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元捕虜の訪日記録

豪元捕虜との市民交流会2013
(2013年10月2日)

10月2日午後2時から、大阪経済法科大学麻布台セミナーハウスを会場に、豪元捕虜&家族との交流会が開催されました。会場には泰緬鉄道建設時に陸軍報道班だった故泉信次郎氏が現地で撮りためた写真(42年末~43年開通式まで)が展示され、開会前から一般参加者は興味深そうに見入っていました。

参加者はゲストを含め約50人。質疑応答では鋭い質問も多く出され、実り多い交流会となりました。

日時:2013年10月2日(水)14:00~16:30

場所:大阪経済法科大学麻布台セミナーハウス

主催:元捕虜・家族と交流する会(代表:福林徹・笹本妙子)

協力:POW研究会(代表:内海愛子・福林徹)

司会:小宮まゆみ&田村佳子(POW研究会)

通訳:北原春美(サイマルインターナショナル)

泰緬鉄道写真スライドショー

戦中、陸軍報道部班だった泉信次郎氏が泰緬鉄道建設の状況を記録した写真のコピーが、ご遺族からPOW研究会に寄贈されました。今回のゲスト4人のうち3人が泰緬鉄道で使役されていたことから、会場にこれらの写真を展示すると共に、プロジェクターで映写し、会員の西里扶甬子とデヴィッド・モートンが日本語と英語で解説しました。

藤田幸久参議院議員の挨拶

参議院議員の藤田と申します。この元捕虜招聘プログラムのお手伝いをずっとさせていただいております。4,5年前、今の麻生財務大臣のお父さんが経営していた麻生鉱業が、戦中、オーストラリア、イギリス、オランダの捕虜を炭鉱で使役していたという事実がわかりました。当時総理大臣だった麻生氏は、最初はこの事実を否定しておられましたが、私たちはクイーンズランドにお住いの元捕虜の方を日本にお招きし、炭鉱のあった飯塚市を一緒に訪問致しました。当時小学生ぐらいで捕虜の姿を見ていた方々が沢山集まってくださり、大変感動的な再会をすることができました。

4年前まで日本政府はオーストラリア、イギリス、オランダの元捕虜の方々を招待していましたが、アメリカは除外されていました。アメリカでは、捕虜の強制労働に対する訴訟があったことも1つの理由でしたが、4年前からやっとアメリカの元捕虜の方もお招きするようになりました。

元捕虜の方々が来日した時、使役された企業を訪ねたり、当時の関係者にお会いになったりすると、大変良い心の交流ができますので、ぜひそうしたことを続けていきたいと思います。また、POW研究会の皆さんのような民間の方々が、こうした活動に大変な努力をされていることに敬意を表します。国会議員の中でも、このような活動を支援する人々をもっと増やしていきたいと思います。

最後に、個人的な話で恐縮ですが、私が家内と最初に出会ったのはオーストラリアでした。彼女は日本人ですが。そういうわけで、私たちはノーザンテリトリー以外のオーストラリアの州は全部行ったことがあり、個人的にもオーストラリアには大変お世話になっております。ありがとうございます。

元捕虜、付添家族の皆さんのお話

チャールズ・アーサー・エドワーズさん
Mr. Charles Arthur Edwards
95歳

42.1.マレーシア・ジョホール州パリットスロンで捕虜に。

42.9.シンガポールに送られ、チャンギ、ハヴェロック・ロード、リバーバレーロードなどの収容所に収容。

43.2泰緬鉄道に送られ、幾つもの収容所を転々としながら建設工事に従事。

44.5.鉄道完成とともに再びシンガポールへ。

44.7羅津丸で日本へ。

44.9大浜収容所に収容。ここで終戦。

※大浜収容所の詳細はこちら >>PDF

(泰緬鉄道の)スライドを見た後なので、何から話し始めればいいのか困惑しているのですが、ムアールのことからお話したいと思います。

そこで私たちは日本軍とムアール戦を戦ったのです。日本軍はムアールにあるムアール川を渡り、オーストラリア第8師団と初めて戦いました。両軍に多大な犠牲者を出しました。私たちは日本軍から10台の戦車を奪取しました。日本軍は包囲行動において優れていました。そして、火力においても私たちより優れていました。彼らは戦車や航空機を持っていましたが、私たちは持っていませんでした。これらの圧倒的な火力を備えて、彼らは私たちをパリット・スローンまで14マイル(20キロ)後退させました。

