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日本国内の捕虜収容所

日本国内の捕虜収容所

福林 徹

1.連合軍捕虜収容所の設置

太平洋戦争の緒戦において、日本軍は予想外の大勝利を収め、東南アジアや西太平洋の占領地域で多数の連合軍兵士を捕虜とし、その数は最終的に約35万人に及んだ。日本政府は、これらの捕虜を取り扱うために、ハーグ「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」(1912年、批准・公布)付属書に義務づけられた「俘虜情報局」を、1941年末に陸軍省内部に設置し、翌年3月には、陸軍省軍務局に「俘虜管理部」を設置した。

捕虜のうち植民地兵は、日本に反抗しないことを条件に、原則として釈放されることになったが、欧米人の兵士約15万人は、現地に設置された捕虜収容所で俘囚の生活を送ることになった。そのため、1942年始めの時点では、日本国内の捕虜収容所は香川県善通寺に設置された1ケ所だけで、日本軍がグァム島を占領した時に捕まったアメリカ兵などを収容していた。

ところが1942年5月、日本政府は労働力不足を補う手段として、捕虜の一部を満州、朝鮮、国内に移して使役する方針を決め、国内には、同年末から翌年初頭にかけて、函館、東京、大阪、福岡の4ケ所に本所を置く捕虜収容所を開設し、その傘下に分所、派遣所、分遣所などが設置されていった。

分所は、本所から遠方の企業での作業の便宜をはかるために支所として設置されたもので、分遣所はさらに小さい支所である。派遣所というのは、1943〜44年にかけて日本軍の人的負担を減らすために、所長を除いて企業側から要員を出すように分所を改編したものであるが、戦争最末期に本土決戦が予想されるようになると、軍の統率を強化するために、再び分所に改編されるようになった。

これらの収容所は、京浜・阪神などの工業地帯や、鉱山・炭鉱などに多く設置され、労働力不足に悩む企業からは相次いで捕虜の使用要請が出され、陸軍も、初期の東京や大阪などでの試験的使役結果が良好であったとして、本格的な労務動員を開始した。これに伴って、日露戦争時に定められていた「俘虜取扱規則」や「俘虜取扱細則」などを現状に合うように改正するとともに、「俘虜給与規則」、「俘虜派遣規則」、「俘虜労務規則」なども順次定められた。

なお、捕虜の管理は陸軍が行うことになっていたが、海軍は、海軍の捕獲した捕虜を陸軍に引き渡す前に情報収集を望み、捕虜を仮収容する施設を神奈川県大船町(現・鎌倉市)植木に設置した。この「大船収容所」は、表向きは捕虜収容施設であることを伏せて、「横須賀海軍警備隊植木分遣隊」と称していたが、実質は海軍専属の捕虜収容所であった。  

その後、1945年4月になって、本土決戦に備えた軍管区の再編成に対応して、新たに仙台、名古屋、広島(善通寺俘虜収容所を吸収)の3ケ所にも捕虜収容所本所が開設され、この結果、本所の数は合計7つになった。また、戦争末期には、京浜・阪神などの収容所は空襲や本土決戦に備えて、内陸部や日本海側に移転することも多かった。

これら国内の収容所に収容された捕虜の総数は約36000人に達するが、それ以外に、東南アジアから捕虜を移送中に輸送船が撃沈され、約11000人の捕虜が海没するという悲劇があった。

国内の捕虜収容所の組織はたびたび改編され、大戦期間中に開設された本所・分所・派遣所・分遣所などは約130ケ所に及ぶ。その一方、途中で閉鎖されるものもあり、終戦時においては7ヶ所の本所の傘下に、分所81ケ所、分遣所3ケ所があり、合計32418人の捕虜が収容されていた。そして、終戦までに約3500人が死亡している。

なお、当時の日本では捕虜のことを「俘虜」と称するのが正式であったが、ここでは固有名詞を除いて、現代語として常用される「捕虜」の言い方に統一しておく。

2.捕虜の生活

(1)施設

捕虜収容所の施設は、使役企業が用意して軍に引き渡し、その後は軍が維持・管理するという形態をとった。建物は、新築されることは少なく、既存の倉庫、企業の従業員宿舎、学校の施設などを改造して転用することが多かった。それらは、有刺鉄線つきの板塀に囲まれた敷地内に、日本人職員が執務・居住する管理棟、捕虜の宿舎、倉庫、便所などの木造の建物が配置されているのが典型的なものであった。捕虜の宿舎の内部は、通路をはさんで蚕棚式のベッドが並んでいる場合や、日本式にゴザか畳を敷いて床の上に寝る場合があったようである。照明は裸電球、暖房は火鉢やドラム缶のストーブ、寝具は、分所から毛布が支給されたが、冬の寒さは捕虜の身にこたえるものであったという。便所は日本式のくみ取り式便所で、捕虜たちは悪臭やハエに悩まされた。風呂は設置されていることが多かったようであるが、燃料不足から湯が使えなかったり、人員過剰で週に1回ぐらいしか入れない場合もあった。そのため、捕虜たちは、洗濯場や洗面所で身体を洗ったり、近くの川へ行くこともあったという。

(2)食事

食事は、主計係の日本兵が調達してきた材料を、捕虜の炊事当番が交代で調理する方式が普通だったようである。茶碗1杯分の米飯、みそ汁、漬物という日本式の食事が基本であったが、1日1食はパン食という場合もあった。月に何回かは肉や魚が出ることもあったが、食料事情が深刻になるにつれて姿を消していった。昼食は、仕事場へ弁当を持参するのが普通であったが、企業の方で多少の食物を用意することもあった。

飢餓と栄養失調は、捕虜たちにとって最も深刻な問題の一つであった。日本軍としては、戦時下の悪条件の中で食料の確保には精一杯努力したという声もあるが、戦争末期にはひどい窮乏状態に陥っていたことは否定できない。捕虜が田畑の作物などを盗み食いしたり、作業場や収容所の倉庫の食料を盗んだ時には、ひどい制裁を受けたが、野生のヘビ、カメ、カエルなどを捕らえて食用にすることは黙認され、それが御馳走だったという話もある。たまに国際赤十字からの救恤品が届くことがあったが、その時は捕虜たちの喜びは大変なものだったという。ただし、分所によっては、赤十字の救恤品にお目にかかったことはないという元捕虜の声もある。

(3)衣服

衣服は、捕虜の私物の他に、収容所から作業服、手ぬぐい、地下足袋、軍手などが支給されたが、戦争が進むにつれて衣料品の不足も深刻化し、衣服の修繕や取り替えなどは困難となり、戦争末期には、捕虜はボロボロの姿になっていたという証言もある。雨具や防寒用のオーバーなどの支給は、分所によって様々であった。

(4)日用品・嗜好品

分所内に酒保(売店)が設けられていて、簡単な日用品が買える場合もあった。酒保のない分所では、監視員の付き添いの下で近所の商店で買い物をすることもあった。分所からタバコなどを、わずかばかり支給することもあった。

(5)娯楽

捕虜の宿舎内での日常生活には、監視員はあまり干渉しなかった。ピンポンやキャッチボールなどのスポーツ、ギターなどの楽器の演奏、YMCAなどから差し入れられた本の読書などができる場合もあったが、そのようなことが望めない分所もあったらしい。

クリスマスは欧米人にとって最大の行事なので、この日は精一杯お祝いの行事が行われ、日本軍もそれを容認した。東京本所にいたアメリカ兵捕虜Robert R. Martindaleや、神戸分所にいたオーストラリア兵捕虜 John Laneの回想記には、捕虜たちによる演劇や合唱が行われ、日本兵も見物したことが書かれている。

(6)宗教

基本的には捕虜の自由にまかされており、収容所外から日本人のキリスト教の牧師が訪れて礼拝が行われることもあった。

(7)通信

捕虜は、国際赤十字を通じて、単語25語以内等の制限つきで本国の家族と交信できることになっていたが、実際に手紙のやり取りができたのは、収容期間を通じて1、2回あったかどうかという程度で、全然ない分所もあったらしい

(8)労働

建前としては、1日8時間労働、週1回休みが基本になっていたようであるが、実際には、それをはるかに越える労働を強いられるケースが多かった。労働内容は、企業の種類にかかわらず、原料や物資の運搬、荷役、土木、採鉱などに関わる単純肉体労働がほとんどであったが、一部には技術労働に携わり、優秀な能力を発揮する者もあったという。しかし、いずれにしても、労働は苛酷で、食料不足の捕虜の身にこたえるものであった。

捕虜の労働に対しては賃金が支払われた。日本軍の規定では、賃金は企業から軍に対して捕虜1人あたり1日1円が払われ、そのうち捕虜の受け取り分は、兵卒は1日10銭、下士官は15銭、准士官は25銭などとなっていた。将校は、国際法によって労働は免除され、日本軍の将校と同等の給料が支給されることになっていたが、実際には、「1人として無為徒食するものあるを許さない」(1942年5月、善通寺師団長への東条陸相の訓示)という日本軍の方針の下、「自発的」装いをとりながら労働を課せられた。

