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治菊丸

治菊丸(はるぎくまる)

所属 大同海運(拿捕船:旧蘭船ファン・ワルワイク)
類別 貨物船
総トン数 3,039トン
速度
出発地 スマトラ島ベラワン(メダンの港町)
目的地 スマトラ島パカンバロエ
出発日 1944年6月25日
捕虜数 英、豪、蘭720名
遭難地点 マラッカ海峡メダン南東
遭難日 1944年6月26日13:45頃
捕虜死者数 180名
捕虜生存者数 540名
写真提供 出典不明(ご存じの方はお知らせ下さい)

「治菊丸」は出港の翌6月26日朝、2隻のタンカーと貨物船で構成された船団に合流し、マラッカ海峡を南下していた。10時前、英潜「トラキュラント」は、ベラワンの南東100海里の地点で4,000㌧の貨物船と小型船2隻の船団が、駆潜艇2隻と機雷敷設艦1隻に護衛され、狭い海峡を航行しているのを発見した。11時12分、同艦は魚雷4本を発射、そのうちの2本が貨物船に命中した。

「トラキュラント」の雷撃により、「治菊丸」は二つに折れ、船尾の半分は、浅い海底に横倒しになって沈んだ。捕虜は直ちに船外脱出を許可された。同船は15分で沈んだが、海が穏やかであったのと、日本側が捕虜の救助に尽力したので、多数の人命は失われなかった。しかしながら、後日、関係者は、救命用具が不十分であり、負傷者の手当てを怠ったとして、告発されている。日本人船員と民間人雇用者30名が死亡した。

6月28日、捕虜の生存者540名はシンガポールのリバー・バレー・ロード収容所に移送された。負傷者多数のため、スマトラ鉄道行きは中止になり、その後、日本へ移送される他のグループに編入されたと思われる。

注:出発地:スマトラ島パンカランスス、目的地:シンガポール 遭難地点:スマトラ島リマブル岬北沖10㌔付近(03-15N, 99-46E)という資料(大同海運拿捕船)もある。