POW研究会トップ活動報告元捕虜の訪日記録日本政府招聘によるオーストラリア兵元捕虜の来日(2011-11)>ローナ・ジョンストンさんの横浜訪問
 
元捕虜の訪日記録

ローナ・ジョンストンさんの横浜訪問

小宮まゆみ・田村佳子

ローナ・ジョンストンさん

12月1日(木)、ローナさん母娘は10時に現地到着。抑留所跡地周辺(現在は住宅地)を散策した後、近所の山村さん宅に当時を知る人々が集まり、古い写真を見ながら思い出を語り合いました。寒さや飢え、井戸水汲みのつらさ、ひもじくて犬を殺そうとした話、「ベンジョマン」と子供用の靴とサツマイモを交換した話……等々、双方の話が見事に一致し、ローナさんの記憶力の良さに驚くとともに、同時代を生きた人同士の心の通い合いに感動させられたひとときでした。

彼らの心の傷を大きくいやすのは当時を覚えている人達との交流ではないかと思いました。あの時は言葉を交わすことも憚れたけれど、当時はこうだった等、ローナさんは地域の人達との交わりと彼らとの界隈の散歩を心から楽しまれ、後で「今日は本当に楽しい時間を皆さんと持つことが出来た。過去の記憶を皆さんで確かめ、そして共有出来たなんて思いがけないこと、日本に来て良かった。」とおっしゃいました。娘のパトリシアさんも当時ローナさんが口にされたさつま芋や柿などを一緒に味わいながら、お母さまの楽しそうな様子をニコニコと写真やビデオに記録しておられました。

2日(金)は中和田小学校でローナさんが捕虜体験を講演しました。ラバウルで捕虜になったことから日本に連れてこられたこと、交換船に乗せてもらえなかった事、寒さや飢えに苦しんだこと等、96歳とは思えない力強い口調でした。子どもたちには予備知識があまり無いことであり、通訳の問題もあってうまく伝わるか心配しました。しかし子どもたちはローナさんの話に興味を持って、時間一杯に次々質問をしてくれたのです。

Q: 交換船には日本にいた外国人を乗せたそうですが、どんな外国人がいたか見分けられたんですか?

A: (田村が代わりに答える)交換船は白い十字をつけた特別な船で、潜水艦などから攻撃されないようになっていましたが、ローナさんは4隻も交換船を見ているのに乗れなくてがっかりしたそうです。

---

Q: そのころ日本人は英語が分からなかったと思うので、通訳はいたんですか、いなかったらどうやって日本人に意志表示をしたか教えて下さい。

A: もちろん通訳はいなくて、言葉が通じませんでした。でも生き延びるために必死でジェスチャーをしたり、日本語を覚えようとしました。数も90まで数えられるようになりました。

---

Q: 捕まった時は何歳でしたか?

A: 25歳です。若かったんです。

---

Q: ごはんは一日何回、どんなものを食べていましたか?

A: その質問に答えるのは難しいです。ご飯と言えるほどのものではなく、このぐらいのおわんにおかゆと野菜が少し浮かんでいるぐらいでした。終戦間際には自分たちが取っておいたバターを近所の人とサツマイモに交換してもらって、それで生き延びました。

---

Q: 収容所が移動するとき、どこに移動させられるか何も言われなかったのですか?

A: どこに行くかなんて教えられませんでした。ただ一度だけラバウルから船に乗せられた時は、私はオーストラリアに帰してもらえるかと思ったら、日本だと言われました。

---

Q: 日本に行く船の旅では、どんなものを食べましたか?

A: 私たちのほかに日本軍に捕まった兵士もいたので、その人たちから乾パンをもらって食べました。

---

Q: 日本に行く船の中の旅の様子はどうでしたか?

A: 暑くて、それにとても狭くて、横になって寝ることも出来ないほどでした。気を紛らすために歌を歌ったりおしゃべりをしたりしていました。

こんな感じの質疑応答でした。最後に学校の計らいで、子どもたち全員で「上を向いて歩こう」を歌ってくれて、ローナさんも嬉しそうでした。

私(小宮)は1993年に敵国人抑留の研究を始め、記録の非常に少ない泉区の神奈川第2抑留所の跡地を確認しました。その後1996年に抑留者の名簿を見つけ、抑留されていたのがラバウルで捕虜になったオーストラリア人看護師の一団だということを初めて知りました。さらに2006年にローナさんの生存とその住所を知ることが出来、ついに今回は直接御本人に会うことが出来たのです。私にとっては長い道のりでしたが、「歴史記録」だったものが現実の姿となって目の前に現れたという、奇跡のような体験でした。

ローナさんは戦争中秘匿され続けた抑留者であるオーストラリ人看護師の一団の、最後の生き残りであり貴重な生き証人です。今後もお元気に御自身の数奇な体験を語り続けていただきたいと思います。

▲ページのトップに戻る