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元捕虜の訪日記録

アメリカ人元捕虜と日本の市民との交流会
(2012年10月14日)

ジョン・リアルさん
Mr. John Real

これは、日本で撮った私の捕虜時代の写真です。私の捕虜番号はゴヒャクジュウヨン、514でした。私たちにはオーバーが支給されました。新潟では本当に寒かったのです。実際、一年の大半、雪が降っていました。よろしければ、これをまわしてください。裏側に「バターン死の行進」の図があります。

「バターン死の行進」はマリベレスから始まりました。日本軍に降伏するように言われたのです。私はこの男、日本軍の将校に近づきました。彼は私の腕時計を指差したので、それをやりました。次に指輪、そして毛布。彼の欲しがるものは全部やりました。彼が食器を指差したので、それもやりました。そこで私たちは幹線道路を歩き始めました。私たちは水も食料もまったく何一つ与えられずに、65マイルを歩きました。もし歩き続けられなくなったら、銃殺されるが、銃剣で刺殺されました。私たちはサンフェルナンドという鉄道のある町まで歩かされました。彼らは何も話してくれなかったので、何が起こっているのかまったく分かりませんでした。ただ、歩き続けるように言われただけです。私は19歳でしたが、年長者の幾人かは歩き続けられなくて、死にました。

サンフェルナンドに着きました。日本軍はこのとき初めて食事をくれました。私は、今でも彼らが鉄製の大鍋で、木製のしゃもじを使って米を炊いていたのを思い出します。彼らはそこで給食を始めたのですが、あいにく50フィートばかり離れた所にトイレがありました。このトイレが赤痢発生の問題を起こしました。ハエがトイレと食べものの間を飛び交っていたのです。

それから、私たちは汽車に乗せられて、およそ60マイル北にあるオドネル収容所に連れて行かれました。ここで見たのは、それまでにまったく見たことのない光景でした。大きくて殺風景な建物の中に死体が横たわっていたのです。死んで間もない人たちで、死臭や臭気はひどいものでした。それで、私は自分に言い聞かせました。「ジョン、もしここにいたらお前は死んでしまうぞ」と。そこで、私は日本軍が命じる使役に志願しました。トラックに乗せられて、またバターン半島へ戻ったのですが、今度は歩かずにトラックで行きました。そこでは道路の修復工事をしました。

ところで、コレヒドールですが、それはマニラ湾に浮かぶ島で、当時まだ戦闘が続いていました。彼らは後一カ月も降伏しなかったのです。

オドネル収容所ではとても多くの捕虜が死亡したので、日本軍はそこを閉鎖し、オドネルの北のカバナツアンに新しい収容所を作りました。私はバターンに二度目に行ったときマラリアに罹りました。とても具合が悪く、誰もが悪寒を経験しました。日本軍がもっていたのは液体のキニーネだけでしたが、実のところ、それが私の生命を救ってくれました。カバナツアンでは、いわゆる病院側(のエリア)と勤務側(のエリア)がありました。病院側にいる人は働かないのですが、私はそこでマラリアに罹り、歩くこともできないほどひどい状態になりました。カバナツアンでは菜園もあり、野菜を作りました。私たちは捕虜のためと日本軍の兵士のために野菜を作ったのです。

こんな噂がありました。もし私たちが新品の衣類、靴、シャツなどを支給されたら、日本行きだと。日本では大部分の男性が軍隊に入隊しているので労働者を必要としていました。1943年に私は日本へ送られました。(訳注:リアル氏は新潟の東京第5分所に送られた)私はとても幸運でした。これは私がはじめて日本に着いたときの写真です。彼らは開所式のために写真を撮ったのです。

私が日本で最初にした労働は田植でした。私たちは服を脱いでパンツだけになりましたが、下を見たところ、すぐに私の脚には黒いものがいっぱいつきました。私はヒルを見たことがなかったのです。すると、日本兵が煙草に火を付けてヒルを焼き、私の脚から剥がしてくれました。田植えが私の日本での最初の仕事だったのです。

以上が、私が話したかったことの全部です。

ダグラス・ノータムさん
Mr. Douglas Northam

みなさん、こんにちは。私はダグラス・ノータムです。私は海軍軍人で、開戦直前には中国の上海に駐留していましたが、パールハーバー攻撃の前日に上海からマニラ湾に到着しました。

私たちの任務はコレヒドールとマニラ間と、バターンの陥落後はバターンの周辺を軍艦でパトロールすることでした。バターンが陥落した1カ月後に、私たちがいたコレヒドールも降伏し、私たちはカバナツアン収容所に送られました。そこは大変不潔な状態で、身体を清潔にする手段も病気を治療する薬もなく、そして飢餓すれすれの食事を強いられました。

私は1942年11月にいわゆる地獄船の一隻(訳注:長門丸)に乗せられて日本へ送られました。船は収容所よりさらに不潔な状態でしたが、日本に着くまでの約3週間、この船で過ごさざるを得ませんでした。

日本に着いてから、私たちは作業をする場所ごとのグループに分けられ、私の場合は大阪の梅田分所に送られました。私たちは、そこでの状況が今までよりは良くなるのではないかと期待したのですが、結局、状況は同じだと分かりました。収容所で私たち全員が罹ったいろいろな病気のいくつかは、今日でも私たちを苦しめています。ですから、私たちがこうして未だ生きていることは、まさに奇跡だと思います。

