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元捕虜の訪日記録

オーストラリア人元捕虜と日本の市民との交流会

ローナ・ジョンストンさん

みなさん、こんにちは。本日はお招きいただきまして、どうもありがとうございます。POW研究会のみなさまも、捕虜問題に関して素晴らしい仕事をしてくださいましてありがとうございます。日本人の皆さまは平和と友情を見事に示して下さっています。ありがとうございます。

ひとつお話したいことがあります。それは1945年3月に起きました。私たちは戸塚に住んでおり、アメリカ軍による沢山の空爆を目撃していました。ある夜、日にちは覚えていないのですが、1945年3月25日頃(注:正しくは3月10日)だと思います。真夜中にサイレンの音で起こされました。その音はまるで日本の端から端まで聞こえるかの如くとても大きな音でした。それは実のところ東京と横浜の空襲だったのです。アメリカ軍がB29でやってきて、その数は何百、何千、何万というものすごい数でした。そして真夜中に攻撃を始めたのです。サイレンが真夜中に鳴り、朝の5時に警報が解除されるまで夜通し鳴り続きました。私たちは窓辺に座ってこれらの全ての交戦を真夜中から警報が解除される朝の5時まで見ていました。次の日ベッドから出て仕事に取りかかるのがとても恐ろしかったです。なぜなら、その夜東京と横浜が破壊されてしまったため、監視兵が私たちに八つ当たりをするかもしれないと思ったからです。でも何も起きませんでした。監視兵は誰も来ませんでした。そして午後になるとForeign Officeから森さんが来て、空爆で何が起きたかを私たちに説明してくれました。非常に恐ろしい状況で、東京と横浜の人々には防空壕がなく、皆が川に向かっていった。隅田川ですね、東京を流れている川。そして人々はお互いに押し合って川に飛び込んで行ったので、川には沢山の死体が浮かび、海へ流れていったと話してくれました。あの夜殺された日本人が何十万といたのです。私たちは監視兵が仕事に戻ってきたら、ひどい鞭打ち受けるかもしれないと思いました。確かに彼らは私たちに親切ではありませんでした。しかし、彼らを責めることはできないのかもしれません。それでも、私たちは終戦が確かに近づいていると思うと幸せでした。戦争がほぼ終わりに近づいているということは、私たちを幸せな気持ちにさせてくれましたが、日本人を怒らせもしました。ほとんどの監視兵が家族や家等ほとんど全てを失ってしまったのですから、町の荒廃や失った家族のことを思うと気の毒に思います。しかし、彼らは私たちにとても冷酷でした。

お話の終わりに申しあげたいことは、この数日間に東京や横浜を訪れまして、皆さま方がこのようなとても美しい街を70年間でまた作り上げたことに非常に驚きました。訪れることができて本当に嬉しく思っています。

アーサー・ギャンブルさん

私はアーサー・ギャンブルと申します。2/4機関銃大隊の隊員でした。

(1942年)2月15日に我々は大日本帝国軍の捕虜になりました。その後セララン兵舎まで長い距離を歩き、ミック・アンケテル大佐の下、部隊としてそこに留まりました。始めの数日間で収容所を整え、茅葺の兵舎を建てました。そこから労働へと送られました。私は採石場で石を粉砕機に積み込み、道路基盤を作りました。また、埠頭に着いた船から鉄道に使われる鉄を降ろしたり、飛行場の滑走路を平らにする仕事もしました。主食が米であったため体に悪影響をあたえ、脚気と赤痢に感染しました。

そのあと、Hフォースとして働くため鉄道でタイに送られました。タイでは閉め切った鋼鉄製の有蓋貨車でバンポンへ行きました。そこからは歩いて進まなくてはいけませんでした。その途中で様々な収容所で止まりました。最終的にカンニュウ2に着き、その収容所から南の端であるカンニュウの切り通しに労働に行きました。労働は厳しく、監視兵の一部はとても荒々しかったが、私は個人的には一度も暴力事件には巻き込まれることはありませんでした。常に「スピード」が求められ、しばしば夜に及ぶ長時間労働をさせられました。ハエや蚊に悩まされ、常に下痢、赤痢、マラリアに苦しみました。後に私の病気は非常に深刻になり、コレラにかかっていると判明しました。(飲み水がなかったので)雨が降って地上にたまった水たまりから水をすくって飲みました。その前夜にジャワ人の労働部隊が収容所を通り過ぎ、恐らく水を(トイレとして使い)汚染していったとは私は知る由もありませんでした。(そのような水を飲んだのでコレラに感染しました。)私の2人の親友がコレラの列から私を助け出し、介抱してくれました。彼らがいなければ、ここでこうして私の話をすることもできなかったでしょう。