企業は賃金を日本軍の主計係にまとめて払い、主計係が捕虜将校に渡し、捕虜将校が各捕虜に払うという形をとっていたが、現金ではなく通帳で授受が行われていた。捕虜はお金を使う時には、捕虜将校からもらい、監視員につき添われて収容所外の商店で買い物をすることもあったという。ただし、食料は買えなかったとのことである。

しかし、元捕虜の中には、賃金をもらっていないと証言する人も多い。これは、金銭の授受は基本的に通帳によって行われており、敗戦後の混乱とインフレの中で、管理がうやむやになったことが原因ではないかと思われる。

(9)医療

医療は、日本人の軍医が巡回に来たり、各分所の捕虜の軍医が診察にあたった。各分所には簡易な診察室のようなものがあったが、医薬品の支給はほとんどなく、仕事を休んで安静をとる場合は、食料も減らされる始末だった。また、衛生状態の悪さから、ノミやシラミに悩まされ、伝染病の恐れもあった。東京俘虜収容所と大阪俘虜収容所には、付属病院(品川俘虜病院、神戸俘虜病院)があり、各分所からの重病の捕虜を収容した。それ以外に、近辺の陸軍病院や仕事先の企業の病院に入院することもあった。

(10)監視員と懲罰

捕虜の監視は、収容所内と仕事への行き帰りには、収容所勤務の日本兵と軍属の監視員があたり、仕事先の企業へ着いてからは企業の監視員があたった。それ以外に、近くの連隊などから派遣されて来る兵士が収容所や作業場周辺の警備にあたった。

監視員による捕虜への暴力は多発し、監視員の機嫌を損ねただけでもピンタを食らわされるなどは日常茶飯であった。些細な規則違反でも懲罰は厳しく、特に食料不足などから起こる捕虜の窃盗行為などに対してはひどい制裁が加えられた。げんこつだけでなく、軍刀の鞘や銃の台尻で殴る、「気をつけ」の姿勢で長時間立たせる。頭上に水の入ったバケツを持たせて立たせる、長時間のランニングを強いる、水道水を口に突っ込んで腹一杯水を飲ませ、腹を蹴る、営倉に監禁して食料を与えないなど、捕虜の手記や戦犯裁判の記録には様々な虐待行為が記されている。重罪や逃亡捕虜の場合は、軍法会議にかけられた上、刑務所などに送られることもあった。

(11)死者

日本国内の捕虜収容所全体での捕虜の死亡率は約10%であった。死亡原因のほとんどは、栄養失調、過労、衛生状態の悪さなどからくる病気・衰弱死であり、捕虜収容所での待遇は過酷であったと言わざるを得ない。

ただ、この中には東南アジアから移送直後に死亡するケースが多かったという事実はある。これは、現地で既に衰弱状態に陥っていたり、捕虜輸送船での苛酷な待遇に起因している。そういう意味では、高い死亡率が、必ずしも日本国内の収容所の責任と言えない点もあり、泰緬鉄道の地獄などに比べると国内の収容所はまだましだった(国外も含めた全体の捕虜の死亡率は約27%)と言えるが、他方、戦争末期の窮乏状態からみて、もう少し戦争が長引いていれば新たに大量の死者が出た可能性にも留意しなければならない。

その他の死因として、作業中の事故や監視員による暴力も大きな問題であった。これは、直接の死因になった例はそれほど多いとは言えないが、事故や暴力で受けた負傷が原因で間接的に死につながるケースは少なからずあった。

戦災による死者も100人ほどあった。その例として、仙台俘虜収容所釜石分所で2回の米軍の艦砲射撃により32人、東京俘虜収容所川崎扇町分所で空襲により22人、同じく東芝鶴見分所で空襲により31人、福岡俘虜収容所長崎三菱造船分所で空襲と原爆により8人などがある。

なお、本土決戦という事態になった時には、捕虜は全員殺害という方針が示されていたことは事実のようである。これを明示する資料は少ないとされるが、三重県の入鹿分所の所長であったY氏は、米軍上陸の場合の捕虜の殺害方法について、分所幹部の間で案をめぐらしていたことを証言されている。

捕虜が死亡した時はほとんどの場合火葬され、分所の近くの寺院などに遺骨が預けられることが多かった。遺骨は戦後、占領軍によって回収されたが、今も慰霊碑などが残る寺院がある。

3.捕虜の解放と戦犯裁判について

日本の敗戦と同時に、アメリカ軍は連合軍捕虜にただちに救援の手を差し伸べ、日本政府に対して、各地の捕虜収容所の屋根に「PW」と標記することを命じた上で、空母艦載機やB29による救援物資のパラシュート投下作戦を行った。そして、捕虜の集結拠点を指定し、1945年9月1日の降伏文書調印後、ただちに係官を派遣して捕虜を受領した。彼らは鉄道等を利用して、長崎、静岡県新居、横浜、宮城県塩竃、北海道千歳などに集合し、同年9月中には、ほとんどの捕虜が沖縄・マニラ経由で本国へ帰還した。

一方、占領軍は1945年末から戦犯容疑者の逮捕に乗り出し、それとともに横浜でのBC級戦犯裁判の審理が開始された。

開戦直後、連合国は日本政府に対して、捕虜の人道的待遇を定めた「ジュネーブ条約」を適用するよう要望し、日本政府は、同条約を批准はしていないが、その規定を「準用」すると回答した。しかし実際には、日本軍は捕虜収容所の監視員などに「ジュネーブ条約」などは全く教育しておらず、暴力は多発し、極度の物資の欠乏や重労働と相俟って、日本側の捕虜の取り扱いは「人道的」にはほど遠いものであった。連合国は戦争中から日本軍の捕虜虐待を察知して、国際赤十字を通して抗議を繰り返したが、日本側はこれをほとんど無視した。しかし、その結果は、戦犯裁判において連合国からの厳しい処断を受けることになった。

横浜裁判で起訴された事件の総数は327件、被起訴人員は1037人であるが、そのうち国内の捕虜収容所関係者に対するものは222件、被起訴人員475人という多数を占める。これは、日本軍による日常的な暴力、逃亡捕虜の殺害、医療処置の欠如、食料の支給不足、赤十字救恤品の横領などが罪に問われたものである。

この結果、全国のほとんどの分所で戦犯者を出しており、そのうち28人が死刑を執行された。刑死者を多く出した代表例としては、東京俘虜収容所第4(直江津)分所の8人と、同第6(平岡)分所の6人があり、これらは劣悪な待遇で多数の捕虜を死亡させた責任を問われたものであるが、多数の捕虜が死亡した事例は他にもあり、この2つの収容所での判決結果の厳しさが目立つ。また、福岡俘虜収容所大牟田三池炭鉱分所(17B)で4人、同じく水巻(折尾)分所(6B)で2人が刑死した例では、逃亡捕虜殺害が大きな理由になっている。後者の事件では、福岡俘虜収容所本所長菅沢亥重大佐も総責任者としての責任を問われて刑死している。

以下に28人の刑死者を示す。

平手嘉一中尉(函館・室蘭分所長) 西沢正夫大尉(東京・三菱横浜造船分所長)
柴野忠雄准尉(東京・直江津分所) 青木勇次曹長(東京・直江津分所)
柳沢章軍属(東京・直江津分所) 関原正次軍属(東京・直江津分所)
大日向浩軍属(東京・直江津分所) 秋山米作軍属(東京・直江津分所)
鈴木吉博軍属(東京・直江津分所) 牛木栄一軍属(東京・直江津分所)
中島助雄大尉(東京・平岡分所長) 道下政能曹長(東京・平岡分所)
吉沢国夫伍長(東京・平岡分所) 木村保軍属(東京・平岡分所)
平松定春軍属(東京・平岡分所) 川手晴美軍属(東京・平岡分所)
高木芳市通訳(大阪・多奈川分所) 村上宅次大尉(広島・新居浜分所長)
菅沢亥重大佐(福岡本所長) 末松一幹大尉(福岡・折尾分所長)
穂積正克軍曹(福岡・折尾分所) 本田始軍属(福岡・熊本分所)
福原勲大尉(福岡・大牟田三池分所長) 由利敬中尉(福岡・大牟田三池分所長)
武田定軍属(福岡・大牟田三池分所) 牟田松吉軍属(福岡・大牟田三池分所)
池上宇一中尉(福岡・相当分所長) 顛川幸生海上曹(福岡・相当分所)

その他、戦犯者を多く出した分所としては、海軍「大船収容所」(30人)、名古屋俘虜収容所鳴海分所(22人)、東京俘虜収容所新潟海陸運送分所(18人)、同新潟鉄工所分所(17人)、広島俘虜収容所新居浜分所(13人)などがある。

戦犯裁判の結果が公正であったかどうかについては、様々な問題点があることは事実であり、なお吟味が必要であるが、米軍はかなり徹底した調査をおこなっており、量刑の適否はともかく、全くの事実無根による冤罪といったケースは、横浜裁判に関する限りあまり見当たらないと言ってよさそうである。