日本人とアメリカ人は多くの共通点をもっています。私たちは家族主義的です。私たちには高度の仕事に対する価値観がありますし、また野球が好きです。ですから、これらのことを考えると、70年前のあの大騒ぎ(戦争)は一体何だったのだろうと不思議に思います。そして、私たちの人生も終焉に近づいていますので、私たちが捕虜だったとき、私たちを拘禁した企業や組織に謝罪して欲しいのです。そうしたら、私たちも許しの手を差し伸べたいと思います。

ジョージ・サマーズさん
Mr. George Summers

私は、私たちが親睦を深めるためにここに来ているという事実を強調したいと思います。日本で私があなた方に言いたいことは、私はみなさんのトモダチ、オオキイネ(日本語)ということです。

私たちは戦争による残虐行為であるバターン死の行進を体験しました。捕虜やその他多くの人々がぞっとするような、強烈な――。捕虜が日本の天皇についてどのように感じたかという事実もあります。私たちはウェインライト将軍とともに(捕虜として)扱われました。私はウェインライト将軍と天皇について知っています。私たちは交流を促進するか、天皇に復讐するかしたいと思いますが、私は日本の文化を理解しています。アメリカの文化は少し違います。アメリカでは友情と話し合いを促進します。私はあなた方に大きな友情を持っていることを言いたいのです。

大部分の日本人が好んだあのダグラス・マッカーサー将軍が戦争の終りにしたことは、捕虜は決して補償がもらえないということで、それは私たち捕虜にとって大きな問題でした。そこでアメリカ人の捕虜は補償をもらおうと試みました。しかし長い年月、もらえませんでした。そこで、私たちは謝罪を求めているのです。

捕虜にとって情勢はとてもひどかったのです。今でも私たちは本当に正当に取り扱われたとは思っていませんが、もう70年も前のことですし、今の日本は新しく生まれ変わっています。昔話がゆっくりと持ち出されました。2回ほどで、決してしばしばではありませんが。この30年間で次第に強くなりつつあります。

私の(捕虜)体験は、パラダイスのように美しい島、グアムに配属されていた時に始まりました。12月8日、私はスメイという町の守備任務についていました。午前4時頃、日本軍はやってきました。太陽が昇り始め、彼らはスメイを爆撃し、原住民がここの任務に着きました。私はドックで攻撃されました。誰かが大急ぎで機銃を発射したのですが、ココナッツの林をえぐってそこで終わりでした。私は、部隊の大佐か誰かが来て私たちを集合させるのを待っていたのです。とにかく、彼らは私たちの兵舎を爆撃しました。そこは、私が衛兵に立たねばならなかった場所からほど近いところでした。私の脚に爆弾の破片が当たりました。そこで、私ともう一人の …(不明) という名前の戦友と二人でジャングルの中に走り込みました。二人で食物を集めました。その夜遅くスマイに行きました。そこは人っ子一人いない死の町で、聞こえるのは犬の遠吠えだけでした。とにかく食料や食べられるものを探さねばならなかったのです。そして隠れていました。

12月11日頃、脚に当たった破片のため、私の脚は腫れ上がっていました。私が元の兵舎に入って行くと、そこに日本軍がいて、機銃を発射しました。弾が脚に当たったので、ジャングルの中に逃げ帰りました。原住民がトラック一杯のココナッツを持って来て、「あんたは死ぬよ。日本軍は降伏しない者は、その場で殺すと最後通牒を出した」と言いました。そこで、あの銃声を聞いたとき、どうしていいのか分からなかったので、休戦のために私のシャツを振ったところ、彼らは撃つのを止めました。兵舎の中に入って、日本軍の大佐のところに連れて行かれ、訊問されました。彼は私をヒーローだと言いました。彼はコーン・ビーフとキャンディをくれました。私は空腹で死にそうだったのです。そこで大佐は私をカトリック教会に連れていかせ、そこでの捕虜生活の残りの日々を暮らしました。私たちはクリスマスと新年が終わるまでそこにいて、その後、アルゼンチナ丸に乗せられました。

その船には約450名の海軍と海兵隊員がいました。私たちは、船倉に放り込まれました。ありがたいことに、船倉にいたのは3日間だけでしたが、そうこうするうちに、全員が空腹と寒さで死にそうになりました。継ぎはぎ用の布と短パン以外、何も着るものがなかったのです。一個の握り飯を二人で分けました。私たちはいろいろな所で排尿をし、それはひどいものでした。

遂に、私たちは四国に着きました。下船したのは二月の初めか、一月の終わり頃だったのを覚えています(訳注:アルゼンチナ丸は1942年1月15日に香川県の多度津港に到着)。小さな美しい町を行進して通りましたが、寒さで凍え死にそうでした。綺麗な灯りが見え、誰もが幸福そうでした。通りで人々が踊っていました。果物や露天商人も見ました。「何て美しい町なんだろう。もし彼らが私をあそこに行かせてくれたら、食べ物がもらえるだろうになあ」と独り言を言いました。とにもかくにも、彼らは私たちを歩かせて善通寺と呼ばれる所に連れて行きました。(訳注:サマーズ氏が収容されたのは善通寺収容所)