泰緬鉄道が完成するとカンブリ(=カンチャナブリ)のロバーツ・ホスピタルに行ったと思います。そして、サイアム・ロードで数週間働いた後、チャンギに戻りました。飛行場の建設にしばらく従事した後、チャンギ収容所の野菜園での簡単な仕事に就くことができました。そして、ようやくオーストラリアに、家族の元に帰ることができました。

私の話はかなり前の話なので忘れたところが多いのですが、ご静聴いただきましてありがとうございました。

バートン・リチャードソンさん

皆さんのなかに医学関係、医療関係のお仕事をされている方はいらっしゃいますか。私は泰緬鉄道での病気とか、医療関係のお話をみなさんにしたいと思います。どんな病気が蔓延していたのかをお話します。

コレラの話はもうすでにでました。コレラは本当に恐ろしい病気の一つで、助かる人はほとんどいません。体の水分がすべて外に出てしまうという現象がおきます。お隣に座っているエルウッドさんのような大きい頑丈な男が、次の日の朝には皮と骨だけになってしまい、恐らく亡くなっている、ということがおこります。それほど進行が速く、ほとんどが亡くなります。私たちは飲み水を飲む前にそれを沸騰しましたし、飯盒なども食べ物をよそう前に必ず沸騰したお湯にひたしました。また、口に病原菌を含ませないために、食事をする時は煙草は吸いませんでした。ひどいものでした。

反対の現象がおこるのは脚気という病気です。体の水分が外に出ないという現象がおきます。人々の身体が膨れ上がっていきます。そして、指は大きなソーセージのようになってきます。顔は2倍ぐらいにふくれあがって、誰だかわからないような形相になります。治療や予防に効くのは、一日にティースプーン一杯のマーマイトかベジマイトですが(注:マーマイトはビールの酒粕、ベジマイトは酵母エキスを原料にしたペースト状の食品。どちらもビタミンBを多く含む)、もちろんそのようなものはありませんでした。ラッセル・ブラッドン(ドン・ウォール?)という人が書いた『Singapore Beyond』という本に彼自身が自分の経験を書いています。彼は、ひどい脚気にあっていましたが、日本人将校の前に呼び出された時にビタミンBの瓶をみつけました。自分の兵舎に戻ると、瓶に入っている錠剤全てを取りだして飲み込み、待ちました。その後すぐに体の中の水分は全て外に出て、完全に治りました。それ以来、脚気にかからずにすんだということです。

それ以外にさまざまな病気がありましたが、たとえばマラリア、黒水熱(注:マラリア患者に起こる合併症。高熱・頭痛・嘔吐・下痢・黄疸を起こし、黒褐色の尿が出る)、あらゆる種類の皮膚病、その他十分でない食事による様々な病気に悩まされました。

オーストラリアのお医者さんは、非常にすばらしい仕事をしてくれました。彼らはそれまで脚気やコレラの治療にあたったことがないというお医者さんがほとんどでしたが、彼らは即席で様々なものを作り出しました。聴診器のゴムのチューブは輸血に使用されました。非常に細い竹も同じ目的で使われました。そして助手が患者の静脈に刺しました。そのようにして使ったのです。直径4インチほど(注:約10センチ)ある太い竹は節ごとに切り、穴をあけて、小さな竹の一片を栓とし、水を入れて水筒として使用しました。それが私たちの水筒だったのです。その竹を縦に長く半分に切り、穴を一つ開けると、トイレとして使われました。

大体、医学的な病気のお話はこのぐらいにして、もうひとつお話ししたいのは、アーサーさんが先ほどお話しした、最近ではヘルファイアー・パス(地獄の業火峠)としても知られているカンニュウの切通しについてです。そこは大きなカーブになっておりまして、まっすぐにそこに線路を通すために切り通しをつくらなければいけないという、そういう難所でした。そして半分ほど、重労働のもとに進みました時に、方向が間違っていたということに気がつきました。そこで真っ直ぐに直されました。切通しの端から端までが見えないくらい非常に大きなカーブでした。

