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元捕虜たちの証言集

− 戦争体験記:1942-1945 ジャック・ブーン −

1995年4月記

天皇の客人

1942 年2月15日、シンガポールは日本に降伏。私は2日後、25歳の誕生祝いにチャンギ村の捕虜収容所となる元英国軍セララング兵舎へ14マイルの行進をした。がっちりしたコンクリート兵舎で、むき出しのコンリート床が寝床、食物は米が主だったが量は適当、部隊の友には欠けた者なく全員揃っていた。捕虜生活はどれほど続くのか、どこへやられて何をするのかが不安で、中国での日本軍のふるまいはよく知っていたから我々の扱いが気になった。やがて作業班が組織された。

3月、私は大きな班の一員となりグレート・ワールドというシンガポール内の遊園地を宿舎とする仕事が始まった。倉庫の缶詰め、砂糖その他の商品を貨車や船に積み込む作業で、盗みの見せしめとして首を刎ねられた現地島民の頭部がさらしものになっていた。遊園地は電気、水、がありこっそりラジオを聞くことができて戦況を知った。当初悪かった戦況だが、10月に対ドイツの英国の初勝利、ついでロシア軍の勝利を知り意気が上がった。

10月リヴァー・ヴァレイ収容所へ移動、ここで捕虜用赤十字の箱を初めて支給され、クリスマス前にセララング兵舎収容所へ戻った。シンガポール滞在期間は耐えられぬ経験ではなかった。仕事も過酷ではなく、こなしさえすればひどい殴打などトラブルもなく、作業中に手に入れる缶詰食品で米飯の補助ができ、捕虜たちの健康状態は概してよかった。島民、特に中国人は親切だったがおおっぴらにすれば猛烈に殴られた。日本軍看守とて機会あれば島民との少々の取引に異存はなく、現に私も一度、コンデンス・ミルクの缶運びをある看守から言いつけられ、代金20ドルのうち5ドルを彼がくれたものだ。私の留守中のセララングでは広場事件があり、逃亡禁止条項への署名を上官が拒否したため捕虜全員が兵舎を追い出された。広場での最悪生活で病人が続出し、上官が全員に条項への署名をさせ落着したが、これを除けば演奏会パーテイーその他の催しがあり生活は向上した。

タイで実施されている鉄道建設の噂がひろまり、私たちの中から最初のA隊が1942年5月に海路派遣されて、9月同隊はビルマ側から建設を始めた。 1943年3月、私ほかオーストラリア人2,200人を含む5,000人のD隊が組織され一台27人も詰めたトラックでタイに輸送された。4日間の旅は暑さと人員過剰で不眠に悩まされるひどい状況だった。最初はテントだったが後に竹小屋が宿舎として建設された。竹ゴザ状の寝床はたちまち蚤や南京虫の巣窟となった。当初は土手づくり。竹製の桶や米俵、天秤捧で土を運び盛る作業はとくに過酷ではなかったが長時間だった。次々移動して土手や切りとおし建設をした。また小川に木橋も架け、その丸太の切り出し運搬は重労働だった。24時間体制で岩石の爆破作業もした。砕石で足にけがするとよく潰瘍になったが幸い薬が少しあり大事にならなかった。薬が欠乏または皆無の地域では多くの捕虜が壊疽となり、麻酔なしの手術まで体験する苦難に至ったのである。

タイ到着後から健康状態の悪化と伝染病などの病気に悩まされ特に下痢、赤痢、マラリア、また脚気、十二指腸虫の訴えが多かった。モンスーンの季節になるとコレラが全収容所にひろまり多数の死者を出した。我々の収容所では日本軍が注射薬を調達し、厳しい衛生管理で我々U中隊の死者は最小に押さえられた。雨で一帯は沼地となり生活・作業ともに条件は最悪。着たきりすずめだった衣服も急速にだめになり多くの者がフンドシ1丁、はだしの者もいた。日給タイ通貨10 セントの賃金から10%は上官レグ・ニュートン少佐が徴収し、ブーン・ポンという地元民が対岸から運ぶ薬を買った。残金でたまにタバコ、果物、アヒルの卵などが買えた。

最終局面の仕事のひとつにヘルファイア・パスという切り通しがあり、硬い岩盤に手作業で立ち向かい、きりとのみで火薬用の穴をうがつ過酷な作業に加えて、日本軍看守、技師たちの残虐さによって前任隊の多くの捕虜が犠牲となった。そのため、補充として我が隊の比較的元気なものたちが多数送られた。現在ヘルファイア・パスは、多くの犠牲者を出しながら、鉄道の完成のために働いた男たちに捧げる記念館として、保存されている。無きにひとしい医療品で鉄道建設にあたる捕虜たちの病気や苦難と闘った故サー・エドワード・(くたびれ)・ダンロップを始めとする軍医たちにささげる記念碑もある。