デヴィッド・ファーカーさん
Mr. David Farquhar

私はここにいらっしゃる捕虜の皆さんとは違います。皆さんは3年半から4年間、捕虜生活をされたのですが、私が捕虜だったのは、ちょうど3カ月半でした。

私がアメリカで訓練を受けたのは、B29の射手になるためでした。私たちはテニアンのノース・アイランド、そこには世界最大の空軍基地があったのですが、そこでの訓練が終了した後、アメリカに移動しました。

テニアンの北基地からの飛行任務(ミッション)に従事した期間、私たちは“7つの通常任務”と呼ばれる任務のために飛行していました。これは、私たちが破壊できる工場やそれに類した目標に500ポンド(270㌔)爆弾を投下するという任務です。

通常の任務飛行は14時間でした。私たちの最も長時間の任務はレーダー・ミッションで、レーダーを使用して瀬戸内海の上空をはるばると朝鮮まで飛行し、そこからまたはるばるとテニアンまで引き返しました。私たちは船舶を探し求めて毎夜、来る日も来る日も日本に向けて飛行しました。機上にはレーダーの特技兵がいて、地図上でこれらの船舶を非常に注意深く正確にねらうことができたのです。

その後数カ月経ってから、私たちは機雷投下の任務飛行を4回実施し、船舶がいる場所と、それらが行くと正確に分かっている場所に2,000ポンドの機雷を投下しました。そのように機雷は敷設されたのです(訳注:B-29 は陸軍航空隊の飛行機なので、海軍の熟練者がB-29 に搭乗して、機雷の取扱と敷設を指導している)。機雷には特殊な仕組みがしてありました。機雷の幾つかは高周波あるいは低周波の音響だけで、大型船に対してですが、爆発しました。幾つかの機雷は、その上を磁気音が通過したときに爆発しました。また機雷の幾つかは任意の番号を数え、13番目とか19番目とかいった番号の船が機雷の上を通過したときに爆発する装置が取り付けられていました。それで、掃海艇が機雷を除去し続けても、船の前部(意味不明)が機雷の上を通ったとき、機雷は爆発しました。私たちは、全潜水艦が太平洋で沈めた船舶よりも多くの船舶を機雷で沈めました。(訳注:日本商船の沈没原因別の表には、潜水艦の雷撃によるもの56.5%、機雷によるもの6.7%となっている。「海なお深く」全日本海員組合編)

私たちの最初の任務飛行は1945年2月18日で、最後の任務飛行は1945年5月23日と、非常に短期間でした。最後の任務飛行では、東京を焼き尽くそうとして、その上空を飛行中、探照灯で捕捉されました。そして撃墜されたのです。機体に火災が発生し、左主翼が燃えていました。東京湾の上空を横切って、ちょうど東京の東、湾の向こう側の小さな町の上で、11人の搭乗員全員が落下傘で降下しました。そして田舎の田んぼの近く、立木やその他の物の上に着地しました。

一人は捕まるまでに8日かかりましたが、私は2日目の夜に捕まりました。私は地元の小さな留置場に連れて行かれ、それから憲兵隊か日本陸軍に引き渡されました。そして陸軍から憲兵隊に引き渡されたのです。憲兵隊はゲシュタポ(訳注:ナチス・トイツの秘密国家警察)のような軍隊で、彼らが私たちを拘禁しましたが、私たちを戦争捕虜(prisoner of war)とは呼びませんでした。私たちは特殊捕虜(special prisoner)と呼ばれ、いずれは殺害されることになっていたのです。

憲兵隊の司令部があったのは皇居のすぐ隣にある大きなビルでした。そして外側に馬小屋と呼ばれた木造の建物がありました。私たちはその馬小屋に入れられたのですが、そこには6つの監房があり、逮捕されてから2,3日後に、その3か所の監房に入れられました。

私は特殊捕虜に関する記事を収集し、約半数が逮捕されたり死亡したりしたのを知りました。とにかく、半数が死んで、残りが帰国したのです。

8月15日頃、私たちは全員殺害されることになっていたのですが、殺害されずに、(憲兵隊の)大佐が、私たちを馬小屋から大森収容所へ移す決定をしました。そして大森に行ったのです。大森には大量の食べ物があり、約15日後の8月28日、大森が日本全国で最初に解放された収容所になりました。私たちは解放され、東京湾に停泊している病院船ベネボレンス(訳注:博愛の意)に連れていかれました。

さて、私たちはすぐにシラミやノミがたくさん付いていた服を脱ぎ、陸軍の制服のような海軍の制服を与えられました。そして、この病院船に約1週間滞在しました。私たちは母国に移送され、最終的に回復するまで、病院を転々としました。

