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学習会・講演会

大庭定男氏「私のインドネシア従軍体験とオランダとの関係」
ドキュメンタリーDVD「オランダと日本の古傷」鑑賞

手塚優紀子

日時:2010年5月30日
場所:大阪経済法科大学麻布台セミナーハウス

大庭定男氏講演「私のインドネシア従軍体験とオランダの関係」

1922年生まれ、まもなく88歳になられる大庭さんは、1944年陸軍の軍人としてジャワ島に赴任、この地で敗戦を迎え、47年に復員します。戦後は商社マンとしてヨーロッパに勤務するかたわら、オランダ・日本・インドネシアの関係について研究を深めました。現在日蘭学会会員、1999年に開かれた「日本のインドネシア占領展」に協力、2000年の日本での「占領展」開催にも尽力されました。様々な見解・認識の違いはあるにしても、事実の存在を認識することから議論が始まる、と考えられたそうです。これは、DVD第一部の奥平さんや第二部の明治神宮にいた若者へのもっとも貴重なエールでしょう。以下、私が興味を持ったエピソードを書きます。

1.インドネシアに赴任すると、ジャワ島は地方に至るまで道路が舗装されていた。本屋や図書館には当時の日本では読むことのできないマルクスの著書もあった。オランダが社会資本の整備のために資本を投下していることを知った。

2.20世紀に入ってオランダは住民に対して開明政策に転じ、教育の機会を与えた。インドネシアの知識人は、日本の占領への反発とオランダ文化へのノスタルジーを持っていた。敗戦直後、イギリス軍がインドネシアを占領、イギリス軍は日本兵をPOW(Prisoner of War=戦争捕虜)と見なさずJSP (Japanese Surrendered Personnel=降伏した日本軍人)と称して、軍の編成を維持して自治を命じた。イギリス軍から支給されたのはマラリアの治療薬だけ、すでにインドネシア独立戦争が始まっていて、イギリスは「暴動」の鎮圧などの治安維持を日本軍にやらせた。(狡猾!!)

3.イギリス軍はインドネシアの女性と家庭を持った日本人(多くは民間人)を家族ぐるみで優先的に帰国させた。しかし敗戦後の日本での生活は厳しく、多くの女性がインドネシアに戻ってきた。彼女たちとその子は、独立後のインドネシアには居場所がなく、オランダと混血の女性はほとんど子を連れてオランダに移住していた。この子供たちが今、父の所在を探しているが、確かな情報はほとんど持たない人が多く、探索は困難である。

4.イギリス軍は日本兵の本国への送還をおこたったまま1946年11月にオランダに業務を引き渡す。独立軍が、イギリス軍のイスラム系インド人、パキスタン人に働きかけたため彼らの脱走が相次いだため、イギリス軍は早く引き上げたかったらしい。

5.オランダ軍は「日本が占領した時代に日本軍がオランダ人に対して行った扱いと同じ基準で処遇する。」と言い、食糧は1日1600カロリー。いつも腹ぺこ。盗み食いが見つかると、作業班の班長が呼ばれ、オランダ士官の面前で犯人にビンタを張ると釈放(上のお偉いさんはともかく、現場の人間は状況を良くわかって配慮していたのでしょう。)

6.戦後、商社マンとしてオランダを訪ねるが、人々の視線は冷たかった。商談に入る前に「あなたは戦争中どこにいたか」と詰問されることもあった。一方、レストランではインドネシアからの留学生がアルバイトをしていて、日本人とわかると歓迎してくれた。かつてジャワで経理を教えた人がインドネシア軍の少佐となり、旧交を温めたが、彼は日本の占領政策、特に労務者の徴発と行方不明者の放置を厳しく批判した。

7.オランダ人には「日本の占領によって同胞が残酷に扱われ、かつオランダに従順だったインドネシア人が日本にそそのかされて反乱を起し、オランダから離脱した。」という恨みがある。オランダ人に自分たちの植民地支配に対する反省はあまり見られない。

8.馬渕少将は、敗戦処理が終わり帰還する際に、軍刀(祖父が天狗党の乱の時に使っていたもの)をオランダ軍司令官に進呈、ご子息の馬渕氏が所在を調べたら、デルフトの軍事博物館に少将自筆の由来書とともに名刀として保管されていた。どうせ日本に上陸する時米軍に没収されるのだから、騎士道の伝統のあるオランダに進呈しようと考えたのだろう。