4.全国の捕虜収容所一覧

函館俘虜収容所

1942年12月26日に正式開設。管轄区域は、最初は北海道の他に東北地方の一部を含んでいたが、1945年4月から仙台俘虜収容所の新設に伴い、東北地方は分離し、北海道のみになった。

初代所長畠山利雄大佐、二代目所長江本茂夫中佐、三代目所長細井篤郎大佐。

本所

1942年12月1日、函館市台町27(現・入船町)の函館検疫所構内に仮開設、26日、正式開設。

使役企業は函館船渠、函館港運株式会社など。

45年6月7日、北海道空知郡美唄町2695−1の美唄炭坑に移転。

使役企業は三井鉱山美唄鉱業所。

終戦時収容人員396人(英283、蘭53、米50、他10)、収容中の死者114人。

上磯派遣所

1943年10月1日、函館俘虜収容所第1派遣所として、北海道上磯郡上磯町の浅野セメント工場内に開設。45年6月7日閉鎖。捕虜は美唄本所と芦別分所に移動。

使役企業は浅野セメント北海道工場。収容中の死者2人。

亀田派遣所

1945年3月13日、函館俘虜収容所第2派遣所として、北海道亀田郡亀田村字港(現・函館市亀田港町)に開設。6月7日閉鎖。捕虜は赤平分所に移動。

使役企業は函館港運株式会社。収容中の死者4人。

八雲分遣所

1943年6月16日、函館俘虜収容所第1分遣所として、北海道山越郡八雲町に開設。10月25日閉鎖。捕虜は函館本所と室蘭分所に移動。収容中の死者1人。

室蘭分所・芦別分所

1942年12月6日、函館俘虜収容所第1分所として室蘭市知利別町に開設。43年1月15日、室蘭市中島町3に移転。

使役企業は日本製鉄輪西製鉄所。

45年6月7日、北海道空知郡芦別町頼城に移転。

使役企業は三井鉱山芦別鉱業所。

終戦時収容人員509人(英349、蘭155、米5)、収容中の死者53人。

赤平分所

1945年6月7日、函館俘虜収容所第2分所として北海道空知郡赤平町(現・赤平市)に開設。

使役企業は住友鉱業赤平鉱業所。

終戦時収容人員281人(英167、米114)、収容中の死者なし。

歌志内分所

1945年7月、函館俘虜収容所第3分所として北海道空知郡歌志内町(現・歌志内市)字東光に開設。

使役企業は北海道炭鉱空知鉱業所。

終戦時収容人員311人(米284、英26、南アフリカ1)、収容中の死者なし。

西芦別分所

1945年6月29日、函館俘虜収容所第4分所として北海道空知郡芦別町(現・芦別市)字西芦別に開設。主に将校の捕虜を収容。捕虜は自活労務に従事。

終戦時収容人員100人(米52、豪45、英3)、収容中の死者なし。

仙台俘虜収容所

1945年4月14日、東北地方を管轄する東北軍管区の創設に伴い、仙台俘虜収容所が開設され、東京俘虜収容所や函館俘虜収容所に所属していた分所の一部も吸収した。

所長は北原利一中佐。

本所

1945年4月14日、仙台市土橋通58に開設。7月、岩手県和賀郡黒沢尻町(現・北上市)に移転。捕虜は収容せず、本部事務所のみ。

湯本分所

1943年4月15日、東京俘虜収容所第6分所として、福島県磐城郡湯本町水野谷(現・いわき市常磐水野谷町)に開設。8月1日、第4派遣所と改称。45年4月14日、仙台俘虜収容所に移管、第1分所となる。

使役企業は常磐炭鉱鹿島鉱業所。

終戦時収容人員567人(英232、加198、蘭135、米2)、収容中の死者32人。

>>笹本妙子によるレポート(PDF)

好間分所

1944年3月30日、東京俘虜収容所第14派遣所として、福島県磐城郡好間村(現・いわき市好間町)上好間に開設。45年4月14日、仙台俘虜収容所に移管、第2分所となる。

使役企業は古河鉱業好間鉱業所。

終戦時収容人員246人(英101、ポルトガル67、加46、米17、他15)、収容中の死者8人。

>>笹本妙子によるレポート(PDF)

細倉分所

1944年12月1日、東京俘虜収容所第3分所として、宮城県栗原郡鴬沢村(現・鴬沢町)に開設。45年4月14日、仙台俘虜収容所に移管、第3分所となる。

使役企業は三菱鉱業細倉鉱業所。

終戦時収容人員281人(米234、英45、蘭2)、収容中の死者19人。

大橋分所

1942年11月30日、函館俘虜収容所第2分所として、岩手県釜石市に開設。43年4月1日、岩手県上閉伊郡甲子村(現・釜石市甲子町)大橋に移転。44年4月20日、東京俘虜収容所に移管、第6分所となる。45年4月14日、仙台俘虜収容所に移管、第4分所となる。

使役企業は日本製鉄大橋鉱業所。

終戦時収容人員395人(加198、蘭93、英56、米40、豪8)、収容中の死者15人。

釜石分所

1943年11月10日、函館俘虜収容所第3分所として、岩手県釜石市大字釜石第4地割68−1に開設。44年4月20日、東京俘虜収容所に移管、第7分所となる。45年4月14日、仙台俘虜収容所に移管、第5分所となる。8月、米軍の艦砲射撃により破壊され、終戦直後に釜石市矢之浦に一時移転後、大橋分所に移動。

使役企業は日本製鉄釜石製鉄所。

終戦時収容人員351人(蘭168、英86、米78、他19)、収容中の死者50人。このうち32人は米軍の艦砲射撃による。

尾去沢(花輪)分所

1944年9月8日、東京俘虜収容所第8分所として、秋田県鹿角郡尾去沢町(現・鹿角市尾去沢町)新山の学校施設(現・尾去沢中学校)を利用して開設。45年4月14日、仙台俘虜収容所に移管、第6分所となる。

使役企業は三菱鉱業尾去沢鉱業所。

終戦時収容人員545人(米494、英50、豪1)、収容中の死者8人。

花岡分所

1944年12月1日、東京俘虜収容所第9分所として、秋田県北秋田郡花岡町(現・大館市花岡)観音堂38に開設。45年4月14日、仙台俘虜収容所に移管、第7分所となる。

使役企業は藤田組。

終戦時収容人員288人(米245、豪43)、収容中の死者6人。

小坂分所

1944年12月1日、東京俘虜収容所第10分所として、秋田県鹿角郡小坂町大谷地の小坂鉱山製錬所に隣接して開設。45年4月14日、仙台俘虜収容所に移管、第8分所となる。

使役企業は藤田組。  

終戦時収容人員343人(米236、蘭99、英8)、収容中の死者8人。

酒田分所

1944年9月20日、東京俘虜収容所第22派遣所として、山形県酒田市本町に開設。45年4月14日、仙台俘虜収容所に移管、第9分所となる。

使役企業は日本通運酒田支店。

終戦時収容人員294人(英248、豪26、他20)、収容中の死者18人。

和賀川分所

1945年5月20日、仙台俘虜収容所第10分所として、岩手県和賀郡岩崎村(現・北上市和賀町)大字山口の和賀仙人に開設。京浜地区からの捕虜300人が入所。

使役企業は東北電気製鉄和賀川工場、捕虜は工場の東800メートルの収容所から徒歩で通勤。

終戦時収容人員300人(米188、英104、蘭3、他5)、収容中の死者なし。

上北分所

1945年6月25日、仙台俘虜収容所第11分所として、青森県上北郡天間林村天間館字南天間館1番地に開設。

使役企業は日本鉱業上北鉱業所。

終戦時収容人員196人(米)、収容中の死者なし。

東京俘虜収容所

1942年9月25日開設。管轄区域は、最初は東北、関東、北陸地方などにまたがっていたが、1945年4月から仙台俘虜収容所や名古屋俘虜収容所が新設されたのに伴い、東北や北陸は分離し、関東甲信越のみになった。また、京浜工業地帯にあった多数の分所や派遣所は、戦争末期には、空襲と本土決戦に対処するため、内陸部や日本海側に移転するものが多かった。

初代所長は鈴木薫二大佐、二代目所長酒葉要大佐。

本所

1942年9月12日、品川区東品川3丁目の京浜運河建設事務所の建物を利用して、品川俘虜収容所として開設。9月25日、東京俘虜収容所本所と改称。43年7月20日、大森区入新居町(現・大田区平和島)に移転。

使役企業は日本通運など。

終戦時収容人員606人(米437、英115、蘭28、他26)、収容中の死者41人。

品川俘虜病院

1943年8月1日、東京俘虜収容所本所跡地を利用して、品川区東品川3丁目に開設。東京俘虜収容所の本所・分所からの重病の捕虜を収容。

戦後の戦犯裁判で、病院長の徳田久吉軍医中尉は、捕虜に対する人体実験の罪で終身刑の判決を受けたが、精神異常により免訴となった。

海軍「大船収容所」

1942年4月6日、海軍の捕獲した捕虜から情報を収集する目的で、「横須賀海軍警備隊植木分遣隊」の名称で、神奈川県鎌倉郡大船町(現・鎌倉市)植木に開設。終戦直後の45年8月21日、東京俘虜収容所本所分遣所と改称して、海軍の管轄から陸軍の管轄に移された。