ランドール・エドワーズさん
Mr. Randall Edwards

私はランドール・エドワーズと申します。ヒャク・ヨン ホケン レンチュウ(日本語)。私は海軍生活をフィリピンにいた米艦「キャノパス」で始めました。「キャノパス」はアメリカ海軍が太平洋に配置していた29隻の潜水艦の母艦(訳注:AS-9 潜水母艦)でした。「キャノパス」は何度も爆撃されましたが、1942年4月9日まで、潜水母艦として、継続して軍務に就きました。ウェインライト将軍がバターン半島で降伏したとき、私はすでに12月に退艦してバターン半島で陸軍に参加していたのです。陸軍が降伏しようとしていたとき、バターン半島で陸軍から私が受領した最後の命令は、「ランドール、君は一人でやって行け」ということでした。私には選択肢がありました。フィリピン人と一緒に日本軍の戦線を突破するか、または南のマリベレスにいる海軍に戻ることでした。ただ一つの問題は、私がマリベレスに戻ったとき、「キャノパス」はマリベレス湾の中央に出て自沈していたことでした。私と他の二人は、コレヒドールに泳いで行きました。そこで、海軍の第4海兵大隊の海岸防衛隊に参加しました。

5月6日、コレヒドール島では、ウェインライト将軍が降伏しました。そして捕虜になったのです。私たちは戦争捕虜(prisoner of war)ではなく、単なる囚人(prisoner)でした。日本がジュネーヴ条約に署名していなかったのです。(訳注:正確には署名はしていたが、批准していなかった)

私たちは、残りの大半の捕虜がいたカバツナアンに移動し、そこにほんの3週間いた後、マニラに連れて行かれ、船に乗せられました。その船は「鳥取丸」でした。私は「鳥取丸」が、地獄船の一隻だとは思いません。「鳥取丸」には私たちアメリカ人が1,500人、日本軍の兵士が約1,500人、同乗していました。一度に半数が甲板に出ることができました。誰かが死亡すると、船長はその遺体をアメリカ国旗の下を滑らせて水葬するように許可してくれました。

マニラを出て、「鳥取丸」は台湾に向かいました。台湾では潜水艦に攻撃されたので、5回くらい出たり入ったりしました。日本軍はやっとのことで日本兵を台湾に下船させ、「鳥取丸」はアメリカ人を乗せて、中国大陸の沿岸近くの浅い海を通り、朝鮮のプサン(釜山)に入港しました。

このときは11月で、朝鮮のプサンはとても寒かったのです。私たちがそのとき着ていたなけなしの制服は、夏服でした。幾人かは日本軍の服を着ていましたが、それは日本軍のカンバスのようなもので作った夏制服でした。私たちは汽車に乗せられて、満州の奉天に向かいました。奉天着が11月の11日でした。雨が降っていて、とても寒かったのですが、私たちの大半の者が衣類を持っていませんでした。

奉天で私たちが最初に入れられた収容所は、ほとんどアメリカの豚の飼育場に似ていました。それは昔の中国軍の兵舎だったのです。収容所は、私たちが働く予定の工場から5キロほど離れていました。私たちは工場を基礎から造り、そこへ工作機械を設置しました。

続いての3年半、私たちは日本が戦争に勝つことを妨害するあらゆることをしました。機械を故意に破壊し、日本人の酒を盗みました。捕虜生活は厳しく、最初の冬は白菜のスープだけを食べて生き延びました。最初に奉天に来た1,200人のうち、250人が死にました。というわけで、事情があまりよくなかったことがお分かりでしょう。

私たちはMKK(満州工作機器会社)を建設するエリート集団ということになっていました。私たちは奴隷労働者として契約させられ,権利も特典も何もありませんでした。私たちは戦争捕虜と見做されていなかったのです。不当な取り扱いを受けていたのは、私たちだけではありませんでした。朝鮮人も、私たちと同様にひどい待遇をされていました。

奉天の収容所には通訳が二人いました。一人はミノダという名前、もう一人はカワシマという名前でした。彼らは、おそらくこの世の中で最も卑劣な二人の人間だったでしょう。しかも彼らはアメリカ市民でした。一人はホノルル、もう一人はロサンゼルス出身でした。彼らは、日本は戦争に勝てない。戦争の終わりには殺されるだから、彼らが捕虜に何をしても何とも思わないのだ、とはっき言っていました。

戦争が終わる直前、もしアメリカが本州に進攻するならば、戦争捕虜は殺害されるであろうと言われました。私たちの収容所のすぐ近くに、OSS(戦略事務局。CIAの前身)落下傘隊が降下しました。そして、彼らも日本側が満州での戦争が本当に終わったと知るまでは、捕虜になりました。この後、私たちは奉天に後一カ月いました。私の体重は44キロで、健康状態がいい方の一人でした。

キング将軍とウェインライト将軍がフィリピンにおいて、23,000人のアメリカ将兵を降伏させました。10,000人が帰国したのです。

戦争が終わってから、旅順(Port Arthur)から海軍の船で移送されました。沖縄に着きました。台風に遭いました。船が触雷して、船底がなくなりました。まあ、そんなこともあったんです。その後、私は海軍に留まりました。海軍を除隊してフロリダ州の大学に行き(訳注:GI Billといって、復員兵に対し大学教育資金が給付された)、学位を取得しました。そしてオークリッジ国立研究所で核融合の研究をしました。日本もそのプログラムの重要部分です。

ジョン・リロイ・ミムズさん
Mr. John Leroy Mims

みなさん、お集りいただいて有難うございます。よろしくお願いします。私はみなさんが好きですし、そのことに皆さんができることはありません。さて、皆さんが退室される前に、私のカード(名刺?)を1枚ずつお持ちになってください。もしよろしければ、捨てないで、皆さんの資料館に置いてください。そこに置くのがいいと思います。