「オランダと日本の古傷(Old Pain, in the Netherlands and Japan)」鑑賞

このDVDは「オランダ1945年8月15日記念財団」が2000年8月15日に製作したドキュメンタリーで、その後これを元に作られた番組がオランダ全土でテレビ放映された、この日出席された馬渕逸明さん(敗戦時にジャワの司令官だった馬渕逸雄少将の子息で、このドキュメンタリーの日本取材に協力)から伺いました。DVDの解説書には「アジアにおける戦争を体験したオランダ人と日本人が苦難の日々をどのように回想し、その思いがどのように彼らの世界観に影響しているか?日蘭の老若男女はお互いに相手をどう思っているか?——私たち製作者が自問自答した結果がこの映画となった」と書かれています。

第一部(57分)

内容は、主にインタビューです。まずインドネシアで抑留体験を持つHans Liesker氏と、このドキュメンタリーの製作者でもあるPeter Slor氏の証言の後、スマランの憲兵隊員だった青木正文氏、戦犯として父が処刑された山口のり子さん、インドネシア生まれで開戦までその地で暮らした小山よしゆき氏(今も自在にオランダ語を話し、戦中および戦後の戦犯裁判では通訳役を務めた方)、戦時の写真を見て涙を流して感想を述べる20代の奥平まゆみさん、それに、8月15日の靖国神社への参 拝者への取材などをまじえつつ、日本人へのインタビューが続きます。そして、再度オランダでの取材にもどり、少女時代に抑留所で悲惨な体験をした女性An Teekensさんの証言が続きます。彼女の、ルーブル美術館で鑑賞中、日本人観光客が大勢同じ部屋に入って来たのでいたたまれなくなって部屋を出た、という告白には、胸が痛みました。DVDの最後では、泰緬鉄道から生還したBas van der Hoef 氏が奥平さんの証言を聞いて、それでも日本は許せないと語るところで終わります。

第二部(59分)

新たなインタビューと、第一部のビデオを日本・オランダの関係者やその家族に見てもらっての感想で構成されています。まず、通訳の松下ゆみさん(昭和天皇が生前戦争責任について語らなかったことが、日本人として重い負担となった、という見解には共感しました)。学生のDorina Lammerts van Buerenさん(祖父母が収容所体験を持つ、日本人・ドイツ人と知ると一歩ひくと話す)、デルフト大学名誉教授のHerman Duparc氏(泰緬鉄道を経て日本の炭鉱で強制労働)と続きます。次に、ハーグの日本人大使館に公式謝罪と補償を求める月例デモの様子が入ります。そして日本での取材、シベリア抑留の体験者、奥野四郎氏(戦争を知る者にとって平和の重みは特別だと語り、インドネシアでは子どもまで収容所生活を強いられた事実に涙を流す。)戦争当時、鹿児島の小学生だった三人の方々(日本は神国だと本当に信じ、兵隊にあこがれていたことを淡々と話す。)敗戦時、ジャワ軍総司令官だった馬渕逸雄少将(1972年死去)のご遺族。次に明治神宮の参道で、若者が戦時中の日本とオランダの関わりや、捕虜・抑留問題についてまったく知らないし、自分とは関係がないと語ります。(一言彼を弁護させてください。一年間で約5000年の日本史を学ばなければならないのです。多くの高校で何とか第二次世界大戦まで行きたい、と努力しつつも日中戦争まで行けば御の字、大半は日清・日露戦争で挫折です。彼は決して無知ではなく、学校も決して怠惰ではないことは理解してください。第一部に出演した青木氏は、オランダの証言者が「ジャップ」という言葉を使うことに悲哀を訴えます。最後に、このドキュメンタリーの製作者で、両親と引き離されて抑留所に収容された体験を持つPeter Slor氏が、抑留中の資料を保存するトランクの蓋をしめるところでDVDは終わります。

大庭定男氏

DVDの解説書表紙。
 このトランクは戦争の記憶の象徴として、ドキュメンタリーの中でたびたび登場する。