下ろす跡地には検疫所の事務棟だけが残っており、その建物が最近改装されて民営のカフェが6月中旬にオープン予定。浅利氏の計らいとカフェのオーナーの厚意で、敷地内に英国の国花バラと潮風に強いクロマツの苗が記念植樹された。集まってくれた近隣の人々に、浅利氏は「植えただけではダメ。みんなで大切に育て、平和と友好の心を育てていこう。いずれきちんとした記念碑を作りたい」と力強く訴える。捕虜たちが居住した建物は残っていなかったが、検疫所事務棟内の一室を見て、プラントン氏は「このような部屋(4畳半?6畳位の板敷き)に10人ぐらいが寝泊まりした。床下からすきま風が吹き上がってきて非常に寒く、毛布を何枚も敷いて寝なければならなかった」と語る。この日は爽やかな好天だったが、彼が函館にいたのは冬場で雪に閉ざされ、収容所は高い塀に囲まれていたため、このような美しい風景を見た記憶はないという。

親友Outenが亡くなったとき、遺体を樽に入れて運んだという火葬場は、当時は粗末な建物だったが、今は立派な施設になっていた。終戦まで捕虜たちの遺骨を保管していた高龍寺も訪問。遺骨は地下の納骨堂に保管されていたが、1945年7月14?15日の函館空襲の時、近隣の人々がここに逃げ込んだ。その体験者の話によれば、空襲の振動で壁の棚に置かれていた骨箱がガラガラと落ちてきたが、捕虜の骨箱を拾い上げる人は誰もいなかったという。

次に函館ドックを見学。プラントン氏が働いていた1号乾ドックが当時の姿のまま残っており、「寒風の中、ここで船のサビ落としや貝殻落としをさせられ、手足が凍傷になった。ひもじくて、掻き落とした大き目の貝(フジツボか?)を秘かに収容所に持ち帰り、ストーブで焼いて食べた」と語る。

午後はロープウェイで函館山へ。その後、福林徹と合流。

夜、永全寺(後述)の招待で歓迎夕食会。

6月4日(日)午前、永全寺を訪問。境内に捕虜たちが居住した建物(検疫所の建物)が保存されており、中には日本人の墓と、函館で死亡した捕虜の慰霊碑が建立されている。捕虜たちの哀れな姿を見ていた先代住職の遺志を継いで、2001年に現住職の斉藤隆明氏が建立したもの。碑に刻まれた死亡者の名前の中に、プラントン氏の親友Outenの名前もあった。

午後、函館YWCAで講演会。80人近い市民が参加。(詳細は後述)夕方、飛行機で東京へ。

6月5日(月)東京観光

6月6日(火)東京から広島へ。小林皓志と森重昭氏の案内で、平和公園と原爆資料館を見学。夕方、尾道へ。地元の人々による歓迎夕食会。

6月7日(水)午前、向島収容所跡地を訪問。午後、東京へ。夕方、田村・笹本・西里と送別夕食会。

6月8日(木)成田より帰国。

函館YWCAでの講演概要:1

・ジャワで捕虜となり、バタビアで飛行場の建設作業に従事した後、シンガポールへ。シンガポールから日本への船旅はつらいものだった。狭く不衛生な船倉に詰め込まれ、食事は1日2回。2週間の航海中に9人の仲間を失った。私自身は船の石炭をくべる仕事に就き、ご褒美におにぎり2個とシャワーを浴びることができ、不潔な生活から逃れられた。

・1942年11月27日に九州の門司港に着き、健康状態の良い我々220人は北方の収容所へ、健康状態の悪い300人は南方の収容所に送られた。函館まで列車とフェリーで3昼夜。駅々で日本人が我々を物珍しそうに見物した。

・夏服1つで函館に降り立った我々は寒さに震え上がった。収容所に着くと、日本軍の中古のつぎはぎだらけの服と毛布10枚を支給された。

・食事は非常に少なく、おかずは野菜だけのスープで、肉や魚は全くなかった。働く者にとっては不十分だった。私が函館にいた6ヶ月間、この量は増えることなく、捕虜たちの健康状態は悪化し、52人が死亡した。

・函館ドックでは、船のサビ落としや貝殻を掻き落とす作業に従事させられ、手足が凍傷になった。仕事はつらかった。特に重いものを運ぶのが大変だった。

・収容所長は、日本の軍歌を暗唱することを命じ、うまく歌えなければ銃の柄で殴られた。ドックからの帰り道でも大声で歌ってこなければ、収容所の広場に立たされた。雪で服がずぶ濡れになり、足もズクズクになった。服を乾かそうにも、7時に消灯なので何もできず、濡れたまま寝るしかなかった。

・ある日、仕事から帰ると、所長が「お前たちはいつも不満ばかり言っているが、今日のスープにはネコが入っている」と言った。

・100人中、常に10人が病気で、我々はいつも自分の健康状態を懸念しなければならなかった。ある日、親友のBillOutenが手が腫れ上がる病気になった。彼はオートバイ乗りだったので、帰国してもオートバイに乗れないと悲観し、症状がどんどん悪化していった。日本人軍医が麻酔なしで手術したが、手の平がさらにひどい状態になった。私は彼の看護をしたが、疲れ果て、「もう君の世話はできない」と言うと、彼は「もう来なくてもいい」と言った。それからまもなく、彼の危篤の報せを聞き、大急ぎで駆けつけると、彼は一瞬かすかに微笑んで死んだ。彼の遺体を樽に入れて火葬場に運ぶと、3日後に骨箱と日本語で書かれたものを渡された。