私はフロリダ州北西部にあるインディアン保留地で生まれました。そのお陰で私はこの戦争に生き残れたのだと思います。私は 叔父さんについて森の中を歩き回っていました。歩くときには、そっと静かに歩くことになっていました。それがインディアン(のやり方?)でした。保留地で髪の毛が明るく眼が碧いのは、私だけでした。

1941年2月15日、私は二度目の入隊をしました(訳注:ミムズ氏は、兵役年齢前に1度入隊している)。このメダルに書いてあるように、フィリピンの歩兵第31連隊に所属しました。で、私は自分が陸軍で最もハンサムな兵隊だと思っていました。私たちは今でも戦友会を開いていますが、私が部隊の中で一番優れた兵隊だったと、今でも思っています。私一人が残っています。1941年8月15日に、うちの部隊の写真を撮りましたが、その写真の中で今もまだ生きているのは、この明るい髪の毛をした私だけです。

私たちはフィリピンのウイリアム・マッキンレー駐屯地で基礎訓練を受けました。訓練を受けた誰もが、そこは世界中で一番暑い所だと思いました。教官は私たちに水を飲むなといい続けました。水を飲むと死ぬぞと。私たちは、ではどうすれば良いのだろうと思いました。私たち全員が17歳、14歳、12歳 といった年齢のグループだったのです。ある日、将校がいないときに、軍曹の一人が私たちを集めて、「お前たちがやらなきゃいけないのは、水筒の中にジネブラ(ジンの一種)とサルサパリラ(sarsaparilla  訳注:風邪や解熱、梅毒などに用いられる生薬)1瓶を入れることだ。ゴクンと飲むんじゃないぞ。ちびちび飲むんだ。そうすれば死なずに済む」といいました。ニューメキシコやヴァージニアなどで今も開かれている「死の行進」の戦友会に参加したときにも、自分が今でも水をゴクンと飲まず、ちびちび飲んでいることに気づきます。

将校の一人が訓練担当将校でした。私たちが教練をしようとしていたとき、彼が追いかけて来て、私たちが風に吹かれたようにゆらゆら歩いているのを捕まえました。そして「お前たちはどうしたのだ」と言いました。彼は、軍曹が私たちにジネブラ、ジンのサルサパリラ割りを飲むように言ったのを知らなかったのです。私たちには何もなかったのですが、彼の方に何か悪いことがあったに違いありません。

さて、死の行進についてです。皆さんがすでにお話しになったので私の話すことが減りました。私たちが言われた唯一のことは、降伏することでした。私たちはマニラの中隊がしたように、(武装解除して)小銃を積み上げることになっていました。しかし、私たちは持っていた多数の小銃を積み上げず、小川や水路に入れました。戦争が続いているときのような方法で、私たちは小銃を置いたのです。その理由は、もし弾薬が入手できたり、再びラ小銃が使えたり、脱走したりする場合に、小銃を取り戻して使えたからです。最初に口径0.3の小銃からM1小銃で終りましたが、私は陸軍がしたように撃てたら(?)と思いました。

その後、いわゆるバターン死の行進を始めました。そして、そのときは知らなかったのですが、後になって、我が軍が二人の(日本軍の)将軍(訳注:第14軍司令官本間雅晴中将と第16師団長森岡皐中将)を軽蔑していたことが分かりました。その理由は、この二人の将軍がフィリピンを占領するために必要な十分な兵力を持って来なかったからです。日本軍が我が軍を囲い込んだ場合には、我が軍はいつでも彼らを排除したので、彼らは更に兵力が増強されるまで待たねばなりませんでした。この二人の将軍がなぜ望みを果たせなかったのか、その理由のすべてが私たちの責任ではありません。(訳注:1941年12月25~31日、米比軍はバターン半島に逃避した。この米比軍を攻撃しようとした歴戦の第48師団が、大本営の命令でジャワ作戦に転用され、占領地警備を目的とした劣勢の第65旅団と交代した。1942年1月9日から第65旅団は米比軍の攻撃を開始したが撃退され、激戦の後、遂に攻撃は一時中止になった。第4師団の増派と航空部隊を増強して4月3日から猛攻撃を再開した結果、9日になってバターン半島は陥落した)

とにかく、バターン死の行進のとき、それが分かったのです。私はそのことを東京の警察から来た人に聞きました。そのチーフは、海軍や海兵隊を管理していた中国から持ち出したハーレー・ダビッドソンの大型オートバイに乗っていました。彼らは私たちを援助するために、中国の大使館から来たのです。彼は日本人ではありませんでしたが、そこで手に入れたオートバイを持っていたのです。私たちが行進して通り過ぎようとしたとき、彼は私の真正面でコーラ瓶を落としました。私は紳士的にその瓶を拾って彼に渡しました。ところが、彼はその場で私の歯全部を折ったのです。彼はそのコーラ瓶で私の歯を殴りつけ、歯が飛び散ってしまいました。私は彼から解放されたとき、全部の歯を吐き出しました。

