す江ず丸 |
す江ず丸
所属 | 栗林商船 |
類別 | 貨物船 |
総トン数 | 4,645トン |
速度 | 12ノット |
出発地 | セラム島アンボン |
目的地 | スラバヤ |
出発日 | 1943年11月25日 |
捕虜数 | 546名 |
遭難地点 | ジャワ海カンゲアン島付近(南緯06度22分, 東経116度35分) |
遭難日 | 1943年11月29日 |
捕虜死者数 | 546名 |
捕虜生存者数 | 0名 |
写真提供 | 栗林商船 |
1943年11月23日、酷使、飢餓、疾病などにより、著しく健康を害した捕虜650名がセラム島アンボンからジャワ島に送られることになった。「す江ず丸」の前部二つの船倉には日本人患者、後部二つには546名の捕虜患者(その大半が英軍。20名は担架患者)が入れられた。11月25日、「す江ず丸」は「日南丸」と船団を組み、掃海艇「12号」に護衛されてアンボン港を出発した。その後の数日は無事平穏であった。29日朝、前夜からの雨が上がり視程が回復した5時25分頃、カンゲアン島の東北約70海里のジャワ海を航行していた米潜「ボーンフィシュ」は、もうもうと黒煙を吐きながらスラバヤかバタビアに向けて西航する2隻の船を発見した。同潜は船団にかなり接近したが、彼らは後をつけられていることに気づいていなかった。8時17分過ぎ、同潜の発射した4本の魚雷は、「す江ず丸」目がけて直進した。同船は雷跡を発見し、速度を上げて回避しようとしたが、船体の中央部と後部マスト下方に、それぞれ1本の魚雷が命中し、すぐさま船尾から沈下し始めた。第3船倉からは捕虜が上がってきたが、第4船倉からは誰も出てこなかった。輸送指揮官は、筏を降ろし、捕虜に退船を伝えるように、朝鮮人警備員に命じた。船の傾きがひどくなったので、指揮官と船員の最後のグループは、海に跳び込んだ。「す江ず丸」は、9時17分頃沈没したと思われる。
指揮官は、数時間漂流した後、掃海艇「12号」に救助された。艇上は、濡れて疲労困憊した日本人負傷者で一杯になっていた。艇長は、すでに艇が満杯になっているので、捕虜の救助に反対した。艇長と指揮官の間で最初は捕虜の取り扱いについて意見の差異があったが、艇長の意見に押し切られて、16時頃から約250名が浮遊物に掴まって浮かんでいる海面をゆっくりと周回しながら、小銃12丁、25㍉機銃9丁で掃射し、海面は朱に染まった。日没後、バタビアに向かいながら、掃海艇は捕虜が逃亡を図ったので処分したと無線連絡した。日本兵93名と患者205名を救助したが、69名が死亡した。546名の捕虜で生きのびた者は、一人もいなかった。戦争とはいえ、無抵抗の捕虜を殺したことについて、指揮官は、良心の呵責に苦しんだという。