パリット・スローンにはシンパン・キリ川にかかる橋がありました。日本軍は橋を包囲し手に入れました。そして私たちオーストラリア軍は降伏したのです。オーストラリア軍の司令官は第一次世界大戦で戦功十字勲章を得たチャールズ・グローバー・ライト・アンダーソン中佐でした。パリット・スローンでの功績が称えられ、彼はビクトリア十字勲章を授与されました。これはイギリス軍、オーストラリア軍の中で最高位の賞であります。

私と他の10人はパリット・スローンの道の西側に送られました。日本軍が橋を掌握していたので、私たちは橋を渡ることができませんでした。私たちは重傷を負った125人のオーストラリア兵と30人のインド兵を連れていました。アンダーソン中佐と部下は、負傷者を公共施設の外に並べて放置するほか選択肢がありませんでした。

そこへ日本軍が川の浅瀬を渡り上陸してきました。日本軍が来たら負傷者を丁重に扱うであろうと期待していました。しかし、彼らがしたのは、負傷者にガソリンをかけ、火を放ち、生きたまま焼死させたのです。それが、私が見た初めての残虐行為でした。道の西側には40人の兵士がいましたが、日本軍の戦車が密林を抜けてやって来て、私たちを機銃掃射しました。生き残ったのは11人です。

私たちはそこで捕虜になり、クアラルンプールまで3日かけて連れて行かれました。そしてクアラルンプールのプドュ刑務所に入れられました。とても言葉には表せないような状況でした。600人あまりの兵士が20メートル四方の場所に収容されたのです。私たちはほとんど動くことができませんでした。

ジョージ・ウィリアム・“ピーター”・ディクソンさん
Mr. George William "Peter" Dixon

42.1.ニューアイルランド島カヴィエンで捕虜となる。

42.7.ラバウルから鳴門丸で日本へ。善通寺収容所に収容。

45.6.花岡収容所(秋田県)に移送。ここで終戦。

※善通寺収容所の詳細はこちら >>PDF

※花岡収容所の詳細はこちら >>PDF

お集まりいただきました皆さま、私は日本政府の招聘を受けて今ここにいます。私は3年半日本軍の「名誉ゲスト」でした。今でもそれは理解できません。今ここにいるのは当時を回顧するためではありません。もう70年も前の出来事なのです。遠い昔のことです。そしてこの会場で戦争体験者は恐らくここに座っている私たち4人だけではないでしょうか。戦争を振り返り不平を繰り返し述べるわけにはいきません。戦争は終わったのです。

とにかく、私たちは今ここにおり、日本は現在国際社会で非常に重要な役割を担っています。日本は太平洋で指導的立場の国であるのです。かつての西洋諸国におけるイギリスと同じ立場にあるのです。極東における責任を日本が遂行するか目を向けなくてはいけません。私たちオーストラリアは皆さんにとって主要な輸出国です。私たちは非常に大量の商品を日本から買っています。

危険な時期が目前に迫っています。日本が参戦した目的の1つが、いわゆる大東亜共栄圏を発展させることであったのを覚えている方もいらっしゃるでしょう。そして今、あなた方はアジアを(戦争という形ではなく)まとめていかなければならないのです。先程申した通り、過去は過去です。この話はこの辺でやめておきましょう。

大局的に見ますと、私たちは空港から東京へ車でやってきて、今ここに座っています。オーストラリア全人口の75%に相当する人々が暮らしている地域を通過してきたということです。

私はもう退職したのですが、オーストラリアのクイーンズランドから参りました。クイーンズランドと言えば、皆さまご存じなのはブリズベン、サンゴ礁、そして海岸線に関わることでしょう。しかし30キロ内陸にいったところには東海岸に沿って大分水山脈があります。そこがクイーンズランドが始まる場所です。時間がなくなりました。皆さまありがとうございました。