彼は、なぜ私を瓶で殴ったのか、その理由を言いました。彼の周りにいる日本軍兵士たちに、自分が怖がっているとか、私たちを殺すのを嫌がっていると思われないようにするためだったのです。彼はカリフォールニアで教育を受けたことも私に平気で話しました。本当ですよ。その後、彼は私が知っている中で最も良い日本兵の一人になりました。彼の名前はワタナベだったと思います。

次に、私たちが死の行進で行ったり来たりしたことを話します。なかには、歩いたのが100マイル以下の人もいましたが、私たちは100マイル以上歩きました。死の行進を命じ、そして私たちを殴ったり殺したりし、私たちに逆方向や違った方向に歩かせた日本人は、どうなったのでしょうか。私は、あなた方の感情を害したくはありません。というのも、あなた方が好きだからです。しかし、1800年代(1900年代の間違い?)にはどうであったかということを知らせたいと思ったのです。

オドネル収容所に着いたとき、米兵たちは蠅のように死にました。捕虜は蠅のように死んでいったのです。彼らが罹った全部の病名を時々思い出せないのですが、ペストのような病気……今あなたが誰かと話していたと思ったら、あなたの真ん前で急死してしまうのです。

私たちが寝る場所は田んぼの中で、何もなくて、もしあなたが衣服を着ていたら、蛭がその衣服を喰ったでしょう。私たちはフンドシ一丁だったので、寒くなったら、私は胃をいつも温めるようにというインディアンの伝統を思い出しました。

その後、私はカバナツアンに送られました。そこではとても沢山の捕虜が次々に死んでいきました。死者を担架に乗せて墓地に運びました。そしてブルドーザーで(穴を)掘りましたが、フィリピンでは沢山雨が降るので、死体をそこに投げ入れても、水に当たった反動でそこから出てきてしまうのです。日本人は、死体が穴の外に出るのを嫌がりました。彼らは銃剣で刺したり、水面に頭を押し込んだりしました。

私はカバナツアンで病気に罹り、動けなくなりました。(収容所の)建物は0号棟から4号棟まで4棟あったのですが、彼らは私を次々と移し替えました。私は、夜、誰も見ていないときに這い出て、元の棟に戻りました。ここで、私はナーデニ(Nardini)という名の海軍の軍医に出会いました。私の生命を助けてくれたお礼を言いたいのですが、それ以来、彼には会っていません。私は、手をついたりすることも立ち上がったりすることも、何もできなかったのですが、彼は私のところに何度もやって来て診てくれました。何度来てくれたかわかりません。もし彼らが0号棟にいて、そして私が(元の棟に)に戻っていなかったら……お分かりでしょう。軍医はご飯のお焦げを持って来て、「私が帰って来るまで、これを少しずつ噛みなさい」と言いました。それはほとんど焼けた革のようでしたが、私は少しずつ噛み続けました。そして軍医が帰って来たとき、彼は私をクラーク基地の仕事に就けてくれたのです。

クラーク基地に着いてから、私は日本軍のためのトラック運転、飛行場の草刈り、その他の仕事をしました。そして逃亡したのです。日本軍は、逃亡の廉で私を処罰することを望みました。彼らはブルドーザーの刃を私の両足の上に置いたので、脚が折れました。それはとても馬鹿げたことだと思います。脚が折れてから仕事が出来なかったからです。彼らは私に寛大な処置をしてやるのだと言って、マニラの刑務所に移しました。ここにいたときに、彼らは私を刑務所から出して日本行きの船に乗せてくれることになったのです。

日本行きの船には、600マイルよりも短い距離を行くのに62日と62晩かかりました(訳注:ミムズ氏が乗った船はCanadian Inventor、1944年7月4日にマニラを出発、同年9月1日に門司に到着)。私が覚えている限り、500名を除き、その船に乗っていた全員が死亡しました(訳注:同船にはカバナツアンからの健康捕虜500人とミンダナオからの健康捕虜500人が乗船したが、航海中の死者は6人)。

日本では炭鉱にいました。彼らは私を炭鉱(訳注:山口県美祢市の大嶺炭鉱、広島第6分所)に送り、そこから解放する以外、(私たちの存在を?)忘れていました。そこから、私たちを特急に乗せるのに2カ月かかりました(?)。病院船が私たちを待っていたのは、下関だったと思います(訳注:広島第6分所の捕虜は、1945年9月13日に和歌山県和歌浦港から帰国の途に着いた)。

ロバート・エアハートさん
Mr. Robert Ehrhart

パールハーバーの1年前くらい前、私が海兵隊に入隊したとき、17歳でした。アメリカで約6か月の訓練を受けて、フィリピンに転勤しました。私たちは、中国にいる海兵隊員と交代する途上でした。しかし、戦雲は急を告げていたので、フィリピンに送られたのです。フィリピンでは、とても幸運なことに、開戦の約6カ月前にフィリピンに着いたので、さらに訓練を受けました。それで、おそらく私が今日、ここにいられるのかもしれません。