私はこの移送中ひどい赤痢にかかり軍医は病人用収容所に私を入れた。ここにはラジオがあったらしく、よくオーストラリア近辺の地名を英国人将校が訊きにきたものだ。高名なクリケット選手兼解説者スワントン少佐もいて後日、英豪の試合が再開されるとオーストラリアへやって来た。私が隊に戻されたのはヘルファイア・パスが4週間をかけて完成した後であった。泰面鉄道は1943年10月12ヶ月以内で完成した:全長400キロ、困難な地理的条件に加え、道具と装備は原始的だった。この間特筆すべきはユーモア精神。「お前、今どこにいたい?」と尋ねられてある男はこう言った:「泥酔と騒乱罪でしょっぴかれて治安判事の前にいたいね。」

鉄道が完成すると仕事はゆるやかになり、線路の補修とエンジン用の燃料木材伐採などだった。毎日5, 6本の列車が兵士や装備をビルマ戦線に運んだ。その頃には連合軍の空の活動がはじまり、日中の作業では爆撃機の編隊が南を目指し、間もなく全機そろって帰還する姿を見、夜も定期的な爆音が響いて連合軍の勝利を確信させてくれた。6月に捕虜の多くが南の休養キャンプに移され食料も改善され仕事はないも同然だった。元気なものが日本国内へ行くことになり、みな病気と過酷な労働のタイを離れることに希望をもった。そうはいっても、原始林、文明的な装いのない環境、そしてクワイ河の体験はユニークなものであった。まずシンガポールへ、ついで1944年7月4日、羅津丸で太平洋に出た。損傷したデッキに鉄道レールを溶接して補強したおそるべき船で、大多数の捕虜はデッキの下にすし詰め状態となったが私たち数人はしのぐ物もない看板にいることにした。トイレは舷側につるした木製の枠に手すりを乗り越えて入るのだったが台風にも奇跡的に全員無事だった。ボルネオを経て7月16日マニラにつき3週間港に停泊したのち、駆逐艦数艘に護衛される大船団で8月9日晴天の日に出航した。ところがまだ陸地が見える1時間後、2つ後ろにいたオイルタンカーが魚雷にやられ20分で沈没した。乗員はみな救助されたと思う。駆逐艦が30分ほど攻撃する間、日本軍の見張りたちは殺気立った。フィリピンに至近距離でこの連合軍海軍の活動をじかに体験して私たちは大満足した。その後2, 3日するとこの老朽船で台風に遭遇、捕虜生活3年半で一番の怖い思いをした。金属の折れる音がし、艦長は船が危険と判断して、駆逐艦一艘に護衛され船団と別行動で小島の間に避難した。船団に合流し補給のため 台湾に着いたのは8月16日。 9月7日に九州に入港。シンガポールから10週間の最長記録の長旅で3名の死者があり、米袋に包まれて艦上の上官の短い式ののち水葬された。日本につくと二手にわかれ将校ひとり軍医ひとりがついて103名のオーストラリア人は銅精錬所のある小さな町、佐賀関に列車移送された。木造の宿舎、食堂と台所、日本式共同浴場があるのを見てほっとした。

