POW研究会トップ研究報告捕虜輸送中に沈没した船>阿里山丸
 
阿里山丸

阿里山丸(ありさんまる)

所属 三井船舶
類別 戦時標準型貨物船
総トン数 6,886トン
速度 13.3ノット
出発地 マニラ
目的地 日本内地
出発日 1944年10月11日
捕虜数 米1,782(陸・海・海兵隊)・多国籍民間人100名
遭難地点 バシー海峡(ルソン島ボヘアドール岬西北西200海里)
遭難日 1944年10月24日
捕虜死者数 1,773名
捕虜生存者数 9名
写真提供

「阿里山丸」は、1944年10月11日、米軍捕虜や民間人を乗せてマニラを出港したが、マニラ地区の空襲を避けてパラワン島の西海岸に退避した。10月20日、マニラに戻ったところ、急遽日本に帰国する12隻で構成されたマタ-30船団に編入され、駆逐艦「春風」、「呉竹」、「竹」など5隻に護衛されて10月21日、高雄に向けて出発した。到着予定日は10月24日であった。

10月23日夕刻、船団がバシー海峡を航行中、当時、同海峡で行動中の3組の群狼(連係攻撃の戦術単位としての潜水艦群)集団8隻に捕捉され、17時30分、「ソードフィシュ」により撃沈された「君川丸」を皮切りに、深夜から10月24日昼間にかけて、「黒竜丸」「大天丸」「営口丸」が「シ―ドラゴン」に、「信貴丸」が「ドラム」に、「天晨丸」が「アイスフイッシュ」に相次いで撃沈された。次いで17時30分、「阿里山丸」に「スヌーク」が発射した3本の魚雷が命中(2本は3番船倉(空)、1本は船尾)した。

第一船倉では警備兵が縄梯子を切断したが、パニックは起きなかった。他の船倉では警備兵がハッチを開け、機関銃を手にして待機したが、間もなくいなくなったので、捕虜は船倉から這い出した。第一船倉では数名の捕虜が支柱を伝って甲板によじ登り、見付けたロープを下ろし、船倉では切断された縄梯子をつなぎ、約600名が脱出した。警備兵は救命ボートに移乗するのに忙しく、発砲しなかった。「阿里山丸」の船尾は折れて離れたが、思いがけなく、船体は二つになっても浮かんでいた。約30名の捕虜が駆逐艦を目がけて泳いで行ったが、追い払われた。これを見ていた他の捕虜は船に残って調理室に入り、見付けた食料を手当たり次第に食べた。「阿里山丸」はやがて沈んだ。この数日間、海は時化て波は5メートルにも達し、多数の爆発で死ななかった者や船と一緒に沈まなかった者が、第一夜に冷たい荒れ狂う海の中で見捨てられ、死んで行った。

こうして、小説よりも奇なる5名の生還者のオデュセイアが始まる。ボブ・オーヴァベック(民間人)は、多数の日本人が乗っていた救命ボートによじ上がろうとして、棒で腕を殴られ海中に落ちた後、ツキが廻ってきた。ボートの日本人は駆逐艦に救助され、ボートをそのまま置いて行ったのである。彼は少し離れた所からこれを見ていて、日暮れまでに乗り込んだ。ボート内の小さな容器には、真水が約40リットル残っていた。暗くなってからボートにぶっつかった箱に、帆が入っていた。間もなく、船から脱出したエイブリ・ウイルバー一等兵が救命ボートに泳ぎ着いた。駆逐艦に上がろうとして棒で殴られて海中に落ちた捕虜を見ていたトニー・サイチーは、駆逐艦から泳いで離れ去ったときに救命ボートを見た。ボートに向かって泳いでいる間に、近くに浮いていた板を拾い、サーフボードの代わりにして、手で漕いでボ―トにたどり着いた。カルヴィン・グラエフも駆逐艦に上がろうとして海中に落とされ、駆逐艦から逃げた。彼は太い竹の棒2本を見付け、それを下帯で縛り、掴まっていた。そのとき、暗闇の中で彼にぶっつかったドン・メーヤーと一緒に一夜を過ごした。夜明けになって彼らは救命ボートを発見し、最後の力を振り絞ってたどり着いた。

彼らは救命ボートの傍を流れていた頑丈な棒を拾い上げ、帆を張るマストにしようとしたとき、水平線の彼方に、前日、彼らを乗せなかった駆逐艦がやって来るのが見えた。5人は、ボート内に折り重なって横になり、死んだ振りをして、駆逐艦が救命ボートの廻りを一周するのをやり過ごした。彼らが安堵の胸をなでおろしたとき、今度は、その救命ボート用のマストや滑車とロープの入った箱が流れ着いた。壊れた舵を修理するためにブリキ缶を移動したところ、缶の中には固パンが詰まっていた。これで、食糧、水、マストと帆など、航海に必要な物がすべて揃った。後はオーヴァベックの天体学の知識を使って、300海里離れている中国大陸目がけて航海するだけである。ツキは落ちなかった。風が彼らを300海里西へ運んでくれた。

大陸近くの沿岸で中国人のジャンクと出会い、彼らが5名をゲリラのところに案内してくれた。ゲリラと一緒に、彼らは徒歩、車、自転車に乗って、日本軍や野生の犬を避けながら、案陸の米軍前哨基地に到着した。次いで、彼らは空路、昆明、北アフリカ、バミューダ諸島を経由して、12月初旬首都ワシントンに到着し、ウイルバーとサイチーが、米軍のルソン島奪回に役立つ日本軍の防衛に関する情報を提供した。

前述の5名の外に、捕虜4名が日本側に救助され、10月1日、「北鮮丸」で日本に向けて出発するが、そのとき、途中が危険と判断したのか、一日後に引き返している。捕虜は10月8日下船し、台湾の収容所(白川、台北、員林)に収容された。「阿里山丸」の沈没で、1,782名の捕虜のうち、9名だけが生き延びた。一隻の遭難で、最も多くの捕虜の人命が失われた事件である。

注1:乱戦の中で、どの米潜がどの日本船を撃沈したかということについては、日米の資料の間にかなりの差異があるので、太平洋戦争と日本商船動向(59)を参考にした。

注2:「シャークII」が「阿里山丸」を撃沈したという資料もあるが、同艦は1944年月~10月の出撃では一隻も撃沈しないで喪失とあるので、「スヌーク」が撃沈したとするのが正しいと思われる。Silent Victory, Clay Blair, Jr. p959