お話しできることは沢山あるのですが、次の方にゆずりたいと思います。ありがとうございました。

アルフレッド・エルウッドさん

最初にみなさんにお話ししておきたいのですが、このように多くの好意に満ちたお顔、この「捕虜友好ツアー」に関心を持たれている皆様方を前にして、私は大変感動しております。このツアーは非常に重要で、称賛すべき活動だと思います。招待していただいたことを感謝しております。

私は大変不運なことに、捕えられた翌日に憲兵隊の手に渡されました。昨日、その私の体験の一部を別のミーティングでも少し詳しくお話しいたしました。申し訳ないのですが、私ももう歳ですので、昨日お話ししたことをくり返し話す気力はありません。しかし強調したいのは、私は日本国民や日本国に対して何か異議を唱えるとか、そういうことを考えているのではありません。私にとって唯一大きな問題なのは日本軍に関してです。そして、それはおそらく、皆様のお祖父様、あるいはお父様の世代のことであり、そしてもちろん特に憲兵隊に関してです。

実際のところ、私たちのキャンプを取り囲み、最終的に私たちの多くを捕まえた兵士たちは比較的丁重に私たちを扱いました。彼らは24時間ぐらい私たちを拘留しました。ティモールのディリの部屋に連れられて初めて、目隠しが外され、私はこれから尋問されるのだとわかりました。そして(捕虜の取扱いを定めた)ジュネーヴ条約を問題にするのはお話しにならないということがすぐに明らかになりました。私が最初に尋問で聞かれたのは年齢です。普通、ジュネーヴ条約下で求められるのは、名前と階級、認識番号だけです。ですので、私はすぐにジュネーヴ条約という考えを捨て去りました。憲兵隊の将校は、まず私に年齢を聞きました。それで、私は正直に「21歳」と答えました。すると同時に、頭に猛打を浴び、床にたたきつけられました。私はそれから数カ月のあいだとても長い尋問を受けました。手首には手錠、上腕にはワイヤー、足かせ、胸と背中はロープといった七面鳥のように縛られました。私の受けた処遇は、食事を与えられなかったこと、水ももらえなかったこと、そしてマラリア、赤痢、湿性脚気など様々な病気にかかっても医療支援をうけることができなかったことです。喘息の深刻な発作を起こすまで医師に診てもらうことはできませんでした。ですから私がその憲兵隊に対してなぜ同情を抱かないのか理解していただけると思います。しかしながら、戦後の日本人の方々と接するのには全く問題ありません。今の若い世代というのは、まったく別の人々であると思います。

息子が、尋問された時の収容状況について何か話した方がいいのではないかと伝えてきたのですが、私は独房にいました。それは地下室のような所でした。私は大抵目隠しをされていました。唯一のトイレ設備は木でできた桶で、多分味噌の桶であったと思います。それはすぐにいっぱいになってあふれて、ハエが飛び回り、蛆が床を這いまわり、寝ている時は私の身体の上を這いまわりました。私は、昨日お話しした際、少ししくじってしまいました。昨日は、尋問に屈したことを完全には明らかにしなかったと思います。尋問者は既に私の暗号一覧表と通信日誌をなんとか探し出し、私たちの無線機も確保していましたので、私は尋問者にそれらをどのように使うのか秘密をばらしました。そして彼らはそれらの手段を使ってオーストラリアとリンクを結びました。それは偽のリンクだったわけですが。秘密をもらすか殴り殺されるかのどちらかであったわけです。それだけのことです。ずばり言うとそういうことです。私は頭を非常にひどく殴られたので、目隠しを外された時も、自分の目で確かめることができませんでした。しかし、彼らは私のリンクを使って偽情報をオーストラリアに送っていたため、彼らは私を生かしておかなければなりませんでした。そうでなければ私は死んでいたでしょう。恐らく皆さんに説明しておかねばならないでしょう。私は第二次世界大戦のいかなる戦慄を経験するには若すぎました。(日本軍の)通信本部は私の情報が真実かどうかしばしばチェックをしたものでした。私に問うのです。「母親の旧姓は何か?」「最初に行った学校はどこか?」などといったものです。私を生かしておかなければ彼らは全てが台無しになるリスクを負ったでしょう。全て台無しにされるべきだったのです。思ったとおりでしたが。