終戦時収容人員135人(米126、英9)、収容中の死者8人。

戦後の戦犯裁判で、収容所職員や横須賀海軍警備隊関係者など多数が戦犯に問われた。

川崎分所

1942年8月24日、川崎仮俘虜虜収容所として、川崎市大島町4丁目に開設。9月25日、東京俘虜収容所第1分所と改称。

使役企業は日本通運川崎支店など。

終戦時収容人員205人(英135、米48、豪8、他14)、収容中の死者16人。

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川崎扇町分所

1942年11月12日、東京俘虜収容所第1分所埠頭支所として、川崎市(川崎区)扇町に開設。43年8月1日、第2分所と改称。

使役企業は三井埠頭倉庫・川崎船舶荷役など。

終戦時収容人員139人(米59、伊44、英25、他11)、収容中の死者47人。このうち22人は45年7月25日の空襲で死亡。

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横浜分所

1942年9月12日、横浜俘虜収容所として、横浜市中区横浜公園の横浜球場スタンドを利用して開設。9月25日、東京俘虜収容所第2分所と改称。43年8月1日、第3分所と改称。1944年5月1日閉鎖。捕虜は日清製油分所、横浜耐火煉瓦派遣所、横浜船舶荷役派遣所へ移動。

使役企業は横浜船舶荷役など。収容中の死者7人。

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長岡分所

1945年5月13日、東京俘虜収容所第3分所として、新潟県長岡市蔵王町の北越電化工業(現・北越メタル)の敷地内に開設。オランダ兵200人(大部分インドネシア系)が入所。

使役企業は北越電化工業蔵王工場、捕虜は炭素、カーバイド、鉄などの生産に従事。

終戦時収容人員198人(蘭)、収容中の死者2人。

長岡分所分遣所

1945年5月13日、東京俘虜収容所第3分所分遣所として、新潟県長岡市城岡町の城岡駅(現・北長岡駅)前の倉庫を利用して開設。

使役企業は日本通運長岡支店など。

終戦時収容人員99人(蘭80、米19)、収容中の死者1人。

直江津分所

1942年12月7日、東京俘虜収容所第4分所として、新潟県中頸城郡直江津町(現・上越市)の日本ステンレス工場内に開設。43年2月、中頸城郡有田村春日新田(現・上越市川原町)に移転。

使役企業は信越化学直江津工場、日本ステンレスなど。

終戦時収容人員698人(米338、豪231、英90、蘭39)、収容中の死者61人。

戦犯裁判では、看守等8人死刑、3人終身刑、4人有期刑という厳しい判決を受けた。

新潟海陸運送分所

1943年8月20日、東京俘虜収容所第5分所として、新潟県新潟市沼垂に開設。12月4日、中蒲原郡大形村河渡新田(現・新潟市小金町)に移転。44年1月、宿舎の倒壊事故により多数の捕虜が死亡。捕虜は、一時的に新潟海陸運送や新潟鉄工所内に移動。

使役企業は新潟海陸運送など。

終戦時収容人員692人(米527、加109、英34、蘭18、他4)、収容中の死者99人。このうちアメリカ兵1人は、逃亡して捕まり殺害された。

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諏訪分所

1945年6月4日、東京俘虜収容所第6分所として、長野県諏訪郡北山村(現・茅野市北山)に開設。

使役企業は日本鋼管諏訪鉄山鉱業所。

終戦時収容人員243人(蘭91、米57、英55、加34、他6)、収容中の死者4人。

日立大雄院分所

1943年5月12日、東京俘虜収容所第8分所として、茨城県日立市宮田町大雄院の日立鉱山精錬所に開設。8月1日、第6派遣所と改称。45年8月、第7分所と改称。

使役企業は日本鉱業日立鉱山。

終戦時収容人員349人(蘭280、米60、ノルウェー9)、収容中の死者10人。

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日立本山分所

1944年3月5日、東京俘虜収容所第12派遣所として、茨城県日立市宮田町本山の日立鉱山に開設。45年8月、第8分所と改称。

使役企業は日本鉱業日立鉱山。

終戦時収容人員293人(蘭145、英80、米68)、収容中の死者5人。

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足尾分所

1943年11月10日、東京俘虜収容所第8派遣所として、栃木県上都賀郡(現・日光市)足尾町砂畑に開設。45年8月、第9分所と改称。

使役企業は古河鉱業足尾鉱業所。捕虜は通洞坑内で採掘作業に従事。

終戦時収容人員245人(米210、英32、他3)、収容中の死者24人。

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足尾分所分遣所

1945年6月4日、東京俘虜収容所本所分遣所として、栃木県上都賀郡(現・日光市)足尾町野路又の足尾製作所工場跡地(現・足尾高校グランド)に開設。8月、第9分所分遣所と改称。

使役企業は古河鉱業足尾鉱業所。捕虜はトラックで精錬所へ通い、作業に従事。

終戦時収容人員213人(米121、蘭80、他12)、収容中の死者1人。

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隅田川分所

1944年7月1日、東京俘虜収容所第20派遣所として、東京都荒川区南千住に開設。45年8月、第10分所と改称。

使役企業は日本通運隅田川支店。

終戦時収容人員256人(英87、米64、加55、蘭50)、収容中の死者2人。

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川口分所

1945年7月、東京俘虜収容所第11分所として、埼玉県川口市大字芝に開設。

使役企業は日本車両蕨工場。

終戦時収容人員100人(米73、伊27)、収容中の死者なし。

平岡(満島)分所

1942年11月18日、東京俘虜収容所第3分所として、長野県下伊那郡平岡村(現・平岡町)満島に開設。43年8月1日、第2派遣所と改称。45年8月、第12分所と改称。

使役企業は熊谷組、捕虜は平岡発電所の建設工事に従事。

終戦時収容人員308人(英215、米93)、収容中の死者59人。

戦犯裁判では、看守等6人死刑、6人有期刑という厳しい判決を受けた。

青海分所

1943年5月12日、東京俘虜収容所第9分所として、新潟県西蒲原郡青海町の電気化学工業の敷地内に開設。8月1日、第7派遣所と改称。45年8月、第13分所と改称。

使役企業は電気化学工業青海工場。

終戦時収容人員542人(米432、英109、NZ1)、収容中の死者60人。

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東京芝浦電気鶴見分所

1943年12月25日、東京俘虜収容所第11派遣所として、横浜市鶴見区末広町1−124の日本鋼管鶴見造船派遣所内に開設。44年1月、鶴見区末広町2−4に移転。45年4月15日、空襲により破壊、末広町の東京芝浦電気社内に一時移転した後、鶴見区2丁目の総持寺前の東芝関係の施設に移転。8月、東京捕虜収容所第14分所と改称。

使役企業は東京芝浦電気鶴見工場。

終戦時収容人員121人(蘭72、英20、豪17、米12)、収容中の死者44人。このうち31人は空襲により死亡。

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新潟鉄工所分所

1944年4月1日、東京俘虜収容所第15派遣所として、新潟市山の下秋葉通に開設。45年8月、第15分所と改称。

使役企業は新潟鉄工所。

終戦時収容人員320人(米160、加82、英41、豪26、蘭11)、収容中の死者6人。

鹿瀬分所

1944年4月15日、東京俘虜収容所第16派遣所として、新潟県東蒲原郡鹿瀬村両鹿瀬(現・鹿瀬町向鹿瀬)の昭和電工の製品倉庫を利用して開設。45年8月、第16分所と改称。

使役企業は昭和電工鹿瀬工場。

終戦時収容人員288人(英152、蘭86、米50)、収容中の死者4人。

日清製油分所

1944年5月1日、東京俘虜収容所第17派遣所として、横浜市神奈川区千若町に開設。45年5月29日、空襲により破壊、第18派遣所に臨時に移動。その後の経緯は不明。8月、第17分所と改称。

使役企業は日清製油横浜工場。

終戦時収容人員は不明、収容中の死者1人。

三菱重工横浜造船派遣所

1942年11月18日、東京俘虜収容所横浜分所の支所として、横浜市神奈川区橋本町1−1に開設。43年8月1日、第1派遣所と改称。45年5月13日閉鎖。捕虜は仙台俘虜収容所へ移動。収容中の死者54人。

使役企業は三菱重工横浜造船所。

>>笹本妙子によるレポート(PDF)

日本鋼管鶴見造船派遣所

1943年1月21日、東京俘虜収容所第5分所として、横浜市鶴見区末広町1−124に開設。8月1日、第3派遣所と改称。45年5月13日閉鎖。捕虜は仙台俘虜収容所へ移動。

使役企業は日本鋼管鶴見造船所。収容中の死者23人。

日本鋼管川崎派遣所

1943年5月12日、東京俘虜収容所第7分所として、川崎市(川崎区)南渡田町に開設。8月1日、第5派遣所と改称。45年6月4日閉鎖。捕虜は本所、新潟海陸運送分所、諏訪分所などへ移動。

