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玉鉾丸

玉鉾丸(たまほこまる)

所属 会陽汽船
類別
総トン数 6,780トン
速度
出発地 高雄
目的地 日本内地
出発日 1944年6月20日
捕虜数 772(米43、英190、豪267、蘭266)名
遭難地点 長崎県野母崎南西20km
遭難日 1944年6月24日深夜
捕虜死者数 560名
捕虜生存者数 212(米13、英42、豪72、蘭85)名
写真提供 出典不明(ご存じの方はお知らせ下さい)

「玉鉾丸」や「御代丸」を含む19隻の船舶と、これを護衛する海防艦4隻と敷設艦「若鷹」から成る大船団ホ-02は、合計900名以上の捕虜を乗せ、1944年6月3日シンガポールを出発、11日マニラに到着した。このときから、アメリカ諜報部は、同船団に関する通信を傍受、解読して、その動向を追っていた。マニラに停泊した3日間に、「玉鉾丸」は7,500トンの銅鉱石を積載した。マニラから、船団は規模を縮小して6隻が14日に高雄に向けて出港した。途中で激しい台風に遭遇し、捕虜は4日間、食事も用便もままならず、苦労して高雄に到着した。

しかも「御代丸」は台風で難破したので、18日、捕虜を一番余裕のある「玉鉾丸」に移乗させた。すでに7,500トンの銅鉱石を積載していたが、捕虜には二つの船倉が与えられ、我慢できる生活空間があった。

6月20日、ホ-02 船団は多数の艦艇に護衛され、高雄を後にした。21日は基隆に寄港し、その後一路日本内地を目指した。九州が近付くと、警備兵は、「間もなく内地だ」と心が躍っていたが、アメリカ諜報部は、執拗に追跡していたのである。

6月19日、アメリカ諜報部は高雄からの通信を傍受、「船団は間もなく門司に向かう。それは11隻で構成されていて、数隻は米軍捕虜を乗せている模様」と解読したが、捕虜の乗船を知ったにもかかわらず、船団攻撃の指令が発出された。

船団攻撃の指令を受信して指定海域に急行した米潜「タング」「ティノーサ」と「シーライオンII」の3隻は、24日、作戦会議のために長崎の南西120海里の地点で合流、「タング」が一番海岸寄りに位置し、西に向けて30海里の間隔で、船団を待ち受けることが決まった。同日の夜、「タング」は船団に接触すると、巧みに護衛艦の警戒幕の間をすり抜けて船団の懐深く入り込み、2列に並んだ右側の船団を海岸側から攻撃することにした。このとき、船団指揮官は、航海の終盤に近づいた安堵感からか、ジグザグ運動を止め、速度を12ノットから10ノットに落とした。「タング」が近づくと、先頭は鉄骨木造の高い上部構造物がある大きな4本マスト、次は機関が後方にあるタンカーか貨物船と分かった。零時数分前、「タング」は、艦首発射管から3本の魚雷を後続船に、若干間隔を広げ3本の魚雷を先頭の船に目がけて発射し、すかさず4基のエンジンを全開にして、警戒幕の外に逃れた。最初の魚雷は「玉鉾丸」の前部船倉のハッチの真下に、次の魚雷は船体の中央部に命中した。海水が船倉になだれ込み、「玉鉾丸」は1分強で数百名の人間とともに沈んだ。

翌朝10時頃、救難船が沈没現場に到着、兵士、次に婦女子が救助され、捕虜の救助はその後になった。

魚雷の炸裂が激しかったこと、「玉鉾丸」が瞬時に沈没したこと、救命用具と救命ボートの数の不足が、捕虜772名のうち560名もの死者を出した原因である。

6月25日の午後、「玉鉾丸」の生存者212名は、長崎港に到着した。岸壁に着くと、捕虜は真水で身体を洗い、そこから長崎市内にある蘭軍捕虜が収容されている福岡捕虜収容所第14分所に送られた。1945年8月9日の午前、彼らは長崎市に投下された原爆に遭遇することになったのである。

注:捕虜数、同死者数と生存者数は Death on the Hellships Gregory Michno著 を参考にしたが、数に誤差がある。