アディ・グレン・ロックリフさん
Mr. Adye Glen Rockliff
91歳

42.3.ジャワで捕虜となる。

42.8.ジャワ第1分所(バンドン)に収容。

42.11.ジャワ本所(バタビア)に移送。

43.1.泰緬鉄道に送られ、いくつもの収容所を転々としながら建設工事に従事。

44.7羅津丸で日本へ。

44.9.大浜収容所に収容。ここで終戦。

※大浜収容所の詳細はこちら >>PDF

私は泰緬鉄道の建設工事に18カ月間従事しました。栄養失調から全ては起こりました。どの死、どの病気、どの四肢切断も栄養失調が原因です。タイで働いたオーストラリア兵のうち38%が命を落としました。これは泰緬鉄道に関わったどの国籍の人々より低い死亡率でした。鉄道に関わった男性、女性、子どもの死者の総数は115,000人です。栄養失調が体力的にも精神的にも多大な被害をもたらしました。建設が始まって3カ月で栄養失調による影響が目立ち始めました。協同的筋肉運動のバランスが取れなくなったことで明らかになりました。6か月で4%の者が視力を失いました。同時に「ハッピーフィート」と呼ばれる病気が進行しました。これは末梢神経と四肢の損傷によるものです。栄養失調によってもたらされた被害は今でも尾を引いています。私は今でも「ハッピーフィート」を抱えています。私たちは脳障害も受け、私は短期記憶がありません。そして協同的筋肉運動のバランスを喪失しています。捕虜であった90%の者は関節炎を後に発症しています。戦後の死亡率もとても速かったのです。もうこれで十分でしょう。ご質問があったらどうぞ。

アレキサンダー・ホワイトさん
Mr. Alexander White
92歳

42.2.シンガポールで捕虜となり、チャンギ、ブキテマ、アダムパーク、ローンロードの収容所を転々とする。

43.3.泰緬鉄道に移送され、タルサオ、タンピ、トンチャンの収容所を転々としながら建設工事に従事。鉄道完成後、タマルカンに戻り、その後ナコムパトム捕虜病院に入院。

45.4.退院し、列車にてバンポンから南下、Prachab Kirikan、更にMergui Roadで 労働。その後、ナコムパトム収容所に戻り、ここで終戦。

※この原稿は集会後にご本人より送られてきました。日本語訳:田村佳子

私は泰緬鉄道建設に従事し、第4分所にいました。マラリアをはじめとする様々な病気にかかり、入院。同じ部隊の仲間達は鉄道完成後、日本へと連行されましたが、私はまだ入院中の為、彼等と行動を共にすることは叶いませんでした。元気になるとプラチャップ・キリカン(Prachuap Khiri Khan)からマーグイ(Mergui) 道路(注1)の建設に駆り出されました。

ナコムパトムを出発したのは1945年4月でした。鉄道の駅まで歩いて行き、無蓋の貨物車両に乗りました。床は鉄板で、地獄の旅でした。目的地のプラチャップ・キリカンまでの旅は、昼間はローストされているように熱く、夜間は反対に非常に寒かったです。列車はコックがご飯を炊く時だけ停車し、また旅を続けました。ご飯はいつも生煮えでした(注2)。プラチャップ・キリカンに到着、その後ジャングルの外れにある収容所までどのくらい歩いたでしょうか。必要な道具類を自分達で集め、翌日には道路建設のキャンプに向かって出発。数日間かかりました。濡れた地面の上で寝るのは寒く、また空腹でした。やがて到着した収容所近くの道路は出来ていましたが、辺り一面泥の海で、我々はそれを歩いていかねばなりませんでした。収容所は道路のある丘の下斜面にあり、床と屋根は竹で覆われていたが、昼間は太陽が出れば、容赦な無く日が差し込み、雨が降ればひどい雨漏りがしました。仕事に行くのは難儀を極めました。道路に上がるのに傾斜がきつく、泥で滑りやすかったのです。道路も同じでした。仕事は大抵長時間労働でした。

どのくらい働いた頃だったか、キニーネが無かった為、マラリアが黒水熱を引き起こしました。私は10日間意識を失っていました。英国人軍医のCalcy大尉が私の命を救ってくれました。抗マラリア剤のアタブリン錠剤を湯に溶かし、それを一日一回静脈注射、7日間続けました。腕を上げることも出来ないほど、私は弱っていました。軍医は日本兵の食べ残しをもらって来て私に食べさせてくれました。が、それは一皿乞う毎に、彼が常習的に殴られるのです。私はお陰で命を救われました。衛生兵が私を起こそうとしても、足がいうことを聞きません。そこで彼等は毎日私の体を起こしてくれました。

