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元捕虜の訪日記録

ハロルド・ラムジーさんの新潟訪問−2011年3月4日

高田ミネ

3月4日(金)、元豪捕虜ハロルド・ラムジー(Harold Ramsey)さん(89歳)と息子さんのステファン・ラムジー(Stephen Ramsey)さん(57歳)の新潟収容所跡地訪問に同行した。以下報告。

午前の川崎(註:実際は横浜市鶴見区)東芝鶴見工場の見学後お昼を取る暇もなく新幹線に乗り込んだラムジーさん親子と通訳さん。親子はサンドイッチをつまみながら車窓に映る沿線の様子に興味津々。80歳まで不動産業をしていたラムジーさんは市街をしっかり観察しながら親子でなにやら話している。高崎を越えて見えてきた雪につつまれた山を見て「富士山!」というので浅間山だと説明。上州のからっ風や農家の屋敷を囲む防風林など社会科の授業よろしく日本の地勢を説明する。小学校の教師を退職して今は旅行が趣味の息子さんと学校の話や退職後の過ごし方で盛り上がる。驚きのクライマックスは県境の長い清水トンネルをぬけ越後湯沢の一面の銀世界を目にした時、二人は子供のように声をあげてびっくりしていた。ちなみにラムジーさんの新潟での収容所生活は1945年6月〜9月までの短い期間なので雪は見たことがなく、東芝鶴見の収容所で何回か見た程度だとのこと。

新潟平野に入ると雪が少なくなり、まったく積もっていない新潟駅へ3時に到着。駅で会員の木村昭雄さんと新潟日報記者と合流。外務省が手配したワゴン車のタクシーで新潟市役所へ急ぐ。

市役所では新潟市経済・国際課の課長、歴史文化課の課長や通訳(アメリカ人)が同席した。役所からは戦時中の苦労へのねぎらいとお詫びの言葉や新潟を楽しんでくださいとの歓迎の言葉があり、記念品の万代橋型の拡大鏡や名詞入れをプレゼントされた。また、POW研究会の尽力で新潟へ迎えることができたとの感謝の言葉もいただく。新潟市はロシア・韓国・北朝鮮・中国との等間距離にあり、それら北の国々とのとの国際都市を目指しているがオーストラリアの客人はめずらしいのかいたく歓迎している様子が伝わってくる。

歴史文化課の課長がせっかくいらしたのに今は跡地には何もなくて申し訳ないがというと、ラムジーさんは「跡地に何もなくても平気。私は新潟に来ただけで十分だ。やさしい日本人に会えたのでそれでよい」と応じ、課長が「新潟は米どころ、おいしいお酒を味わってください。日本酒はすきですか」と聞くと「飲めといわれれば飲みます」と軽妙なユーモアで返すラムジーさん。市役所の通訳をした若いアメリカ人が、原稿のない質疑の中でとても滑らかな通訳をするので、帰り際にお若いのによく戦争捕虜のことがわかりましたねと褒めると、POW研究会のHPを見て知識をいれましたとのこと。こういう所でHPが役に立っているのだと感激した。

その後、信濃川地下を横断するトンネル脇の観光タワーで河口付近を俯瞰しながら地図を見つつ、3箇所あった作業場所を木村さんが説明する。①新潟鉄工所の仕事は室内であり、寒い新潟では捕虜たちにはよかった。②新潟港湾(荷役)は中国からの大豆,コーリャンなどを揚げ降ろしする日本通運の仕事だったが大豆が盗めるので捕虜たちがやりたがった③新潟臨港(荷役)は石炭などの積荷が中心。寒い中、暑い中の外仕事は辛かった。概要の説明後、車で夕暮れの迫る信濃川河口付近を巡検する。収容所は人数が増えるにつれて何度も移転し、何れも仕事場へは歩いて4、50分の距離にあった。かつて歩いたであろう道を辿るが収容所も新潟鉄工所(数年前に倒産)もなく、すっかり変わった周辺の様子に記憶は戻らない様子。それでも記憶の中にある働いていた工場(=新潟鉄工所)が海に近かったことをタワーから俯瞰できてなんとなく納得した様子だった。

吹雪に変わり始めた夕刻の中、朱鷺メッセのなかにある日航新潟ホテルにチェックイン。ラムジーさんのトイレの回数の多かったのが気になり、お年より特有の症状かと思いつつ聞くと出発の2週間ほど前に血管の中の腫瘍を焼いてきたとのこと(通訳の話)。詳しく聞けなかったが、来日のこのチャンスをどうしても逃したくなかったとの想いが伝わってくる。ロビーで新潟日報の記者の質問をうけたあと、ホテル内で夕食を御一緒する。以下、捕虜時代のことについて同行中に自ら話したこと、質問に答えたことなどを交えての聞き書きあれこれを書いてみた。