戦争が始まったとき、私たちマリベレスにいました。私たちはバターンにごく短期間いましたが、海兵隊員は直ちにコレヒドールに行くように命じられ、海岸の防衛に配備されました。コレヒドールがちょうど最初の爆撃を受けたときで、そのとき、そこの兵舎は爆弾に耐えると教えられました。私はひどく疲れていたので2階へ上って、コンクリートの床に横になって眠りました。その翌日、コレヒドールは最初の爆撃を受け、私が眠っていたところに爆弾の一発が屋根と2階と1階の床を貫通して地下室で炸裂したのです。私が眠っていた直ぐ隣の部屋で起こったことです。私は、そのとき、本当に信心深くなりました。

私たちはコレヒドールには二日もいないで、バリの近くの小島にあるヒューズ要塞へ転出しました。この場所で、私たちは戦闘の大部分の期間を過ごし、その位置からコレヒドールがよく見えました。砲兵大隊が降伏したとき、すべての大砲は海岸の一方側にずらりと並べられました。そしてマニラ湾のもう一方側でも大砲が並べられたので、私たちは両側から砲火を浴びることになったのです。コレヒドールを見渡すと、島が土煙や煙や火焔で姿を消えるのが見えました。私たちはそれを見て、生きている者がいる筈がない、生きる可能性がある筈がないと言いました。またしても、私たちは本当に幸運だったと思います。死傷者数はかなり多かったのですが、予期していた程ではありませんでした。バターンの降伏後、わたしたちは、およそ一カ月間、持ち堪えました。

そして、ウェインライト将軍はフィリピンを明け渡したのです。私たちは降伏し、コレヒドールに送られ、死者を埋葬しました。そこでは随分と仕事をしましたが、事態は地獄でした。食事は与えられず、私たちは死人から食料を取り上げねばならなかったのです。そして、その場で食べねばなりませんでした。というのは食料を収容時に持ち帰れなかったからです。日本人は身体検査をして、私たちが食料を隠し持っているのを見つけたら、銃剣で刺し殺したでしよう。私たちは幸運にも、そこに数週間以上はいませんでした。

それからカバナツアンに送られました。この時の行進は「バターン死の行進」のときほどひどくはなかったのですが、貨車にぎゅうぎゅう詰めされました。誰かが死んでも倒れることはなかったでしょう。カバナツアンでは短期間の勤務をしました。それから農園に移動し、農場で働きました。農園で作られた作物は、ほとんどが日本人の監視兵用でした。私たちは野菜の葉っぱ、ジャガイモの葉っぱ、そんなものを手に入れましたが、あまりいただけませんでした。しかし食べねばならなかったのです。

どのくらい経ってからか忘れましたが、6カ月かそこらしますと、オドネルから来た捕虜がカバナツアンに移送されました。そのとき、1週間に数名だった死亡率が、1日に40名上昇しました。私たち海兵隊員は、埋葬作業に出されました。死者の埋葬作業は苦痛でした。汚いいやな任務でした。死体は炎天下に横たえられているので、その多くがひどく腐敗していました。死体を抱え上げて担架に乗せ、数マイル離れた墓地に運ぶのです。

私は幸いにして、早いうちに強制労働者として日本に送られた者の一人でした。早い時期に地獄船の一隻に乗り込んだ私たちは幸運でした。アメリカの潜水艦が未だ第一次大戦当時の魚雷を使っていて、その多くが不発だったからです。台湾沖で一発食らったのですが、不発でした。魚雷は船体に当たり、跳ね返りました。その外の魚雷がどこに行ったかは知りません。ですが、幸い船には命中しませんでした。

船名は「多賀丸」で(訳注:1943年9月20日マニラを出発、10月5日門司着)、約800人が乗っていました。船上で70人を水葬しました。甲板の下はひどい状況でした。私たちの上でハッチは閉ざされ、私たちが得られる唯一の空気は、上から通じている階段のところだけでした。狭い船倉にすし詰めにされ、脚と頭をくっ付けていました。

日本に到着し、私たちにとって最高に贅沢だったのは、(大阪の)桜島まで汽車に乗ったことでした。そこでの私の仕事はリベット打ちでした。私たちはタンカーを建造しました。日本はタンカーを必要とし、それを捕虜に造らせるのはジュネーヴ条約違反でした。海防艦も造りました。

大阪では正気を保持するため、私は漫画を画きました。漫画を画くのは一種の台帳か日記を付けるようなものでした。漫画は、同じ宿舎にいる捕虜の士気を高めました。

9か月も経ってからだと思います。私は、積み重ねたトイレットペーパーの中に漫画を隠しました。トイレットペーパーはおよそ12センチ四方で、その真中の部分を切り抜き、そこに漫画を隠し、小物入れの雑嚢に仕舞ってから仕事に出かけました。ある日、仕事に出かけて昼食時に帰ってくると、私たちの雑嚢全部が床の上に投げ出されていたのです。私の雑嚢の中身は、床の上に散らかり、あのトイレットペーパーは無くなっていました。そして2週間もの間、毎晩、私は製鉄所の仕事から帰って来ると、心配でなりませんでした。雑嚢の中には漫画が入っていたのを知っています。もし、監視員が漫画の裏に書いた小さな文字の間にあるものを見たならば、私はきっと処刑されたでしょう。ですが、結局、処刑はされませんでした。明らかに、彼らは漫画を見てひどく腹を立てたのですが、書いてあることは読みづらく、彼らには読めなかったのでしょう。私には読めました。とにかく、2週間も、彼らが私の名前を呼ぶのを我慢して待っていました。もし、問題を起こすと、名前が呼ばれるのです。宿舎に帰って来たとき、注意していました。夜になって食事の前に、私の捕虜番号が呼ばれるのを待ちました。そして彼らが本当に私の名前を呼んだとき、その後に起きたことは、ほとんど拷問同様でした。遂に私の名前が呼ばれ、そして、いやもう、彼らは私を病院に連れて行かねばならなかったのです。