戦争というのはひどいビジネスだと思います、本当にひどいビジネスです。日本人が戦争放棄したことは非常に素晴らしいことです。戦争は知性の失敗です。どちらの側も相手側についてほとんど知りませんでした。戦争というのは外交の失敗であり、政治の失敗であり、そしてリーダーシップの失敗であるというふうに思います。もちろんそれらを担っているのは歳のいったリーダーや政治家や外交官らであり、彼らが若い人たちを戦場に送って彼らの命を奪っています。日本だけでも250万人をゆうに超える兵士が命を落としています。市民に関してはその数は誰もわかりません。遺族となった母親、父親、兄弟、姉妹、夫、妻、愛する者、子どもとなるといかばかりでしょうか。日本社会に与えた影響は甚大であったに違いありません。

しかしながら明るい話として、私たちが行く先々で出会った日本の人々から受けた思いやりと友情について少しだけお話したいと思います。特に、連れて行っていただいた小さな小学校の4年生の子どもたちです。子どもたちは拍手で迎え、歌を歌ってくれました。この経験は私の心に強く焼きつきました。彼らが日本の未来を担い、戦争放棄を保持し続ければ、日本の未来は明るいと思います。老兵の中に主戦論者はそれほどいないと思います。我々の誰も戦争に熱心なものはおりません。それは確かです。同じ気持ちが皆さんの中にも共有されたらいいと思いますし、そうなると思います。本当にありがとうございます。

デイヴィッド・バレットさん

こんにちは(注:日本語で)。シンガポール陥落で私は捕虜になりました。戦闘が終わった夜、アデルフィ・ホテルに行きベッドで寝ました。しばらくぶりのことでした。朝起きてバルコニーに出ると、そこに日本軍の将校がいました。私たちは会話をし、彼が「君たちはひどい目に遭うことはないないだろう(よく聴き取れず)」と言ったので私は「OK、あなたは正しいと思います」と言いましたが、そうではありませんでした。それから数日は聖アンドリュース大聖堂やアデルフィ・ホテル周辺にいましたが、その後チャンギまで連行され、セララン兵舎で一人ひとりにベッドを与えられました。ベッドといっても床の上に一塊のコンクリートが置かれたものでした。そして私たちはチャンギに、どれくらいだったか忘れてしまいましたが、10か月か12か月ほどいたと思います。

私は捕虜のグループを作って将校棟に忍びこみました。彼らは皆会議中でした。そして彼らの食料を全て盗んで病院の患者に与えてやりました。それ以来将校たちは私のことが気に食わず、そのため私はタイの鉄道へと志願したのです。日本人は、もしタイに行ったなら、そこは保養キャンプであり、沢山の食料があり、ゲームをして遊べるなど色々なことができると私たちに約束しました。

私たちは5日間かけて鋼鉄製の米積み用トラックに乗って鉄道を北上しました。一つのトラックに38人乗っていました。皆が同時に横になったり座ったりすることができず、交替で行わなければいけませんでした。

日本軍は何十万人ものロームシャを使っていました。鉄道作業にあたる地元民からなる労働部隊のことです。私はカンチャナブリの第一病院に配属されました。私の仕事は毎日集団墓地を掘ることでした。その日の死者を埋葬するのです。いつも20遺体ほどでした。我々の墓地にいた監視兵はハラダ・タケオという人で、彼は戦前オーストラリアの会社で働いていました。彼はできる限りの範囲で親切でした。その収容所で別の仕事もありました。日本軍将校は毎日行水するために、44ガロンのドラム缶でお湯を沸かすよう私に命じました。私は火をつけ、燃料をくべ続けました。「もう沸きましたよ」と声をかけると、彼はドラム缶に飛び込んだのですが、(熱すぎて)すぐ出てしまいました。そのせいで私はボコボコにされました。