使役企業は日本鋼管川崎工場。収容中の死者9人。

>>笹本妙子によるレポート(PDF)

日本鋼管川崎扇町派遣所

1943年11月10日、東京俘虜収容所第9派遣所として、川崎市(川崎区)扇町1番地に開設。45年3月31日閉鎖。捕虜は隅田川分所などへ移動。

使役企業は日本鋼管川崎扇町工場。収容中の死者4人。

大阪造船横浜工場派遣所

1943年4月2日、東京俘虜収容所本所分遣所として、横浜市鶴見区末広町1−12に開設。12月25日、第10派遣所と改称。45年6月4日閉鎖。

使役企業は大阪造船横浜造船所。収容中の死者1人。

日本鋼管浅野船渠派遣所

1944年3月20日、東京俘虜収容所第13派遣所として、横浜市神奈川区三ツ沢下町29(橋本町2−1?)に開設。45年5月13日閉鎖。捕虜は仙台俘虜収容所へ移動。

使役企業は日本鋼管浅野船渠造船所。収容中の死者なし。

横浜耐火煉瓦派遣所

1944年5月1日、東京俘虜収容所第18派遣所として、横浜市磯子区西根岸馬場町に開設。45年6月4日閉鎖。捕虜は新潟海陸運送分所などへ移動。

使役企業は横浜耐火煉瓦。収容中の死者なし。

>>笹本妙子によるレポート(PDF)

横浜船舶荷役派遣所

1944年5月1日、東京俘虜収容所第19派遣所として、横浜市中区山下町32に開設。45年5月29日、横浜大空襲により破壊。6月1日閉鎖。捕虜は新潟鉄工所派遣所などへ移動。

使役企業は横浜船舶荷役。収容中の死者なし。

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大日本化学(味の素)派遣所

1944年9月20日、東京俘虜収容所第23派遣所として、川崎市(川崎区)大師本町29に開設。45年6月30日閉鎖。捕虜は川崎分所へ移動。

使役企業は大日本化学(味の素)。収容中の死者1人。

>>笹本妙子によるレポート(PDF)

日清製粉派遣所

1944年12月20日、東京俘虜収容所第24派遣所として、川崎市(川崎区)大川町1に開設。45年6月30日閉鎖。捕虜は川崎扇町分所へ移動。

使役企業は日清製粉鶴見航空機工場。収容中の死者なし。

>>笹本妙子によるレポート(PDF)

名古屋俘虜収容所

1945年4月、東海・北陸地方を管轄する東海軍管区の創設に伴い、この地区の捕虜収容所を管轄する名古屋俘虜収容所が開設された。その際、東京俘虜収容所や大阪俘虜収容所に所属していた分所の一部も吸収した。

所長は大竹道二中佐。

本所

1945年4月5日、東海軍司令部のあった名古屋市の大成国民学校内に開設。5月18日、空襲で焼失、名古屋市栄区(現・中区)南外堀町に移動。捕虜は収容せず、本部事務所のみ。

神岡分所

1942年12月8日、大阪俘虜収容所神岡分所として岐阜県吉城郡阿曽布村(現・飛騨市神岡町)和佐保に開設。43年2月18日、第7分所と改称。45年4月6日、名古屋俘虜収容所に移管、第1分所となる。

使役企業は三井鉱山神岡鉱業所。

終戦時収容人員594人(米320、蘭269、英5)、収容中の死者85人。

>>西里扶甬子・笹本妙子によるレポート(PDF)

鳴海分所

1943年12月28日、大阪俘虜収容所第11分所として愛知県愛知郡鳴海町(現・名古屋市緑区)有松裏に開設。45年4月6日、名古屋俘虜収容所に移管、第2分所となる。

使役企業は日本車両名古屋工場。捕虜は名古屋市熱田区三本松町の工場へ電車で通勤。

終戦時収容人員273人(米189、英64、加11、他9)、収容中の死者22人。

船津分所

1944年6月25日、大阪俘虜収容所第15分所として岐阜県吉城郡船津村(現・飛騨市船津)鹿間に開設。45年4月6日、名古屋俘虜収容所に移管、第3分所となる。

使役企業は三井鉱山船津鉱業所。捕虜は三井鉱山神岡精錬所で雑多な作業に従事。

終戦時収容人員318人(英203、米115)、収容中の死者13人。

>>笹本妙子によるレポート(PDF)

入鹿分所

1944年6月25日、大阪俘虜収容所第16分所として、三重県南牟婁郡入鹿村(現・紀和町)板屋に開設。泰緬鉄道の工事から転送されて来たイギリス兵300人が入所。45年4月6日、名古屋俘虜収容所に移管、第4分所となる。

使役企業は石原産業紀州鉱業所。捕虜は鉱石の採掘、選鉱、運搬などの作業に従事。

終戦時収容人員284人(英)、収容中の死者16人。

四日市分所

1944年8月11日、大阪俘虜収容所第17分所として、三重県四日市市石原町1番地に開設。45年4月6日、名古屋俘虜収容所に移管、第5分所となる。

使役企業は石原産業四日市精錬工場。

終戦時収容人員296人(米196、蘭75、英25)、収容中の死者19人。

伏木北海電化分所

1944年9月8日、東京俘虜収容所第21分所として、富山県高岡市能町の北海電化伏木工場内に開設、アメリカ兵捕虜150人が入所。45年4月7日、名古屋俘虜収容所に移管、第6分所となる。5月21日、イギリス兵捕虜150人が入所。

使役企業は北海電化伏木工場。

終戦時収容人員286人(英149、米137)、収容中の死者13人。

富山日本曹達分所

1945年5月28日、名古屋俘虜収容所第7分所として、富山県富山市下新町50番地に開設。

使役企業は日本曹達富山製鋼所。

終戦時収容人員195人(米)、収容中の死者1人。

富山立山重工分所

1945年5月10日、名古屋俘虜収容所第8分所として、富山県富山市下奥井町1番地に開設。

使役企業は立山重工。

終戦時収容人員300人(英237、加38、葡18、他7)、収容中の死者1人。

富山日本通運分所(神通分所)

1945年5月28日、名古屋俘虜収容所第9分所として、富山県富山市東岩瀬町大広田に開設。

使役企業は日本通運岩瀬支店。

終戦時収容人員350人(米230、英100、他20)、収容中の死者1人。

伏木海陸運送分所

1945年6月18日、名古屋俘虜収容所第10分所として、富山県高岡市能町立ノ上に開設。

使役企業は伏木海陸運送。

終戦時収容人員294人(米166、蘭47、英32、豪27、他22)、収容中の死者5人。

富山日本曹達岩瀬製鋼分所

1945年5月28日、名古屋俘虜収容所第11分所として、富山県富山市西宮大広田森に開設。

使役企業は日本曹達岩瀬製鋼所。

終戦時収容人員148人(蘭75、米48、英25)、収容中の死者2人。

大阪俘虜収容所

1942年9月23日に開設され、当初は近畿〜東海地方の捕虜収容所を管轄していたが、1945年4月に、名古屋捕虜収容所が新設されると、愛知県・三重県・岐阜県などにあった分所は分離した。また、阪神工業地帯にあった多数の分所や派遣所は、戦争末期には、空襲と本土決戦に備えるため、内陸部や日本海側に移転するものが多かった。

所長は村田宗太郎大佐。

本所

1942年9月23日、大阪市港区五条通3丁目(現・築港2丁目)に開設。香港からの航海中、アメリカ潜水艦に撃沈されたリスボン丸の生存イギリス兵約500人などが入所。45年6月1日の空襲で焼失、捕虜は一時、津守分所に移動した後、港区北福崎西之町に移動。7月10日、本部事務所のみ三島郡新田村字下新田(現・吹田市千里山)の西天満国民学校の林間学校の校舎に移転、北福崎の施設は第1分所となった。

使役企業は日本通運大阪支店、大阪製鉄など。捕虜は築港での荷役作業や製鉄所での仕事に従事。

第1分所の終戦時収容人員443人(英326、米42、中国24、インド19、蘭17、他15)、収容中の死者154人。

神戸分所

1942年9月23日、大阪俘虜収容所神戸分所として、神戸市神戸区(現・中央区)伊藤町28のオリエンタルホテル倉庫を利用して開設。香港からの航海中、アメリカ潜水艦に撃沈されたリスボン丸の生存イギリス兵約400人などが入所。43年2月18日、第1分所と改称。45年6月5日の空襲で焼失。捕虜は神戸川崎分所跡地へ一時移動した後、6月21日に葺合区脇浜町3丁目の脇浜分所跡地へ移動して再開。8月、第2分所と改称。

使役企業は、日本通運湊川支店、神戸船舶荷役会社など。捕虜は神戸港、兵庫港駅、灘貨物駅、兵庫駅などでの荷役作業に従事。別の一隊は、東洋製鋼、西宮の吉原製油、鳴尾の昭和電極などの工場へ電車で通勤。