大した病院ではなかったのです。彼らが投薬したすべては、私たちにくれるほんの少量のキニーネと木炭(の粉)でした。私が立ちあがれるほど十分に回復すると、彼らは私を宿舎の裏に歩いて行かせました。そして雨まじりの雪が降る中で、夜通し気を付けの姿勢で立たされました。雪のため、私の背中は凍りつきました。手も凍り、おそらく倒れたのでしょう。次に覚えていることは、眼が覚めたときは宿舎の中にいて、かれらは燃料の木炭を節約していました。宿舎の両側の戸は開け放たれ、風が吹き抜けていました。夜、防火桶には3センチ位の氷が張っていました。ともかく、彼らは木炭を節約し、私を生き返らせてくれたのです。

私たちは、監視員が収容所内を歩き回って問題を探すことをじっと耐えていました。ボタンをかけていないとか、そんなことで殴られました。米航空隊が大阪を爆撃して、全市街を焼き払いました。私たちは桜島という小島にいたので助かりましたが、日本側は私たちの食事や、面倒を見切れなくなったので、明延収容所(訳注:兵庫県中北部、養父市の南東)に移動しました。

明延は銅山でした。銅山(を掘るのは)大きな削岩機で、75ポンドくらいの重さがありました。私が使った削岩機は75、そして油圧式でした。削岩機の錐を鉱床の中に押し込んで、6フィートくらいの穴をあけ、そこにダイナマイトを詰めて、その部分に発破をかけるのです。そして、戦争が終わった8月15日頃まで、そこで作業をしました。

私たちは、戦争が終わるのを予知していました。というのは、B-29がもう上空を飛んでいなかったからです。もう空襲はありませんでした。そして、ついに監視員が収容所から姿を消したのです。とにかく、そこで戦争は終わり、私たちは汽車を徴用して、横浜にたどり着いたのです。そして、横浜から帰国しました。

内海愛子(POW研究会代表)
閉会挨拶

今日は、お話をありがとうございました。この太平洋を飛んで日本に来るということは、物理的な大変さよりも心の葛藤、この日本にふたたび来ることへの、みなさんがいろいろな心の葛藤を超えてここにいらしていただいたと思います。ひとりひとりの心のなかにはいろいろな思いがあり、いろいろな葛藤があって、今、私たちの前でこの証言をしてくださったと思います。私たちは改めてみなさんがここで証言してくださったことに対して感謝したいと思います。みなさんでもう一度、証言してくださった方に拍手をお願いします。本当にありがとうございました。

そのうえで、証言を聞いた私たちには、日本でやらなければならないことがあります。この資料のなかにもありますけれども、アメリカ軍の捕虜は40%が死亡している。40%が死亡するということは、生き残った人たちがどれほどの心身のダメージを受けたのか、私たちはそのことも考えます。日本が受諾したポツダム宣言、これは、私たちは教科書で習っていると思います、その中に、我らの俘虜、捕虜ですね、を虐待する者を含むあらゆる日本の戦争犯罪は、これを厳しく裁く、こういう文言があります。このポツダム宣言を受けて開かれた極東国際軍事裁判、東京裁判にはたくさんの捕虜虐待の証拠の書類が出ています。そして、アメリカだけではなくて、イギリス、オーストラリア、オランダ、という捕虜を含めて27%の捕虜が死んだということもここで認定されています。しかし戦後の教育を受けた私たちは、ほとんどそういう事実を知らないできました。こういう事実を知った私たちは、今日も若い人たちがたくさんきていますが、この人たちとともに、なぜ日本が捕虜虐待、これほどの捕虜虐待を生んだのか、その事実をきちっと調べて、それを教育、私たちが次の世代に伝えていく、こういう活動を今続けていくし、今後も続けていきたいと思っています。

そして最後に、みなさんは米比軍で戦いましたから、アメリカ人の捕虜の他にフィリピン人の捕虜の人もたくさんいました。それと、イギリスは英印軍ですから、インド兵もいました、中国人もマレー人もいました。そしてジャワでは、蘭印軍ですね。そしてオランダ人とともにインドネシア人の人もいました。ですから、この捕虜の問題を考えるとき、今日はいないもうひとりの主人公であるフィリピン人の捕虜の問題も私たちは一緒に考えていきたいと思います。みなさんと一緒に戦ったフィリピン人の捕虜の問題も私たちは忘れないでこれからも考えていきたいと思います。

さきほど、なんでこんな戦いをしたのか、今考えると不思議だ、とおっしゃいました。こういう戦争をふたたびやらないために私たちはみなさんの証言のなかから多くのことを学んで、これからも日本とアメリカの平和のためにいろんな活動をしていきたいと思います。よろしくお願いします。どうもありがとうございました。ご家族の方もどうもありがとうございました。

(POW 研究会 訳)

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