やがて私は足を自分で動かすことが出来るまでになりました。とは言うもののまだ私は非常に弱っていました。この頃日本兵は病人をナコムパトンに送り返すことを考えていました。100人の病人といわゆる「元気な」者で構成された一団でした。トラックの待っているところまで、私を4人の英国兵が運んでくれました。うち一人はBill Saundersonという私と同じU部隊の兵で、あだ名はブーン。私の良い友人でした。滑りやすい泥道をどうやって無事に運んでくれたのでしょうか。翌日この収容所でどうにかして川に行き、体を洗いました。その近くで、タイ人が魚を捕まえようとしていて、私は一匹捕まえることが出来ました。川原では豪兵が火を起こしていたので、早速魚を焼いて二人で美味しく食べることが出来ました。

翌日、トラックがやって来て私達捕虜をプラチャップ・キリカン近くの収容所へと連れて行きました。私達はテントの下でぐっすり眠り、食事もたらふく食べることが出来ました。これは日本兵達が前の収容所から私達捕虜全員で来ると考えていた為でした。140人には十分すぎる野菜や豚を用意していました。コックたちは、手伝ってくれたらその分料理して良い、と言ったので、私達は出来るだけ手伝い、2週間私達は豚の如く食べまくりました。体重は40Kg弱になり、調子が良くなりました。その後の列車の旅ではまた古い車両で、相変わらず生煮え米の食事でした。でも今度は私は豚脂を持っていたし、友達は砂糖を持っていたので、ご飯に混ぜて美味しく食べました。他の兵達は食べてみようともしませんでした。

やがて村に到着しましたが、英軍が橋を爆破していた為、そこから先の列車のある地点まで約2マイルを歩かねばなりませんでした。私は自分の荷物を持ち、他の病気の仲間を手伝いました。確か以前は担架で運ばれていた兵だったと思いますが、両側から二人で支えて一緒に歩きました。道端でしゃがみこんだので水を一杯やりました。すると彼は死んでしまいました。しばらくすると日本兵が担架を持って来て、死体を運んで行きました。私はついに彼の名前を聞かずじまいでした。

ナコムパトムに戻りマンゴーの木の下で休んでいました。私はもうくたくたに疲れていた。すると古い友人のケン・スイート(Ken Sweet)がやって来て、この収容所には知らないものばかりがいる、と言い、以後彼とはこの“鉄道建設の仕事”を共に最後まで遂行する仲間となりました。やがてフィッシャー(Fisher)軍医による健康診断があり、私が黒水熱にかかっていると言われました。輸血と肝臓への7本の注射が必要となりました。二人の英国兵のコックが私への輸血に応じてくれました(注2)。彼等は報酬として卵を10個もらったのに、それを一つずつ毎朝目玉焼きにし、米粉で作ったパンの上にのせて食べさせてくれました。連日、クリスマスのようでした。数週間すると別の小屋に移動し、仕事に戻るため体操をして体を鍛えるように言われました。

が、その2週間後、終戦となりました。私はすっかり体が良くなったので、日本兵の監視を志願しました。この辺りには100名の豪兵と100名のオランダ兵がいました。私達はシフトを組み、夜12時から昼の12時までの勤務としました。マウントバッテン卿の夫人が来られ、1週間滞在の後、シンガポールに行かれました。オーストラリアには11月に戻りましたが、帰国船のCircassiaにはスコットランド人の乗組員がいて、ウイスキー一本飲み干すなどとても楽しく過ごしながら帰還しました。

(注1)マレー半島のタイ側、付け根から少し南に下った地点からビルマ側のMerguiにかけての縦断道路の建設

(注2)何故米が生煮えだったのか、ホワイトさんに聞いてみた。すると、列車が停車している間に捕虜のコックが辺りから薪を集めて火を起こし、米を炊くが十分炊き上がる前に列車が発車する為、いつも芯のあるご飯を食べていたとのこと。

(注3)ホワイトさんによると、十分な医療器具も設備も無いところでの輸血。二人でベッドに並んで寝て、提供者から血液をチューブで取りだし、途中でそれを漉して、またチューブでホワイトさんの体に入れるという方法だったとのこと。

キャロライン・アーチボルドさん
Ms. Carolyn Archibald
29歳
(エドワーズさんの孫娘)

