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真洋丸

真洋丸(しんようまる)

所属 (拿捕船「長徳Chang Tou」。1894年スウェーデンで建造。)
類別
総トン数 2,634トン
速度
出発地 サンボアンガ
目的地 マニラ
出発日 1944年9月7日
捕虜数 米750名
遭難地点 ミンダナオ島シンダンガン岬沖(北緯08度12分,東経122度37分)
遭難日 1944年9月17日
捕虜死者数 667名
捕虜生存者数 82名
商船画提供 出典不明(ご存じの方はお知らせ下さい)

船名不詳、舷側に「86」と書いた船で200海里離れたダバオ湾のラサンからサンボアンガに到着した捕虜は、数日待機してから、「真洋丸」で到着した日本軍兵士と豪雨の中で入れ替わって、「真洋丸」に乗船した。この処置は、アメリカ側に日本船舶の行動を通報しているゲリラの目を欺くためであった。

捕虜250名は前部船倉に、500名が後部船倉に入れられた。「真洋丸」は、タンカー「第2栄洋丸」など6隻の船と船団を組み、これを特設砲艦「木曽丸」と駆潜艇「55号」が護衛して、9月7日、サンボアンガを出発、ミンダナオ島の西海岸沿いに航行していた。船団は、サンボアンガから約100海里離れたシンダンガン岬の沖合で、米潜「パドル」と遭遇した。同艦は「栄洋丸」に魚雷4本、「真洋丸」に2本を発射した。「栄洋丸」は進路を変えてシンダンガン岬沖の浅瀬に座礁、「真洋丸」は爆発で分断した。

「真洋丸」では船倉の蓋が飛び散り、警備兵が手榴弾を船倉に投げ込み、機関銃を発射して殺戮が始まった。大爆発音が聞こえ、閃光が走り、あたりの光景は赤いオレンジ色に染まったが、魚雷の炸裂か、警備兵による殺戮か、どちらが先だったのかは不明である。最初の魚雷は、船橋の前方、次の魚雷は後部船倉と後部の上部構造物との中間に命中、炸裂した。ボイラーの破裂と思われる爆発で、船尾部分が切断され、数秒間に、500名の捕虜が海面下に沈んだ。

750名の捕虜の大半は、魚雷の炸裂か船内で溺死した。船外に脱出した者の大半も射殺されるか、陸岸に泳いで行く途中で溺死した。座礁した「栄洋丸」の付近を泳いでいた約30名の捕虜は、同船に救助されたが、その夜、同船上で全員が射殺された。捕虜の一人は、錨庫に隠れていて、錨鎖を伝って海中に降り、陸岸に逃れた。

翌朝、現地人は、海岸に打ち上げられた船の残骸や死体を見て海岸を捜索し、82名の捕虜を救出した(1名は救出後に死亡)。残りの81名は、ゲリラの隠れ家に案内され、ゲリラが豪州に連絡して、9月29日の夜、米潜「ナーウアール」が救出のためにシンダンガン湾に侵入した。同艦は全員を収容した後、ビアク島の南10海里にある米海軍基地、ミオス・ウオインディ小環礁に上陸させた。

注:捕虜772、死者688、生存者84という資料もある。