終戦時収容人員488人(英360、豪73、米26、蘭17、他12)、収容中の死者134人。

大江山分所

1943年8月20日、大阪俘虜収容所第12分所として、京都府与謝郡吉津村(現・宮津市)須津に開設。45年8月、第3分所と改称。

使役企業は日本冶金工業。捕虜は大江山ニッケル鉱山での採掘作業、吉津村須津の製錬工場での雑役、宮津港での荷役作業などに従事。

終戦時収容人員633人(米369、加128、英126、他10)、収容中の死者62人。

生野分所

1945年3月28日、大阪俘虜収容所第19分所として、兵庫県朝来郡(現・朝来市)生野町奥猪野々に開設。和歌山分所からのイギリス兵など400人、および神戸分所、鳴尾分所などからの将校の捕虜40人が入所。8月、第4分所と改称。

使役企業は三菱鉱業生野鉱業所。捕虜は生野銅山での採掘・運搬・選鉱作業などに従事。将校は収容所の菜園などで自活労務に従事。

終戦時収容人員440人(英383、米44、他13)。収容中の死者なし。

敦賀分所

1945年4月23日、大阪俘虜収容所第20分所として、福井県敦賀市桜町165に開設。多奈川分所からのアメリカ・オランダ兵200人、梅田分所からのアメリカ兵200人が入所。後に、アメリカ兵1人が転出。7月12日の空襲で収容所が破壊されたため、敦賀市南津内の神武第972工場に移動。8月、第5分所と改称。

使役企業は敦賀港湾運輸会社。捕虜は敦賀港での荷役作業などに従事。

終戦時収容人員399(米380、蘭19)、収容中の死者なし。

明延分所

1945年5月18日、大阪俘虜収容所第21分所として、兵庫県養父郡南谷村(現・養父市大屋町)和田に開設。大正分所、桜島分所、淀川分所からの捕虜300人が入所。8月、第6分所と改称。

使役企業は三菱鉱業明延鉱業所。捕虜は明延鉱山での採掘・運搬・選鉱作業などに従事。将校は収容所の菜園などで自活労務に従事。

終戦時収容人員296人(英168、米100、豪28)、収容中の死者3人。

武生分所

1945年5月18日、大阪俘虜収容所第22分所として、福井県南条郡武生町(現・越前市)北府2丁目に開設。淀川分所と大正分所からの捕虜200人が入所。後に2人転出。8月、第7分所と改称。

使役企業は信越化学工業武生工場。

終戦時収容人員198人(豪165、米33)、収容中の死者なし。

野田沼分所

1945年5月18日、大阪俘虜収容所第23分所として、滋賀県野洲郡兵主村(現・野洲市中主町)野田に開設。播磨分所からのオランダ兵200人(大部分はインドネシア系)が入所、後4人転出。8月、第8分所と改称。

使役者は滋賀県。捕虜は琵琶湖(野田沼)の干拓作業と干拓地での農作業に従事。

終戦時収容人員196人(蘭)、収容中の死者なし。

能登川分所

1945年5月18日、大阪俘虜収容所第24分所として、滋賀県神崎郡(現・東近江市)能登川町伊庭に開設。播磨分所と大阪本所からの捕虜300人と捕虜の軍医1人が入所。8月、第9分所と改称。

使役者は滋賀県。捕虜は伊庭村と弁天村の間の琵琶湖(中の湖)の干拓作業に従事。

終戦時収容人員301人(米109、蘭69、英67、豪55、NZ1)、収容中の死者なし。

米原分所

1945年5月18日、大阪俘虜収容所第25分所として、滋賀県坂田郡米原町(現・米原市)梅ケ原に開設。神戸脇浜分所からの捕虜200人が入所、後1人転出。8月、第10分所と改称。

使役者は滋賀県。捕虜は琵琶湖(入江内湖)の干拓作業と干拓地での農作業に従事。

終戦時収容人員199人(米160、豪31、他8)、収容中の死者なし。

六呂師分所

1945年5月18日、大阪俘虜収容所第26分所として、福井県大野郡坂谷村(現・大野市)南六呂師に仮開設、30人の捕虜が収容所建設作業に従事し、6月10日に正式に開設。8月、第11分所と改称。

使役者は陸軍。主に将校の捕虜が収容され、六呂師演習場周辺で自活労務に従事。

終戦時収容人員361人(米351、英5、蘭5)、収容中の死者1人。

広畑分所

1942年10月、大阪俘虜収容所神戸分所広畑分遣所として、兵庫県飾磨郡広畑町(現・姫路市広畑区)才に開設。12月10日、広畑派遣所に改編。43年2月18日、第1派遣所と改称。9月、広畑町才から小坂に移転。45年8月、第12分所と改称。

使役企業は日本製鉄広畑工場。

終戦時収容人員302人(米300、英1、豪1)、収容中の死者16人。

なお、43年9月9日に神戸港で降伏・自沈したイタリア特務艦カリテア号の乗組員約150人も、9月26日から翌年7月16日まで一時的に抑留。収容中の死者3人。

梅田分所

1942年11月22日、大阪俘虜収容所梅田分所として、大阪市北区牛丸町の梅田貨物駅構内の日本通運の木造3階建の倉庫を利用して開設。43年2月18日、第2分所と改称。3月10日、第2派遣所と改称。45年5月18日閉鎖。捕虜は敦賀、能登川、津守分所などへ移動。

使役企業は日本通運大阪支店。捕虜は梅田駅、神崎駅、吹田駅、片町駅、鶴橋駅、天王寺駅などでの荷役作業に従事。収容中の死者118人。

淀川分所

1942年11月22日、大阪俘虜収容所淀川分所として、大阪市西淀川区百島町の淀川製鋼所内に開設。43年2月18日、第3分所と改称。3月10日、第3派遣所と改称。45年5月18日閉鎖。捕虜は大江山、武生、明延分所などへ移動。

使役企業は淀川製鋼所。収容中の死者109人。

桜島分所

1943年1月20日、大阪俘虜収容所桜島分所として、大阪市此花区高見町2丁目の布海苔工場の建物を利用して開設。2月18日、第8分所と改称。10月1日、第4派遣所と改称。45年5月18日閉鎖。捕虜は明延分所などへ移動。

使役企業は日立造船桜島造船所。捕虜は市電で造船所へ通勤。収容中の死者38人。このうちアメリカ兵2人は、逃亡して捕まり、本所の軍医に毒殺された。

大正分所

1943年5月15日、大阪俘虜収容所第10分所として、大阪市大正区新千歳町(現・小林西2丁目)に開設。オーストラリア兵200人が入所。45年5月18日閉鎖。捕虜は武生分所へ移動。

使役企業は日立造船築港造船所など。収容中の死者4人。

津守分所

1943年8月20日、大阪俘虜収容所第13分所として、大阪市西成区津守町(現・南津守2丁目)に開設。45年5月16日閉鎖。捕虜は東京俘虜収容所直江津分所、長岡分所などへ移動。

使役企業は藤永田造船所や、住吉区の臨海部のいくつかの造船所。収容中の死者89人。

尼崎分所

1943年1月20日、大阪俘虜収容所尼崎分所として、兵庫県尼崎市西高洲町31に開設。2月18日、第9分所と改称。10月20日、第6派遣所と改称。45年6月16日閉鎖。捕虜は広島、名古屋俘虜収容所へ移動。

使役企業は大谷重工業尼崎工場。収容中の死者28人。

鳴尾分所

1945年2月1日、大阪俘虜収容所第8派遣所として、兵庫県武庫郡鳴尾村上田東浜(現・西宮市高須2丁目)の昭和電極工場内に開設。5月20日閉鎖。捕虜は名古屋俘虜収容所へ移動。

使役企業は昭和電極会社。収容中の死者3人。

神戸脇浜分所

1945年2月1日、大阪俘虜収容所第18分所として、神戸市葺合区(現・中央区)脇浜町3丁目の脇浜小学校の校舎を利用して開設。台湾からのアメリカ・イギリス・オランダ兵197人が入所。5月20日閉鎖。捕虜は米原分所へ移動。

使役企業は川崎製鉄所。収容中の死者5人。

神戸川崎分所

1942年12月8日、大阪俘虜収容所川崎重工分所として、神戸市林田区(現・長田区)丸山町2丁目に開設。43年2月18日、第5分所と改称。10月25日、第5派遣所と改称。45年5月21日閉鎖。捕虜は広島、福岡、名古屋俘虜収容所へ移動。

使役企業は川崎重工造船所。捕虜は神有(現・神戸)電鉄で通勤。収容中の死者51人。

播磨分所

1942年12月8日、大阪俘虜収容所播磨分所として、兵庫県相生市相生の播磨造船所構内に開設。ジャワ島からのオランダ兵(インドネシア系を含む)395人とイギリス兵5人が入所。43年2月18日、第6分所と改称。10月25日、第7派遣所と改称。45年5月21日閉鎖。捕虜は野田沼、能登川分所などへ移動。