ラムジーさんに聞く

・軍隊に入ったのは18歳の時。年を偽って志願。

・中東の戦闘で兄弟を亡くし、戻ったジャワで捕虜になった。指揮官に戦闘意欲がなかった。オーストラリアはイギリスの指揮下にあったので仕方がなかった。

・戦時下では日本では捕虜は恥とされていたが、オーストラリアではどうだったか、と聞かれて、自分の感情としては戦闘もしないで捕虜となるなんてと複雑なものがある。

・楽洋丸はアメリカの潜水艦に攻撃され沈没、多くの捕虜が死んだ。日本の船団に放置され、洋上を3日間漂流し、その後日本の船に救助されたが、いまや楽洋丸で存命しているのは私とリチャーズさんの二人だけ。

・楽洋丸が沈んだことで死亡通知が我が家に届き、母は落胆のあまり、私の服を全部処分してしまった。そして、解放されて汽車で新潟から東京駅へ到着した際、オーストラリアの国旗をもっているところを撮影したニュースを母が国の映画館で見て息子が生きていたとわかりびっくり仰天した。

・川崎(註:実際は横浜市鶴見区)時代はとても厳しい収容所生活で死を覚悟した。もう死ぬからと食料を仲間にあげた。幸い生き返って食料を返してくれと先の仲間に迫ったら目の前でぱくりと食べられてしまった。

・新潟に移動する話は仲間の捕虜が2人ほど病気で移動できず、その代わりに23人のオーストラリア人の中に入った。(註:この数は新潟市の歴史叢書を編纂する際使ったGHQ資料の名簿によれば21人となっている。その中では新潟15分所への捕虜の受け入れ日は6月5日)

・新潟時代は短く、辛い思い出はあまりないが、腹が空いて空いて話題は食べ物の話ばかり。女の子の話なんか出なかった。収容所の畑のカボチャを盗もうとしたが、所長もさるもの、カボチャに番号が書いてあった。

・こんな話を子供たちに面白おかしくずっと話してきた。

・そばで聞いていた息子さんが「父は自分の体験の中でも子供たちにわかるような話を選んで話してきたが、本当に辛かった話は子供の気持ちを考えてしなかったんだろう」と添える。その息子さんが何年か前、職場の小学校で戦争の体験者ということで父をゲストティ−チャーに迎えて話してもらったところ、子供たちにまだ生きていたの、といわれた話。(日本でも体験を語る祖父母がいなくなり、授業化するのが難しくなったという話で一致。)

・私の友人の父も捕虜だったが死ぬまで自分の体験を語らなかった。きっと話すには辛すぎたんだろうと息子さん。

・本当に辛い話は泰緬鉄道にあるらしく、この時代の話はしたくないとラムジーさんははっきり言われた。

・新潟の15分所では8月15日以降も戦争が終わったことを知らず、何日間か仕事をしなくていい状態がつづいたが、アメリカ軍が入ってきて日本軍が応戦しなかったので戦争が終わったんだとわかった。

・その後収容所はアメリカ軍の指揮下に入ったが指示を無視して市内へ遊びに出かけていた。

・帰国時は虐待被害の聞き取りのようなものは組織だってなかった。(アメリカ軍との比較)

・捕虜になったとき、銘々票に自分で名前など書いた記憶はなかった。インタビューは受けたかもしれないが記憶ははっきりしない。

・今回の日本の招聘に応ずるべきかどうか本当に迷った。戦後は日本人や日本製品など大嫌いだった。しかし、来日してみて本当に良かったと思っている。(目がうるうると)

・こんなに詳しく収容所のことを調べている人たちがいることに驚いた。私の記憶を埋めてもらって感謝している。いったいどんな人たちが調べているのか。(ここで、各地の郷土史を研究している人や戦争捕虜に関心のある人たちの研究団体としてPOW研究会発足の経緯と、今では捕虜の来日の際にお世話をしている話をした)

・戦争体験が自分の生き方に与えた影響はどうかと言われれば、人生の苦労などあの体験に比べれば些細なことだと言い聞かせて乗り越えてきた、(ささいなこと=小さなスケールのようなものという意味の英語の成句を言われたが失念。)

・最後に高田から「ラムジーさんを知って生き延びた人に共通の性格を感じた。ユーモアの大好きなところと“足るを知る”、言ってみれば強欲でないところが生き延びた人に共通していると思うが」と感想を伝えると「私はユーモアが大好きだし」と大きくうなずいていた。

翌朝はホテルで上越日豪協会の近藤会長と歓談した後、近くの歴史博物館を見学。昼には新潟空港から関西へ飛び、各地の収容所を訪問した元捕虜の皆さんと京都で合流した。

新潟のホテルにて:ラムジー父子を囲んで、上越日豪協会会員、POW研究会会員、JTB通訳ガイドらと