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鴨緑丸

鴨緑丸(おうりょくまる)

所属 大阪商船
類別 貨客船
総トン数 7,362トン
速度 18.6ノット
出発地 マニラ埠頭
目的地 日本内地
出発日 1944年12月13日18:10
捕虜数 1,619(米将校約1,100、下士官兵約500)名
遭難地点 ルソン島オロンガポ沖
遭難日 1944年12月15日16:15
捕虜死者数 286名
捕虜生存者数 1,333名
商船画提供 上田毅八郎

米軍のルソン島侵攻を目前にした1944年12月13日の夕刻、「鴨緑丸」は、日本軍兵士、引揚邦人、乗組員、遭難船員計約3,200名、遺骨728柱と約1,600名の捕虜を乗せてマニラ埠頭を離れ、その夜は港外錨地に仮泊した。

彼ら捕虜の乗船は、多数の友好的な比島人が目撃したので、この情報はゲリラ経由、無線でマッカサー司令部、真珠湾のニミッツ司令部、そして第38機動部隊がその一部であるハルゼー第3艦隊司令長官にも伝達されたに違いないが、おそらく、日本船舶を攻撃する命令は変更されなかったのであろう。

乗船後、捕虜は第1船倉に約600名、第2船倉に200名、第3船倉に約800名がそれぞれ収容されたが、船倉内は暗黒、換気がなされず、その状況は最悪の「地獄船」と同等、またはそれ以下であった。暑さ、喉の渇き、酸欠状態で捕虜は狂暴になり、窒息死者や圧死者もでて、翌朝明るくなるとともに、50名余りの遺体が船倉から運び出された。

船団は14日0300に抜錨し、駆逐艦「桃」と駆潜艇「60号」に護衛されて高雄に向かった。出港5時間後の0800頃、米第38機動部隊・空母「ホ―ネット」の艦載機が来襲し、ロケット6発と250㌔爆弾1発の被弾で火災が発生、浸水も徐々に増え、そのうちに傾斜もひどくなったので、オロンガポの沖合200メートルから、15日0300頃に小舟や筏で婦女子の上陸を開始、0630頃までにほぼ全員が上陸した。0800前に残った者や捕虜の上陸を開始したところ、艦載機が再び来襲し、猛烈な爆撃と機銃掃射を繰り返した。11時頃、船橋の上に白毛布でP、ボート甲板にWと書いたが、効果なし。多数の捕虜が艦載機に向かって必死に手を振り、声を嗄らして叫んだところ、遂に1機がこれに応えて翼を振って攻撃を止め、他の機も陸上施設の攻撃に切り替えた。14時頃、全員の上陸が終わった。16日から18日にかけて、捕虜約1,300名は海軍施設内にあるコンクリート張りのテニスコートに収容された。

19日、トラック数台に警備兵と共に薬品、糧食、被服が到着した。そしてオロンガポにて別命を待てとの指示があった。捕虜数名が死亡、当地の墓地に埋葬された。

別命により、20日、南サンフェルナンド(マニラの北西郊外)にトラックにて移動、映画館と刑務所で待機となる。この間に、マニラで入院させるためとの理由で、病弱の捕虜15名が選ばれ、サンフェルナンド郊外で処刑された。

24日10時過ぎ、南サンフェルナンド駅から貨車約15両に1,300名足らずが分乗し、リンガエン湾に面した北サンフェルナンド(ラ・ウニオン県)に向かうが、途中で米艦載機の攻撃がある度に停車、退避した。25日4時頃、北サンフェルナンド着。近くの学校で休息した。その後、暁部隊(船舶兵団)から埠頭桟橋付近に集結、待機するようにと指示があり、「ぶらじる丸」(5,860㌧)に乗船予定とのことであった。

27日の早朝0300頃、暁部隊から便乗船の変更で、急遽「江ノ浦丸」に0400から乗船を開始するようにとの指示があり、直ちに乗船を開始した。6時半頃、捕虜約700名が乗船し終わった頃、暁部隊高級将校の命により、出港を急ぐので、残り約600名を分割して「江ノ浦丸」に1,040名、「ぶらじる丸」に240名を乗船させ終ると、空襲を避けるために捕虜の乗船が終わるのを待ち侘びていた他の2隻のタンカーと一緒に直ちに出港した。駆逐艦「呉竹」、駆潜艇3隻に護衛されて北上、米潜の攻撃をかわして、31日夕刻、高雄港沖合に到着した。「呉竹」は、途中で米潜「レーザーバック」の攻撃で沈没した。航海中、「江の浦丸」では捕虜20名、「ぶらじる丸」では5名が死亡した。

高雄着後も「江ノ浦丸」と「ぶらじる丸」に乗船していた捕虜の受難は終らなかった。台湾も何時連合軍が上陸するかもしれないという緊迫した状態で、捕虜に対する支援らしい支援は、まったく得られなかった。1945年1月6日、高雄にいた捕虜全員が「江ノ浦丸」に乗船させられたが、1月8日、他の船舶の遭難から救助された蘭軍捕虜34名と英軍捕虜2名が台湾の収容所に移管された。