このような旅に出るとは全く思っていませんでした。今まで、私の祖父は日本人に対して全く偏見を示しませんでした。彼が経験した様々なことにも関わらず、彼はいつも大いなる自制心と謙虚さを示してきました。全ての雲は銀の内張りを持つ、どんな状況でも希望はある、と言います。彼が学んだのは、自制心への感謝でしょう。私たちは彼をとても誇りに思っています。そして、静聴してくださり、何かを学び取ってくださったこと「ありがとうございます」。そしてもちろん、若いオーストラリア人の1人として、日本人の方と強い関係を持てることを、嬉しく思います。

レスリー・ディクソンさんMrs. Lesley Dixon
77歳
(ディクソンさんの妻)

この45年間ピーターと人生を共に送ることができてとても素晴らしかったです。彼は日本人に対して全く憎しみを見せず、恨みも抱いてきませんでした。彼は全ての悪い側面を置いてきたようでした。彼は全部収容所に置いてきたのです。オーストラリアに帰ってきて、また健康になったと言っています。他の方々はとてもやせ細っていましたが、彼は違いました。鏡がなかったので、自分がどれだけやせ細っているかわからなかったのです。

しかし、彼は帰国して健康になり、建設業でキャリアを築き、そして退職しました。私たちは世界の色々な国を旅しました。そして彼はいつも前向きな姿勢でありました。私たちは沢山の国を旅し、私はいつもピーターの側にいました。そして来日のご招待をとても喜んで受け入れています。もう世界を旅する日々は終わったと思っていましたが、日本には来たことがなかったので、来日できてとてもいい機会になりました。人々と出会い、若い人々とも出会い、とても感動しました。彼らは人生を前に進めていかなくてはいけません、第二次世界大戦で起こったことを背負いつづけるのではなく。

改めまして、来日する機会を下さったことを感謝いたします。もう少しよい天気になるよう準備していただけたらよかったのですが、そうはいきませんね。どうもありがとうございました。

キャサリン・アン・タイさんMrs. Katharine Anne Tighe
54歳
(ロックリフさんの娘)

私が思うに、父が戦争から戻ってきた時、彼は全てを忘れ、くじけずに人生を前に進め、短い何年かの間に農場を買い、結婚をし、子どもをもうけました。ですので、捕虜であった戦時中の様子についてほとんど知る由もありませんでした。体力的に被害を被っていたことを考えれば、農家としてやっていくのはとても大変であったと思います。

彼は毎年捕虜時代の仲間との再会に出かけていきました。それは亡くなった仲間を心にとめるためでもあり、生き延びたことを祝い、続く友情を確かめるためでもありました。それは今でも最後の数人で続けられています。

戦争体験は苦い思い出であったため、父が日本について話すことは長い間ありませんでした。彼は徐々に気持ちが和らぎ、日本車を買い、それ以来私たちは日本製を使っています。今の車にとても満足しています。彼の過去の日本に対する記憶に新しい別のものを被せ、私たちは前に進み、世界は新しい世界になったのだと認識する機会を与えてくれたという点で、この旅行は素晴らしいと思います。ありがとうございました。

クリスティン・ガイ・バーニーさんMrs. Christine Gaye Bernie
(ホワイトさんの義理の娘)

申し訳ないですが、私のことについて話すことはありません。父アレックス・ホワイト(と今日は申しますが)は、私の養父です。ですので、私の人生の早い段階では、彼が経験したことについて知りませんでした。最近になって戦友会や公的情報で知ることになったのです。

彼らが経験した苦しみに気付き、考えることができるので、この年齢になっても皆さんの前で忘れずに話すことができていることを喜ばしく思います。全てを忘れるのはよくない。苦しみは忘れ、でもいつも友情は忘れないでいるように。次の世代がこの世代が経験したことを繰り返さないように願っています。ありがとう。

質疑応答

佐久間美羊 訳

Q: エドワーズさんへ。パリットスローン事件について、実際にその現場を見たのですか?

A(エドワーズ): 日本軍は包囲運動行動に優れており、シンパン・キリ川にかかる橋を掌握しました。私たちは囲まれてしまったのです。私たちには125人のオーストラリア兵と30人のインド兵の負傷者がいました。日本軍が後でやってくることを願い公共施設の前に並べました。そして動ける者は川に行き、浅瀬を渡りました。負傷してなかった者はそうして川を渡ったのです。後に日本軍が来た時、負傷者を介抱するのではなく、ガソリンをかけ、生きたまま焼死させました。3人は逃亡しました。一人は対戦車連隊の軍曹でありました。名前は覚えていません。他の2人は2/29大隊のベン・ハックニー中尉と、レッジ・ワーデン兵です。彼らと私は戦線から外れたクアラルンプールに連れて行かれ、プドュ刑務所に入れられました。そこで私はハックニー中尉に会いました。それで質問は終わりですか?(虐殺が)起きたのは見ていません。私は道の西側にいたので、恐らく40メートルほど離れていたと思います。そこで私たちは日本軍の戦車に機銃掃射されました。

Q: ディクソンさんへ。花岡では収容所にいた連合軍捕虜の他に中国人を見ましたか?