泰緬鉄道の建設が終わってから、私はターモアン、Nakon Nyak、そしてロッブリーに移動させられたのですが、そこで我々は滑走路の建設作業に従事しました。そこには200人の捕虜がいたと思いますが、私が唯一の衛生兵でした。泰緬鉄道で働いていたお医者さんたちはみな韓国、日本、中国に移動させられており、私たちの収容所には誰一人として残っていなかったのです。でも、私は小生意気なヤツでしたから、日本軍将校たちとも関わりました。そして彼らと村まで供給品を取りに行ったりもしました。医療品を得、彼らからお金ももらいました。以前より良い状態の収容所でした。熱帯性潰瘍は泰緬鉄道においてもその後も深刻な問題でした。そのまま放置しておくと死に至ります。足が壊疽になったら切断するか死ぬかです。ロッブリー収容所では放置してしまったケースが2例あり、彼らの脚や足は真っ黒になってしまいました。私は「足を切るか、死ぬかのどちらかだ」と聞くと「じゃあ、足を切ってくれ」と言われたので、私は2例手術をしました。(通訳からの質問:何を使ったのですか?ちゃんとしたメスがあったのですか?)幾つか持っていました。全ては覚えていませんが日本人がメスを入手するのを助けてくれました。はい、彼らに初めて協力してもらいました。

そして、戦争が終わってターモアン、Nakon Nyak 、そしてバンコクに移動しました。そして日本軍の施設に行きトラックを盗み、家具や金目になりそうな、ありとあらゆる物をトラックに積んで、バンコクのパディーズ市場に行って売りました。そして、お金をつくって、中国人が経営しているオンロンホテルに泊まりました。当時バンコクは中国人とタイ人の内戦状態にありました。機関銃や手榴弾がそこかしこに投げ込まれていました。負傷者がホテルにやって来たので彼らの手当てをしたりもしました。

そのようなことをしておりました時に、エルドリッジ中尉がホテルにきて、泰緬鉄道に戻って捕虜の遺体を捜索する仕事をやらないか、と言ってきましたので、私は「やる」と言って、やることにしました。その仕事で私は永瀬隆に出会いました。彼は、私たちの通訳として働きました。彼は通訳で、日本軍の中尉で憲兵隊の中尉でした。(注:永瀬氏の著書によれば、彼は将校待遇の「陸軍通訳」という身分だった)ですので私は彼と沢山の話をしました。そして彼に言ったのです。「戦時中の日本軍の兵士は天皇に盲目的に従う羊のようだった」。彼はそのことを東京の新聞に投稿しました。

ノンプラドックを発った後も永瀬には何度も会い、私たちは友人になりました。彼は沢山のお金と時間を費やし、135回も泰緬鉄道に戻り、亡くなった人たちの為に寺を2つ建てました。彼は沢山の善行をほどこし、人々を助け、私は彼に対して心から称賛の気持ちをもっています。

Tビルマのタンビュザヤまで行って帰ってくる短期間の間に、私たちはおよそ1万5000人の捕虜の遺体を発掘しました。しかし、泰緬鉄道建設中に死亡したのは14,000人でした。また現地民の死者の数は20万人にも上ると推計しています。彼らはビルマ、シャム(注:タイ)、マレー、インドネシアなど様々な国からやってきていました。

戦後の1986年、私は元捕虜への補償を要求するオーストラリア補償委員会を組織しました。そして1991年に来日しました。その時には東京のNHKテレビのインタビューを受けましたが、その番組は3,300万人の日本人が視聴していたと思います。私はそのインタビューのなかで、賠償として5億ドルを払ってほしいという要求をしました。もちろん、まだそれは受け取っておりません。

私は日本に5回来ておりまして、非常にすばらしい友達にも恵まれております。タエコ、ウツミさん、ヨシコ、ケイコなどです。以上です。

質疑応答

Q: 私の質問は、「地獄の業火峠」についてです。先ほど、工事を進める方角が間違っているのが分ったとおっしゃっていますが、その後、どうなったのですか。

リチャードソンさん: 方角が間違っているとわかったとき、工事は間違った方向に進められていたのです。工事を正しい方角に修正して続けました。ですから、今のようにカーブしているのです。

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Q: 私の質問にお答えいただければ、どなたでも結構です。お尋ねしたいことは、戦争が終わったとき、みなさんは昭和天皇、我々のいうヒロヒト天皇ですが、極刑に処せられるべきだと思われましたか。

バレットさん: そう思いました。私の考えでは、オーストラリアとしては天皇の極刑を望んでいました。アメリカがそれを望んでいなかった。というのは、彼らは日本との「軟着陸の平和」求めたからで、それはまったくまともな判断だと思います。しかし、天皇には責任がありました。天皇は陸海軍を統率し、サポート(*ママ)していました。天皇は有罪で、極刑に処されるべきであったのです。

