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元捕虜たちの証言集

ニール・マックファーソンの捕虜体験

1942年3月ジャワで捕虜となった19歳のオーストラリア兵、ニール・マックファーソンの体験は以下のようなものだった。彼はビルマとタイの間を結ぶ「死の鉄道」と呼ばれた泰緬鉄道の建設現場で2年近くも過ごすこととなった。この鉄道の建設のためには、動員された6万人の捕虜のうち1万2千人もの命が犠牲となった。

1942年9月、我が伝説のパイオニア大隊司令官ウィリアムズ中佐の指揮の下に、1800人の捕虜はジャワから、今日では羊であっても許されないような悪条件の下、ビルマへと輸送された。これには乾坤(けんこん)丸、前橋丸、山形丸という三隻の地獄船による三回の船旅が必要だった。

1942年10月タンビザヤに到着し、ターヴォイから到着したばかりのオーストラリア軍ヴァーリー准将のA部隊と合流した。我々はかくして泰緬鉄道建設の仕事を始める最初のオーストラリア兵となった。

続いて1943年1月ビルマに到着したオーストラリア兵もやはりジャワからだった。タイ側の始発点で作業を始めた最初のオーストラリア兵も1943年1月ジャワから到着した、ダンロップ隊だった。

その後の15か月間は、ビルマのオーストラリア軍捕虜の気力と士気とアンザック精神とが徹底的に試される日々だった。

我々はひと握りのご飯と肉の一切れも入っていない水っぽいシチュウという飢餓スレスレの食事で働かされた。乾いた灼熱の中で、惨めにぬかるみに足をとられながら、ジャングルを切り開き、盛り土を築き、橋を作らなければならなかった。

それから、我々のうちの生き残った者とアンダーソン中佐部隊の生き残りとが第1移動部隊として選ばれ、すでに我々が基礎工事を終えている道路に沿って、枕木を並べ、レールを敷く重労働をやらされることになった。我々は、1943年10月17日始点のタンビザヤから131km地点でタイ側からの線路と合流する地点まで、雨季の間中、間断なく働いた。

我々の服も靴も、悪臭に満ちたジャングルの中でとっくに破れ果て、灼熱の太陽と、雨から身を守るものといえば、ふんどしがあるだけだった。夜は、南京虫と現地人労働者が残していったシラミで眠ることもできず、悲惨なものだった。はじめから、たて続けに死人が出て、人数が減ってゆくにつれて、我々の労働時間は長くなっていった。

医療品らしきものは一切なく、マラリア、赤痢、脚気、ペラグラ、熱帯性潰瘍、天然痘、ついにはコレラまで発生して、死者が出た。献身的な軍医と衛生兵はシフト制で、スーパーマンのように働いた。かれらが居なければ、我々は2倍の数の戦友を失っていただろう。

ボロをまとい、やせ衰えた生き残りの我等の苦難は、1944年1月、タイ側の、よく整備された、設備のととのったタマルカンとカンブリの収容所に移動させられるために、よろめきながらジャングルの収容所から出た時まで続いた。

過酷な条件故に、死人が続いていたにも関わらず、食糧が改善され、軽作業だけで6ヶ月過ごしてみると、我々生き残りは、一見健康にみえるまでに、回復した。これが拘束者たちの巧みに仕組んだ企みだったことに、我々は少しも気づかなかった。

オーストラリア兵を主体とする、何千という鉄道建設の労働者が、鉱山や、工場、港湾で奴隷労働者として日本に輸送されるために選別された。

何千人もが、米軍の潜水艦の攻撃で沈められた地獄の輸送船の中で、死ぬ破目になった。

生き残り続けるという私の幸運は続いた。私の乗った4番目のそして最後の地獄船であった安房丸は、無事日本に到着した。我々は、1944年1月、40年ぶりの寒さという、真冬の日本に到着し、終戦までの間炭鉱で働いた。

名も知らぬライターが、地獄船の実情を以下の如く書いている。

「振り返るのがやっとという過密状態の中で、狭い昇降口の階段まで人に溢れ、入浴してない汚れた肉体の集団が、船倉に充満した息詰まるような熱気と、汗臭い吐き気をもよおすような臭気の海の中で生き延びるために必死でもがいていた。船旅の始めは、赤道近くの熱帯の暑さに苦しんだが、その後は、トイレタイムの時には、雪におおわれた甲板を横切るようになった。」

以下は、オーストラリアの「元捕虜マガジン」に寄稿した私の記事です。

日本九州潜龍福岡第24分所

1944年12月15日、545人のオーストラリア兵捕虜がリバーヴァリーロード収容所から選ばれて、シンガポール湾に停泊していた[安房丸に乗船した。その全員が、「死の鉄道」で働いていたAフォースの生き残りだった。11日間というもの焼け付く甲板の下に閉じ込められ、船はボクシング・デー(26日)になって、日本に向かって出航した。

1945年1月15日捕虜一行はよろめきながら、地面に雪が積もる真冬の北九州門司港に降り立った。

34人のアメリカ兵を含む150人が、九州北西部の海岸の潜龍まで移動した。日本人坑夫から数日間トレーニングをうけた後、働く元気のある者は住友所有の潜龍炭鉱で働いた。泰緬鉄道での、恐怖、死、疫病、不潔な環境、そして虐待などに比べたら、快適で暖かい小屋、風通しのよい部屋など、福岡24分所のコンディションは五つ星だった。ちょっとした看守の嫌がらせや、狭苦しく、危険な条件下の地下作業の長いシフトをもちこたえるには粗末すぎる食事は別としても、士気は最高だった。

我々が下について働いた炭鉱夫は、危険な条件下でどのように生きのびるかという方法を親切に教えてくれた。ほかの作業場とは違って、罰を加えられるということもなかった。終戦ちかくなると、かれらの弁当箱にも、捕虜の食事とほとんど変わりないほどのものしか入っていなかった。1945年8月16日になって、我々は整列させられ、「戦闘を止めるよう命令が下った」と告げられた。やがて、捕虜たちが収容所の実権を掌握した。米軍の戦闘機が落としていった補給品のお陰で、その後の5週間は楽しい思い出となった。周辺の山にハイキングに行ったり、農家に呼ばれて、乏しい食料を分け合って食べたり、そのお返しに、米軍機が落としてくれた補給品を分けてあげたりしたのが、楽しい思い出になっている。

(西里訳)

左からジャック・ブーン、ニール・マックファーソン、ジャック・シモンズ、豪大使館付武官の各氏
 保土ヶ谷英連邦墓地で(2004年4月)