・ある日、仕事から帰る途中で魚を盗んだ。腰周りに隠し持つには大きすぎるので、ズボンの中にぶら下げたが、ウロコが凍傷部分に当たって痛く、うまく行進できない。立ち止まると監視兵に見つかり、ライフルで打たれ、傷がますますひどくなった。ある日、日本人軍医に傷を見せると、かさぶたをナイフでこそげ落とし、体中焼かれるような痛さだった。後で仲間がガチョウの脂を塗ってくれた。

※質疑応答

Q.私は1930年に函館検疫所で生まれたので、収容所のことをよく知っている。足を引きずっている捕虜を多く見かけたが、あなただったのだろうか?あなたを診た軍医は芝中尉軍医?彼はよく私の家に来て捕虜の話をしていた。20年ほど前、浅利さんと一緒に収容所の衛兵所のあった場所を買収して慰霊碑を建てようと思ったが、売却してもらえなかった。

A.軍医のことはわからない。

Q.ドックとの行き帰りに歌わされた軍歌とは?

浅利:愛国行進曲。他の捕虜からもこの話はよく聞いている。

Q.函館で親切を受けたことは?

A.ない。5時に帰舎し7時に消灯なので、民間人と話をする時間はなかった。ドックで働いていたとき、職員から凍傷の足に鉄製の道具を投げつけられたが、仕返しすることもできず、最大の憎しみと軽蔑を込めてにらみ返すしかなかった。シンガポールの収容所で草抜きをさせられていたとき、二人の片足と盲目の日本兵が支え合って歩いていた。盲目の日本兵は、英国海軍に撃沈された船の唯1人の生き残りだったが、私がイギリスのバッジをあげると、私の顔を触らせてほしいと言って、タバコをくれた。これが捕虜期間中の唯一の日本人との人間的つながりだった。

Q.収容所にいたとき、赤十字の品をもらったか?

A.クリスマスにもらった。大橋でも。

Q.いつ終戦を知ったか?そのときの感想は?

A.大橋で山に木を伐りに行ったとき、鉱山の班長(本職は床屋。横浜出身で、普通の人より戦況をよく知っていた)が、昼に天皇のスピーチがあると教えてくれ、終戦を知った。ホッとした。

この後、浅利氏が函館収容所の概要について解説。初代所長畠山大佐の時代(プラントン氏がいた頃)は苦難・混乱期、2代目江本中佐の時代は安定期、3代目細井大佐の時代は急変・敗戦期。また、2代目の江本中佐は英語堪能の上、捕虜を非常に人道的に扱った所長であったことなど。

函館YWCAでの講演概要:2 ※函館までの体験については省略。

・館からフェリーで釜石へ、釜石から大橋まで蒸気機関車の貨車で送られた。大橋に着いたのは春から夏に向かう時期で、函館とは景色が全く違っていて、ホッとした。

・橋では鉱山で労働。収容所から鉱山まで徒歩で1時間。4人1グループで、採掘した鉱石を貨車に下ろす作業に従事。日本兵の監視がなかったので、鉱山での扱いは悪くなかった。

・事は1日に米115グラム。風呂は3日に1度。ひもじいので、鉱山に行く道々、よく盗みをした。ある日、女の人が魚獲りをしているのを見て、私も夜魚を2匹獲った。泥付きのジャガイモを盗んだこともある。人糞の混じった泥だったため、お腹をこわした。日本人から与えられた虫下しを飲んだが効かず、2,3日後に米軍の虫下しを飲んだら、虫が40匹も出てきた。病気中でも働かされた。

・ある日、鉱山の職員と、私の空軍の制服と餅30個を交換した。これが収容所の軍曹に見つかった。彼は大笑いし、マンガの主人公のようにジャンプして餅を踏みつけ、私の顔になすりつけた。この餅を拾って泥を落とし、後で食べた。

・終戦が近づくにつれ、南方からの補給路が断たれて、食事量が段々少なくなり、日本兵の態度も悪化してきた。ある休日、夢中になって洗濯していると、日本兵が敬礼しなかったと言って怒り、洗面台の木枠の角に私の後頭部をガンガンと押しつけ、大怪我をした。2,3年前、眼の手術をした直後、痛みのために心臓発作を起こした。検査で脳に損傷があることがわかったが、このときの後遺症ではないかと思う。

※生徒との質疑応答

Q.大橋での生活で、楽しめたことは?

A.鉱夫からタバコ1本とお酒をもらった時。

Q.恐かったことは?

A.艦砲射撃で被災した釜石収容所の捕虜が大橋に送られてきた。彼らの体は黒焦げで、私は1人の捕虜の世話をしたが、水を与えようとしても顎が崩れていて飲むことができず、やがて彼は息を引き取った。

Q.収容所にいたとき、何を思って生活していたか?

A.函館では、お腹が一杯になることと、フカフカの布団に寝ること。大橋では、自由になることと、生き延びること。

Q.収容所にいたとき、日本軍はあなたにどういう態度だったか?

A.とにかくひどかった。日本兵は捕虜と友だちになることを禁じられていたのかもしれない。日本兵12人のうち10人はひどく、残りの2人は少しマシだった。

横浜の英連邦戦死者墓地にて、プラントンさん一家と田村・笹本

労働場所だった函館ドックにて

函館YWCAにて講演

釜石市内の大橋収容所跡地にて

函館収容所跡地にて、バラの苗を記念植樹

函館市内の永全寺にて、捕虜の慰霊碑を見る

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