使役企業は播磨造船所。収容中の死者39人。このうちオランダ兵1人は逃亡して捕まり、分所長によって斬殺された。

多奈川分所

1942年11月22日、大阪俘虜収容所多奈川分所として、大阪府泉南郡多奈川村(現・岬町)谷川に開設。43年2月18日、第4分所と改称。45年3月29日閉鎖。捕虜は、梅田、生野、明延、敦賀分所などへ移動。また、アメリカ・オランダ兵200人が福岡俘虜収容所稲築派遣所へ移動。

使役企業は飛島組多奈川作業所。捕虜は川崎重工の造船所の建設作業に従事。収容中の死者103人。このうちアメリカ兵1人は逃亡して捕まり、本所の軍医に毒殺された。

和歌山分所

1943年11月8日、大阪俘虜収容所第14分所として、和歌山市松江842に開設。45年3月29日閉鎖。捕虜は生野分所などへ移動。

使役企業は住友金属和歌山製鉄所。収容中の死者18人。

市岡病室

1942年8月、善通寺俘虜収容所の派遣所が、大阪市港区八幡屋松野町(現・田中3丁目)の市岡市民陸上競技場スタンドに設置され、80人の捕虜が入所。使役企業は大阪船舶荷役会社。

10月18日、捕虜は広畑分所へ移送され、市岡派遣所は大阪俘虜収容所の市岡病室に改編され、各分所からの重病の捕虜を収容したが、100人を越えることはなかった。

44年7月10日、設備不十分なため閉鎖、新設の神戸俘虜病院に移転。

神戸俘虜病院

1944年7月10日、神戸市葺合区(現・中央区)熊内町1丁目の神戸中央神学校の施設を利用して開設。市岡病室の後継施設として、各分所からの重病の捕虜を収容。病院長の大橋兵次郎軍医中尉を中心に、日本側の衛生兵や米・英・蘭の捕虜軍医などが患者の治療にあたった。

45年6月5日の空襲で焼失(捕虜3人死亡)、林田区丸山町2丁目の神戸川崎分所の跡地へ移転。

広島俘虜収容所

1945年4月に開設され、中国・四国地方にあった福岡俘虜収容所と善通寺俘虜収容所の分所を吸収した。

所長は近藤玉衛大佐。

本所

1945年4月13日、本部事務所のみ善通寺俘虜収容所に仮開設。6月1日、広島県芦品郡戸手村(現・福山市新市町戸手)の戸手実業学校に移動。

善通寺分所

1942年1月14日、善通寺俘虜収容所として、香川県善通寺町(現・善通寺市)大字先野に開設。45年4月13日、広島俘虜収容所に移管、第1分所となる。

使役企業は日本通運高松支店。

終戦時収容人員110人(米104、NZ5、英1)、収容中の死者10人。

新居浜磯浦分所

1943年4月22日、福岡俘虜収容所第13分所として、愛媛県新居浜市磯浦に開設。同年7月14日、善通寺俘虜収容所に移管、第3分所となる。45年4月13日、広島俘虜収容所に移管、第2分所となる。

使役企業は住友化学工業新居浜工場。

終戦時収容人員644人(蘭401、豪242、アルメニア1)、収容中の死者33人。

新居浜山根派遣所

1944年5月1日、善通寺俘虜収容所第3分所山根分宿所として、愛媛県新居郡角野町(現・新居浜市)山根に開設。11月18日、第4分所と改称。45年3月20日、第3派遣所と改称。4月13日、広島俘虜収容所に移管、第3派遣所となる。5月19日閉鎖、捕虜は新居浜磯浦分所へ移動。

使役企業は住友鉱業別子鉱業所。収容中の死者12人。

玉野分所

1945年6月1日、広島俘虜収容所第3分所として、岡山県玉野市日比448に開設。使役企業は三井鉱山日比精錬所。

終戦時収容人員200人(英など)、収容中の死者なし。

向島分所

1942年12月27日、八幡仮俘虜収容所向島分所として、広島県御調郡向島町兼吉に開設。43年1月1日、福岡俘虜収容所向島分所に改編。3月1日、第11分所と改称。7月14日、善通寺俘虜収容所へ移管、第1分所となる。12月1日、第1派遣所と改称。45年4月13日、広島俘虜収容所に移管、第1派遣所となる。8月、第4分所と改称。

使役企業は日立造船向島造船所。

終戦時収容人員194人(米116、英77、加1)、収容中の死者24人。

>>笹本妙子によるレポート(PDF)

因島分所

1942年12月27日、八幡仮俘虜収容所因島分所として、広島県御調郡三庄町(現・因島市三庄町)に開設。43年1月1日、福岡俘虜収容所因島分所に改編。3月1日、第12分所と改称。7月14日、善通寺俘虜収容所へ移管、第2分所となる。12月1日、第2派遣所と改称。45年4月13日、広島俘虜収容所に移管、第2派遣所となる。8月、第5分所と改称。

使役企業は日立造船因島造船所。

終戦時収容人員185人(英182、米3)、収容中の死者12人。

大嶺分所

1942年11月26日、八幡仮俘虜収容所宇部分所山陽派遣所として、山口県美祢郡大嶺町(現・美祢市)白岩に開設。43年1月1日、福岡俘虜収容所宇部分所山陽派遣所に改編。3月1日、第6分所と改称。12月1日、第1派遣所と改称。45年4月13日、広島俘虜収容所に移管、第4派遣所となる。8月、第6分所と改称。

使役企業は宇部興産山陽無煙炭鉱業所。

終戦時収容人員472人(米288、英184)、収容中の死者31人。

宇部沖ノ山分所

1942年11月26日、八幡仮俘虜収容所宇部分所として、山口県宇部市沖ノ山に開設。43年1月1日、福岡俘虜収容所宇部分所に改編。3月1日、第7分所と改称。12月1日、第2派遣所と改称。45年4月13日、広島俘虜収容所に移管、第5派遣所となる。8月、第7分所と改称。

使役企業は宇部興産沖ノ山炭鉱。

終戦時収容人員283人(英280、米3)、収容中の死者20人。

小野田本山分所

1942年11月26日、八幡仮俘虜収容所宇部分所本山派遣所として、山口県小野田市(現・山陽小野田市)本山に開設。43年1月1日、福岡俘虜収容所宇部分所本山派遣所に改編。3月1日、第8分所と改称。12月1日、第3派遣所と改称。45年4月13日、広島俘虜収容所に移管、第6派遣所となる。8月、第8分所と改称。

使役企業は宇部興産本山炭鉱。

終戦時収容人員482人(英398、蘭76、米7、豪1)、収容中の死者14人。

小野田大浜分所

1942年11月26日、八幡仮俘虜収容所宇部分所大浜派遣所として、山口県小野田市(現・山陽小野田市)大浜に開設。43年1月1日、福岡俘虜収容所宇部分所大浜派遣所に改編。3月1日、第9分所と改称。12月1日、第4派遣所と改称。45年4月13日、広島俘虜収容所に移管、第7派遣所となる。8月、第9分所と改称。

使役企業は大倉興業?大浜炭鉱。

終戦時収容人員390人(豪244、英142、米3、蘭1)、収容中の死者23人。

宇部東見初派遣所

1942年11月26日、八幡仮俘虜収容所宇部分所東見初分遣所として、山口県宇部市沖宇部に開設。43年1月1日、福岡俘虜収容所宇部分所東見初分遣所に改編。3月1日、第10分所と改称。12月1日、第5派遣所と改称。45年4月13日、広島俘虜収容所に移管、第8派遣所となる。7月16日、空襲で破壊され閉鎖。捕虜は小野田本山派遣所へ移動。

使役企業は宇部興産東見初炭鉱。収容中の死者10人。

福岡俘虜収容所

福岡俘虜収容所は八幡仮俘虜収容所傘下の収容所を引き継ぐ形で、1943年1月1日に開設され、管轄範囲は当初は九州地方と山口県・広島県に及んでいたが、後に山口県・広島県の収容所は善通寺俘虜収容所や広島俘虜収容所に移管された。

初代所長は菅沢亥重大佐、二代目所長福本万次郎大佐。

本所

1942年11月26日、福岡俘虜収容所の前身となる八幡仮俘虜収容所開設。43年1月1日、福岡俘虜収容所本部事務所を福岡市の西部軍司令部構内に開設。3月1日、福岡俘虜収容所本所と改称。45年4月、福岡市中央区長浜町の長浜青年学校に移転。6月19日、空襲により焼失したため、福岡県筑紫郡太宰府町(現・太宰府市)の太宰府国民学校に移転。捕虜は収容せず、事務所のみ。

熊本分所・福岡分所

1942年11月26日、八幡仮俘虜収容所熊本分所として、熊本市健軍町字三郎塚に開設。43年1月1日、福岡俘虜収容所熊本分所に改編。3月1日、第1分所と改称。

使役者は西部軍経理部。捕虜は健軍飛行場の建設工事に従事。

11月20日、福岡県糟屋郡多々良町(現・福岡市東区多々良)に移転。44年4月17日、福岡市大字蓆田に移転。45年1月20日、福岡市東区箱崎町に移転。

終戦時収容人員381人(米153、英140、蘭58、豪28、加1、ノルウェー1)、収容中の死者147人。

香焼分所

1942年10月25日、八幡仮俘虜収容所長崎分所として、長崎県西彼杵郡香焼村(現・長崎市香焼町)に開設。43年1月1日、福岡俘虜収容所長崎分所に改編。3月1日、第2分所と改称。