リチャードソンさん: シンガポールのオートラム・ロードには、1800年代に英国人が造った小さな監房のある刑務所がありました。全然いい刑務所ではなかったのですが。日本軍は、彼らが悪いと思った人々をここに入れていました。今日、このような集会で、彼らの処遇がどのようであったかについて、お話しするのは止めます。というのは、処遇が余りにも酷かったからです。スリム大将がシンガポールに来て、そこで囚人が受けた虐待を聞いたとき、囚人担当の軍曹を外に連れ出して銃殺するように命じました。このことは、後に元帥に昇進した彼としては、とてもあり得ることではなかったのです。まったく、彼らしからぬことでした。彼には囚人たちが受けた虐待が、とても残念だったのでしょう。

ジョンストンさん: 天皇について私たちがお話しするとき…. 一言申しあげたいのは、戦争が終わって終戦の詔勅を天皇が放送したとき、彼が日本は平和を宣言しているのだと言ったとき、このラジオ放送まで、日本人で天皇の声を聞いたことのある者は、誰一人いなかったということです。そういう訳で、… 天皇は日本人によく知られていなかったのです。

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Q: 泰緬鉄道の建設に従事した日本兵の考えを書いた本を贈呈いたします。

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Q: 橋本と申します。貴重な証言、有難うございました。とても感動的で、あやうく泣けて来そうなお話しでした。元捕虜のみなさんに同行されているご家族の方に、お父上、またはお母様のご体験を、どのように受け止め、また思っていらっしゃるのか、伺いたいと思います。どなたか、お願いします。

ギャンブルさんの娘: 私の家族は、5人きょうだいです。戦後時間が経って戦争体験がより多く話されるようになるまで、父から戦争についてほとんど聞いたことはありませんでした。戦争体験についてあれこれと話すのは、オーストラリア流ではなかったので、父は戦争体験を話さなかったのでしょう。戦争の英雄である父を持つことで——家族のみんなが父を戦争の英雄だと思っています——父は、私にとってとても特別な存在なのです。父は日本人に対して、ときには私自身が驚くほど、敵意を抱いておりません。父は非常に謙虚な人間で、敵意を忘れています。私はそんな父を非常に誇りに思っております。そして父と一緒にこの日本を訪問し、体験をすべて共有できたことを誇らしく思います。

リチャードソンさんの娘: 私の父は、レオニーのお父さん(ギャンブル)と同じでした。長年、父は戦争のことを話しませんでした。この旅行に誘われた、いや、持ちかけられたとき、父は来たがらなかったのです。そして、日本に行くことを一晩中考えた挙句、戦争が終わってから70年経った今こそ和解するときだと決心したのです。父は驚くほど劇的に変わったのです。私たちは、本当に日本の人々から受けたおもてなしや親切に感謝しています。ありがとうございました。

エルウッドさんの息子: 皆さん、こんばんは。私はジム・エルウッドの長男で、ジェームス・エルウッドと申します。私が成長する過程において、父の戦争体験については、たった二つだけ知っていました。父がチモール島で特殊部隊員だったこと。そして、私が後日知ることになる「Z特殊部隊」と名付けられた秘密部隊のメンバーだったことです。母は2年もの間、情報部の人たちから、父は死んだか捕虜になった、やっぱり死んだ、いや捕虜になった、いや死んでる、いや捕虜になっている、という様々な音信を受け取ったにもかかわらず、父が帰還することを信じて、祈っていたことも知っています。戦後20年の歳月が流れた1960年代の終わり頃でさえも、父がマラリアで発汗するのを見ていましたが、父は戦争体験について、決して話しませんでした。1980年代になって、Z部隊や他の部隊の特殊作戦について一連の本が発刊されるようになったとき、父は、初めてZ部隊について話してくれました。というのは、長年にわたって、私がアマチュアの戦史研究家だったからです。そこで、私は実際に起きたことについて、オーストラリア戦争記念館やそれに類似した情報供給源の記録を使って、父の記憶を回復させる手助けを始めました。そして遂に、終戦直後、ダーウィンにおいて行われた戦争裁判に関する記録を見付けたのです。その記録が、裁判ですべてのことが公開されないようにオーストラリア軍当局が編集した文書の発見に繋がりました。それには、父が憲兵隊の手にかかって受けた手荒な取扱が記述されていました。拷問について、それが人間の精神に与える影響について研究したことのある人は誰でも、他人に拷問をすれば、それがどんなに非人間的で残酷なことか、おそらくお分かりだと思います。父の救出後、暫く経ってから作成されたその報告書の記述には、昨日の集まりでは話したのですが、今日、あなたがたにはお話ししなかったあることが含まれていました。それは、父が拷問でひどく打ちひしがれて、拷問する人間に殺してくれと嘆願したということです。さて、私はある理由があって、この長たらしいお話しをしました。それで、あなたがたは、父が日本に来る決心をしたこと、そして体験談を語ることが、どんなに難しいことであったか、ご理解いただけたと思います。私は父に育てられた人生の期間全体を通じて、父が日本や日本人に対して一度も粗暴な偏見に満ちた言葉を使うのを聞いたことがありません。でも、父がトムソン自動小銃を持っているときには、憲兵隊と同じ部屋に入れることを望みません。ご静聴、ありがとうございました。