A(ディクソン): 何人か中国人がいたのは聞いています。しかし、日本人か中国人か判別するのはとても難しかったことを忘れないでほしい。炭鉱は主に地下で操業していました。たくさんの女性がいて、日本人女性だと思います。とても貧しかったので、働いていたのでしょう。

Q: 天皇は処刑されるべきでしたか?

A: いいえ。もしイギリスがドイツに侵攻されたら、ドイツ軍は首相を殺したでしょう。でも国王は殺さないはずです。誰の頭にも思い浮かばなかったと思います。

A(エドワーズ): から言わせてもらえば、ヒロヒトは実際は戦争に反対であったと聞いています。だから、「いいえ」です。戦争を支持したのは日本の最高司令部だけです。であるからして、絶対に「いいえ」です。

Q: オーストラリアはベトナム戦争に参加しましたが、これについてどう思いますか。

A: 私たちが朝鮮や他で戦った小さな戦争は世界大戦の規模ではありません。世界大戦は巨大で大多数もの人々が亡くなりました。市民もそうだし、色々な軍務の兵士もです。第二次世界大戦以降、その規模の戦争は起きていません。戦争で戦い続け、戦い続け、戦い続ける、そんなことを考えるだけでも嫌気がさします。

Q: 原爆についてどう思いますか。原爆が落とされると知っていましたか。

A(エドワーズ): 私たちは原爆については何一つ知りませんでした。私は大浜の第9分所にいて、2人目のパン職人でした。日本では小麦が不足し、私はコックに降格させられたのです。私は夜勤のコック助手でした。ドイツ軍が降伏した5月から戦争が終わるまで働きました。8時30分には400人分の食事を作り終えていなくてはいけませんでした。ある朝、1945年8月6日8時15分17秒、私たちは炊事場で働いており、最も美しい白い光が二つのドアから差し込みました。米を調理していたコックの体が宙に浮き、銀の後光が光りました。私が最初に思ったのは、私たちは死んだのだ、ということでした。私たちは直接の衝撃を受け、光を見ました。光は消えると、私たちはまだ生きていました。ドアの外を見ると熱風の波に打たれました。東側を見ると、キノコ型をした雲が水平線からちょうど昇ってくるのが見えました(注1)。収容所の所長は炭鉱でもう仕事をしなくていいと命じました。
  広島にいた私の友達によると(注2)、原子爆弾はパラシュートと共に落とされました。そして彼が一緒にいたオーストラリア人が(不明)中に走ってきて「彼らが食糧を落としているぞ」と叫びました。そしてそこに立ったまま、落ちてくるのを待っていたそうです。それ以前のことに関して知っていることはありません。

(注1)広島とエドワーズさんがいた大浜との距離は約130㌔。当会が調査した限りでは、大浜の住民で広島原爆の閃光やきのこ雲を見たという人は見当たらない。

(注2)広島には捕虜収容所はなかった。長崎には爆心地から1.7㌔の所に捕虜収容所があり、蘭・英・豪の捕虜たちが被爆しているので、この話は長崎のことではないか。

Q: 泰緬鉄道にいた方々へ。当時日本人と信頼関係を築くことはありましたか。

A1: 私たちが知っているのは、戦争が終わったことだけです。私たちは日本人に言われるより前に戦争が終わったことは知っていました。なぜなら収容所に秘密のラジオがあったからです。