使役企業は川南造船香焼造船所。

終戦時収容人員497人(蘭324、英160、米5、豪3、南ア3、NZ2)、収容中の死者72人。

>>笹本妙子によるレポート(PDF)

八幡分所・小倉分所

1942年9月23日、八幡仮俘虜収容所として、八幡市(現・北九州市八幡東区)中町に開設。43年1月1日、福岡俘虜収容所八幡分所に改編。3月1日、第3分所と改称。12月15日、小倉市(現・北九州市小倉北区)大字中井矢倉下に移転。

使役企業は日本製鉄八幡製鉄所。

終戦時収容人員1195人(米616、蘭211、英193、インド132、中国22、葡9、豪3、他9)、収容中の死者158人。

門司分所

1942年11月28日、八幡仮俘虜収容所門司派遣所として、門司市楠町(現・北九州市門司区老松町)に開設。43年1月1日、福岡俘虜収容所門司分所に改編。3月1日、第4分所と改称。

使役企業は関門地区港湾運送業界。

終戦時収容人員305人(英107、米102、蘭91、他5)、収容中の死者191人。

川崎大峰分所

1943年1月22日、福岡俘虜収容所大峰分所として、福岡県田川郡添田町大峰の大峰炭鉱に開設。3月1日、第5分所と改称。12月1日、第8派遣所と改称。45年8月、第5分所と改称。

使役企業は古河鉱業大峰鉱業所。

終戦時収容人員688人(英341、加152、豪130、蘭44、米21)、収容中の死者21人。

水巻分所(折尾分所)

1943年4月22日、福岡俘虜収容所第15分所として、福岡県遠賀郡水巻町牟田に開設。12月1日、第9派遣所と改称。45年8月、第6分所と改称。

使役企業は日本鉱業遠賀鉱業所。

終戦時収容人員1062人(蘭764、米138、英117、豪41、他2)、収容中の死者74人。このうちオーストラリア兵1人は逃亡を計り銃殺された。戦後の戦犯裁判で、福岡俘虜収容所本所長の菅沢亥重大佐、水巻分所長の末松一幹大尉ら3人が、逃亡捕虜殺害の責任を問われて死刑となった。

二瀬分所

1943年5月15日、福岡俘虜収容所第16分所として、福岡県嘉穂郡二瀬町(現・飯塚市)の労働者クラブを利用して開設。12月1日、第10派遣所と改称。45年8月、第7分所と改称。

使役企業は日鉄鉱業二瀬鉱業所。

終戦時収容人員547人(蘭359。米186、英2)、収容中の死者54人。

稲築分所

1943年10月3日、福岡俘虜収容所第19分所として、福岡県嘉穂郡稲築町平に開設。44年4月19日、第11派遣所と改称。45年8月、第8分所と改称。

使役企業は三井鉱山山野鉱業所。

終戦時収容人員573人(蘭274、英233、米66)、収容中の死者25人。

宮田分所

1943年12月4日、福岡俘虜収容所第20分所として、福岡県鞍手郡宮田町松尾に開設。44年4月10日、第12派遣所と改称。45年8月、第9分所と改称。

使役企業は貝島炭鉱大之浦炭鉱。

終戦時収容人員792人(蘭495、英243、米43、豪11)、収容中の死者47人。

長崎三菱造船分所

1943年4月22日、福岡俘虜収容所第14分所として、長崎市幸町に開設。

使役企業は三菱重工業長崎造船所。

終戦時収容人員195人(蘭152、豪24、英19)、収容中の死者113人。このうち7人が原爆で、1人が空襲で死亡。

>>笹本妙子によるレポート(PDF)

大牟田三池分所

1943年8月10日、福岡俘虜収容所第17分所として、福岡県大牟田市新港町に開設。

使役企業は三井鉱山三池鉱業所。

終戦時収容人員1737人(米730、豪420、蘭332、英250、他5)、収容中の死者138人。このうちアメリカ兵1人は営倉内で餓死、他の1人は逃亡を計り刺殺された。戦後の戦犯裁判で、これらの責任を問われた分所長の由利敬中尉、福原勲大尉ら4人が死刑となった。

相当分所

1942年末より、佐世保海軍施設部が福岡俘虜収容所の捕虜を使役して、長崎県北松浦郡柚木村(現・佐世保市柚木町)相当の相当ダムの建設工事を行う。43年10月10日、福岡捕虜収容所第18分所に改編。44年4月17日閉鎖。捕虜は第1分所へ移動。

使役者は佐世保海軍施設部。収容中の死者53人。

戦後の戦犯裁判で、多数の捕虜の死者を出した責任を問われ、分所長の池上宇一中尉ら2人が死刑になった。

>>笹本妙子によるレポート(PDF)

中間分所

1944年6月15日、福岡俘虜収容所第21分所として、福岡県遠賀郡中間町(現・中間市)中鶴の中鶴炭鉱に開設。

使役企業は大正鉱業中鶴鉱業所。

終戦時収容人員588人(蘭311、豪175、英99、米3)、収容中の死者5人。

穂波分所

1945年1月15日、福岡俘虜収容所第22分所として、福岡県嘉穂郡穂波村(現・穂波町)忠隈の忠隈炭鉱に開設。

使役企業は住友鉱業忠隈鉱業所。

終戦時収容人員302人(蘭190、豪88、米24)、収容中の死者66人。

桂川(平山炭鉱)分所

1944年8月4日、福岡俘虜収容所第23分所として、福岡県嘉穂郡桂川町平山の平山炭鉱に開設。

使役企業は明治鉱業平山鉱業所。

終戦時収容人員194人(米)、収容中の死者5人。

江迎分所

1945年1月15日、福岡俘虜収容所第24分所として、長崎県北松浦郡江迎町潜龍の潜龍炭鉱に開設。

使役企業は住友鉱業潜龍鉱業所。

終戦時収容人員267人(英117、豪114、米35、蘭1)、収容中の死者20人。

>>笹本妙子によるレポート(PDF)

大牟田電気化学分所

1944年9月29日、福岡俘虜収容所第25分所として、福岡県大牟田市新開町に開設。

使役企業は電気化学工業大牟田工場。

終戦時収容人員390人(英388、米2)、収容中の死者4人。

桂川(吉隈炭鉱)分所

1945年5月10日、福岡俘虜収容所第26分所として、福岡県嘉穂郡桂川町吉隈の吉隈炭鉱に開設。

使役企業は麻生鉱業吉隈鉱業所。

終戦時収容人員300人(豪197、英101、蘭2)、収容中の死者2人。

田川分所

1945年5月10日、福岡俘虜収容所第27分所として、福岡県田川郡田川町(現・田川市)大字奈良に開設。

使役企業は三井鉱山田川鉱業所。

終戦時収容人員398人(蘭198、米81、英73、豪46)、収容中の死者3人。

田の浦派遣所

1943年10月13日、福岡俘虜収容所第6派遣所として、熊本県葦北郡田の浦町に開設。45年6月30日閉鎖。捕虜は大牟田電気化学分所へ移動。

使役企業は東海電極田の浦工場。収容中の死者3人。

下松派遣所

1943年10月13日、福岡俘虜収容所第7派遣所として、山口県下松市に開設。45年6月30日閉鎖。捕虜は福岡第1分所へ移動。

使役企業は日立製作所笠戸工場。収容中の死者なし。

佐賀関派遣所

1944年9月4(8?)日、福岡俘虜収容所第13派遣所として、大分県北海部郡佐賀関町に開設。45年6月20日閉鎖。捕虜は大牟田三池分所と川崎大峰炭鉱派遣所へ移動。

使役企業は日本鉱業佐賀関精錬所。収容中の死者3人。

【参考文献】

◆俘虜情報局編『俘虜取扱の記録』(1955年 防衛庁防衛研究所図書館所蔵)

◆茶園義男編・解説『大日本帝国内地俘虜収容所』(不二出版 1986年)

◆茶園義男編・解説『大東亜戦争下外地俘虜収容所』(不二出版 1987年)

◆東京裁判ハンドブック編集委員会編『東京裁判ハンドブック』(青木書店 1989年)

◆油井大三郎・小菅信子著『連合国捕虜虐待と戦後責任』(岩波ブックレット321 1993年)

◆GHQ/SCAP資料「Chronological Chart of ex Prisoner of War Camps in Japan Proper」(米国国立公文書館所蔵 RG331 Box No.1305)

◆GHQ/SCAP資料「Roster of Deceased Allied POWs in Japan Proper」(国会図書館憲政資料室所蔵 LS−03399〜03404)

◆GHQ/SCAP資料「Investigation Division Reports」(国会図書館憲政資料室所蔵)

◆GHQ/SCAP資料「Reviews of the Yokohama

◆Class B and Class C War Crimes Trials by the U.S. Eighth Army Judge Advocate 1946-49」(国会図書館憲政資料室所蔵 RYT−1)

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