日本軍から初の衣料支給があり、それはゴム長とオーバーだった。頭も日本軍にならい丸刈りにされた。一日の休養後、精錬所の仕事が始まり私は溶鉱炉だった。コークスや鉱石を満載して天井の滑車で溶鉱炉まで運び、日本人労働者に渡す仕事はきつかったが炉が満杯の間は休息できた。収容所の見張りが精錬所まで護衛し、民間人の監督に引渡したが彼らはきちんとした人間が多かった。私の班は中年の担当者で、ある日には自分の休憩室に私たちを招いて小さな煎餅と飲み物をふるまってくれたが、今思えば酒だろう。8時間交代で9日ごとに1日の休みがあった。仕事は特にきつくなかったが米が中心の少量の食事がこたえて健康は不良だった。マラリアと赤痢にかわり、悪性の吹き出物と脚気に悩んだ。私たちには冬の寒さがこたえ、初めて雪を見る者も多かった。日本到着の頃は連合軍の空爆を示すものはほとんどなかったが、間もなく夜っぴて空襲が始まった。幸い目標は他にあってこの町にはただ一度、昼に一機が飛来して爆弾を投下し米蔵が吹き飛んだのみだった。仲間のひとりはかなり日本語が堪能で盗み聞きした情報を伝えてくれた。時には包み紙の英字新聞が手に入ることもあり、我々はドイツの降伏を知って終戦の近いことを確信した。開戦ごろに近衛首相がロシアへの平和特使となりその使命は果たされなかったと聞いて、半信半疑だったが戦後真実と分かった。6月ごろ西海岸の大牟田へ移されたがこのときは不安だった。大きな収容所で米、英、豪、蘭の1,000人あまりが収容され、ほとんどは炭鉱で働いていたが、我々は亜鉛の精錬所に割り当てられた。私は白い蒸留器に亜鉛をシャベルで入れる溶鉱炉作業だった。非常な高温のなかの重労働だったが蒸留器が満杯のあいだは休憩できた。大牟田到着後すぐに連合軍の空襲が頻繁になり夜はたいてい防空壕で過ごしたが、その結果毎日睡眠不足で仕事に行くのだった。7月末に大牟田は大空襲を受け、民家にも工場にも被害が出た。焼夷弾で収容所の小屋数棟が焼けたが捕虜にけが人はなかった。2日間は工場の損傷で仕事がなく、その後再開されたが炉が機能していないため片付け作業だった。工場への道すがら空襲による被害の大きさが私たちにもはっきり分かり、何百もの市民が焼け出されて戸外で暮らしていた。ついにいくつかの炉が修復され仕事が始まったが、或る朝9時ごろに飛来した一機がその煙をみたに違いない。1時間ほどすると爆弾と機銃掃射に見舞われた。私は隣接した小屋に逃げこんだが一緒にいた工場労働者は13か14歳にしか見えない少年だった。その後、終戦まで工場の再開はなかった。我々は片付け仕事を続け、時折は空襲警報が鳴ったものの、爆撃はもうなかった。

8月15日は私の休日で、台所で水っぽいスープに入れる野菜を用意していた。後にウィトラムとホーク内閣の大臣となったトム・ユーレンとオランダ人の3人だった。この2, 3ヶ月にくらべるととても静かでオランダ人は「戦争が終わったのかもしれない」と言った。昼過ぎに炭鉱組みがいつもよりずっと早く戻ってきて、町は大変な興奮状態だと話してくれた。夜勤はなし、夜じゅう消灯しなくてよい、と言われ、またこの収容所では初めての赤十字の箱が支給された。

何事かといぶかったが終戦とは信じ難かった。数日が経ち、看守たちは干渉しなくなり、だんだん信じはじめはしたものの、突然の戦闘行為終結の原因は分からなかった。勝利の前に日本侵攻を予想していたのである。米軍機が収容所に食糧、衣類、医薬品を落とすようになって終戦は明らかとなった。日本軍収容所長が我々を集め「天皇は平和が世界に戻るよう決断した」と告げた。その後1日、2日で日本人は収容所からいなくなり、捕虜たちは街に出るようになった。民間人とはトラブルもなく、子供たちはキャンデーやタバコを欲しがった。投下品と赤十字箱のおかげで我々はこれらの贅沢品を持つようになっていた。地元の映画館が夜は操業しており、言葉は皆目わからないながら私も映画を観た。英語で料金を表示していたにもかかわらず、私がブラリと無銭で入っても咎められず、若者たちはタバコをねだったが、これは終戦当時、貴重な通貨だった。

九州の南端に米軍が空軍基地を建設したとわかり、捕虜たちは収容所を出て基地を探しに行き始めた。ある夜、私も他の2人と食糧をつめて駅へ向かった。汽車は動いており我々は南への列車に乗った。混んだ車中には折々軍人もいたが捕虜であることは歴然としているのに我々は無視された。三日三晩ののち基地に到着し、列車が止まると米空軍兵士に挨拶された。我々は彼らのキャンプに連れていかれ、診察を受け、シャワーを浴び、ご馳走された。

多くの捕虜が到着、その数は予想を越えていたが彼らは迅速に対応して離日用の航空機を整えてくれた。日本から沖縄、台風に遭ったあとマニラへ飛び、そこでオーストラリア軍の復員局部隊と会って家族に手紙を書くことができた。マニラに短期滞在の後、英国機でシドニーへ向かい、1945年10月13日、クイーン・メリイ号で1942年2月シドニーを離れていらい4年8ヶ月ぶりに、私は家へ帰ったのである。

(伊吹抄訳)

亡きジャック・ブーンさん(右)と息子さんのジョンさん

左からジャック・ブーン、ニール・マックファーソン、ジャック・シモンズ、豪大使館付武官の各氏
 保土ヶ谷英連邦墓地で(2004年4月)