A2: 全くないです。全くない。

A3: いいえ。あなたは終戦について話しているのですよね。どうやって終戦を知ったかお教えしましょう。私たちはその朝、作業に行く予定でした。年配の日本人が道の端に座っていました。下手な日本語ですみません。毎朝彼の横を通る度に冗談で、「センソー、オワリ、チョット マッテ」と言ったものです。そうすると彼は「スコシ マッテ ナイ」と返事をしました。私たちは「どうして知ってるんだい?」と聞くと、彼は新聞を読んだというのです。私たちは彼に盗んだ煙草を差し出し、勤務時間が終わったらその新聞を持ってきてもらえるか頼みました。彼から新聞をもらうと、そこには大きな見出しが書かれていました。私たちの捕虜の中に日本語を少し話す者が2人いました。持っていた辞書は全て没収されていましたが、もう一人の捕虜と私で夜に抜け出し、2冊を取り戻しました。日本語のできる者たちが翻訳をし、朝の6時までかかりました。そして、戦争が終わったというのは本当のことだと思う、と言いました。私たちが作業に連れて行かれるために行進する時に、オーストラリア人の高官が前に出て、日本人の所長に「刀を渡すように」と言いました。死のような静けさが漂いました。そして日本人の将校は刀を差しだしたのです。それが終戦です。

Q: アメリカの元捕虜と豪元捕虜を比べるとアメリカは怒りが強く、まだ怒っているように感じますが、なぜですか。

A1: 彼らはアメリカ人ヤンキーだからさ。

A2(エドワーズ): なぜアメリカ人が腹立たしく思っているかというと、日本軍が7日にパールハーバーを攻撃し、翌8日に宣戦布告をしたからだと思います。それに対してアメリカ人はとてもとても腹立たしく思っているのではないでしょうか。

Q: 廃線になっていた泰緬鉄道の再建計画について、タイとミャンマーが合意したそうですが、どう思いますか。

A(エドワーズ): 今日の経済状態では鉄道は建設できないと思います。不可能です。また、首都のラングーン、今は別の名前だそうですが(ヤンゴン)、から東南アジアの東海岸まで輸送することになるので、輸送会社は反対しているのではないでしょうか。再建するのは不可能だと思います。

※※他にも多数の質問が寄せられましたが、時間切れとなり、伺うことができませんでした

閉会挨拶
POW研究会共同代表
内海愛子

オーストラリアから長時間かけてわざわざ日本においでいただきまして、本当にありがとうございました。オーストラリアの元捕虜の人たちにとって、捕虜体験はオーストラリアという国を考える上でとても重要な問題である、と私は教えられました。オーストラリアの国を作る上で、共通の体験としての捕虜体験をもとに、戦後オーストラリア国家、というものを形成していく、その核に捕虜体験がある――これは時々、私たちはよく聞く話です。具体的には、皆さんのここに出てくる、ダンロップ中佐、トム・ユーレン、ヒュー・クラーク、こういう人たちが捕虜体験をもとに、戦後オーストラリアで活躍し、多くの尊敬を集めてきた人だと思っています。

先ほどアメリカの捕虜が非常に今なお怒っている、なぜオーストラリアの捕虜は怒っていないんだ、という質問がありました。しかし、30年、40年前、オーストラリアでは私は非常に鋭い刺すような視線に何度も出会いました。その怒りはやはり捕虜体験を持った人たちからの視線でした。そのとき私は捕虜問題は分かりませんでした。日本の兵士にとっては捕虜の問題というのは、非常に重要な問題で、生きて捕虜になるなと教えられていた、そういう兵士もいます。これは多様ですけど、そういう人もいます。

それともうひとつ、先ほどパリッツスロンの話が出ましたけど、捕虜の問題は、日本の戦争裁判と非常に深くリンクしていました。捕虜に関わって、処刑された日本の将兵が多くいたことが、日本の捕虜問題を非常に研究しにくくさせてきました。しかし私たちはPOW(研究)のネットワークを作って、この10年以上、みんなで活動してきました。それで、今日はオーストラリアから若い世代の人も参加してくれました。日本からも私たちの若い仲間が参加しています。そして今日皆さんにお配りしたこの資料、これは笹本さんを中心に私たちの仲間がまとめました。難しい問題、そして微妙な問題であるからこそ、このような交流と話し合いを続けることによって、双方の理解を深めていく、こういう活動を私たちは、今後もやっていきたいと思っています。ですから、遠路はるばるオーストラリアから8時間以上かかると思います。それをやってきて、そして今日このように証言してくださった、その元捕虜の方たちに何よりもお礼を言いたいと思います。本当にありがとうございました。

それで今日会場から実に鋭い、また含蓄に富んだ質問がたくさん出ました。これをまた私たちの会で研究したり、調査しながら、また次の会に活かしていきたいと思います。本当に今日は皆さんありがとうございました。

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