バレットさんの息子: やあ、こんにちは。私はデイビッド・バレットの息子、ジム・バレットです。繰り返しになりますが、他の多くの方々同様、私が小さかった頃、捕虜体験については、多くのことが語られていませんでした。祖父母がどのように感じていたかは知りません。祖父母は私が生まれる遥か前に亡くなりました。そんな訳で、父が戦争補償委員会を立ち上げたことで、初めてすべてのことが明らかになり始めたのです。しかし、委員会はすぐに和解のことを考え始めたようです。特に父が日本へ行き、日本人と会い、憲兵将校だった永瀬隆氏と友人になり、その他の方々にお会いした後ですが。そのときの数名の方は、今日ここに来ておられます。そんな訳で、私は父のことをとても誇りにしています。しかし、和解が20年間も父が戦って来た主たる論点です。私はこれで三度日本に来ました。そして、とても歓待されていると感じています。日本の人々は素晴らしいです。私たちは将来に期待します。そして過去を理解し、世界のある国家がしがちな過去を継続することはやめましょう。ありがとうございました。

ジョンストンさんの娘: 皆さん、こんにちは。私はローナ・ジョンストンの娘で、パトリシア・ライトと申します。私が母と一緒にいたとき、母は戦争については全く話しませんでした。母が戦争について話すのを聞いたことはないと思います。もし、後になって本当に話したとしたら、話すことがよりふさわしい時期になっていたのでしょう。母が苦しみについて話すのを聞いたことがありません。また、日本人に対していやらしい言葉を口にしたこともありません。だからと言って、母たちが体験した飢餓や手荒な処遇に動揺しなかったというのではありません。しかし、他の方々と同様に、母の日本人に対する態度は、何時も全く公平で、今日ここに来たこと、この日本訪旅行、一緒に旅行した方々にお会いしたこと、そしてその方々のお話しを伺って喜んでいるのを知っています。皆さんのお話しはとても感動的で、これまでは楽しんで来ました。母は大分前に戦争で辛かったことを、もう済んだこととしていると思います。母は日本人に対し、とても好意を持っていますし、私たちや子供たちも日本人に好意を持つでしょう。と申しますのは、本当に差別を教えられたことがありません。戦争は恐ろしいことです。そして、私たちにとって戦争が二度と起こらないように望みますと言うことが、全ての事柄ではないでしょうか。

エルウッドさん: 何時ものことですが、私の記憶には私自身ががっかりしています。先ず、私はどうしても、ある…… した人のことを話すつもりだったのです。言い換えさせてください。憲兵隊の全員が、本当に残酷な人間ばかりではなかったのです。彼の名前は恥ずかしいことですが、忘れてしまいましたが、彼自身の大きな危険を冒して親切にしてくれた日系二世がいました。私が思い出せる限りでは、彼は二等運転士(*ママ)でした。彼は時々イーストの錠剤(「わかもと」のこと?)トマトのようなちょっとしたプレセントをくれました。私はひどい脚気にかかっていましたので、そのことを考えた上でのことでしょう。お恥ずかしいことには、彼の援助に対して、何年も前に謝意を表明していなければならなかったのですが、未だにしていません。そして、もし、奇跡的に彼か、彼の家族の名前が分かれば、彼の好意に対して感謝の言葉を伝えたいのです。もし、どなたか、チモール島の憲兵隊で二世のメンバーをご存知でしたら、どうか教えてください。

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