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「おじいさん・おじさんの戦争〜事実を伝える・憎しみを伝えない」

滝沢謙三・カレン夫妻

日時:2007年10月20日
場所:大阪経済法科大学麻布台セミナーハウス

講演タイトルはかつてご夫妻で出版された「GIスプーン4杯分の米粒」(毎日新聞社刊)に基づいています。書名はカレンさんの祖父の米軍医が日本軍の捕虜となり、一日にスプーン4杯分の生米しか支給されず、飢餓地獄に耐えて生き抜いたことを象徴する捕虜当時の食糧事情の言葉に由来します。ご夫妻の結婚に至る道にはそれぞれの親戚や肉親に捕虜を持つということが機縁になっていることが挙げられます。ご夫妻の現職は謙三さんが白鴎大学教授、カレンさんが法政大学教授。講演は最初にカレンさん、続いて謙三さんの順に行われました。
 以下は、その要旨。

カレンさん

海軍の軍医だった祖父はフィリピンのマニラ湾にあるコレヒドール島で1942年6月、同島陥落に伴い捕虜になり、収容所に入れられた。日本軍の戦局が悪化した1944年12月、1619人の米軍捕虜の一員として、輸送船でマニラから日本に連行されることになった。最初に乗船したのが鴨緑丸だったが、出航後まもなく米軍機の襲撃を受け、同船は沈没。多数の捕虜が死亡した。海岸に泳ぎ着いた捕虜たちは収容先で数日後、やっとGIスプーン4杯分の生米を支給された。衣類の支給はほとんどなかった。

祖父たちは別の輸送船でリンガエン湾から再出航、米潜水艦に脅かされながら、台湾の高雄に入港したが、船内の衛生状態は劣悪で便所も寝具もなかった。停泊中、再び米軍機の爆撃を受け、200人を超える捕虜たちが死亡した。こうして輸送船を次から次へと乗り換え、4隻目の輸送船で門司港に入ったのが1945年1月。寒さの厳しい時期に上陸しても満足な着衣も支給されなかった。こうしてマニラを発つ時点で1619人いた捕虜のうち、生存者はわずか285人に減っていた。

生き残った祖父はその後、忠隈炭鉱内にあった福岡第22収容所に送られ、さらに中国・奉天収容所に移された。ここで出会ったのが大気(おおき)軍医だった。大気軍医は非常に協力的で、患者であれば、捕虜であろうが、日本人であろうが関係なかった。祖父は大気軍医に医師として、人間として、深い敬服の念を抱いた。

8月15日、収容所に戦争終結の知らせが入り、翌日、ソ連軍が入ってきて、祖父たちは解放された。祖父が収容所を後にし、帰国するため米国船に乗船し、米本土を目指したのは5年2カ月ぶりのことだった。

謙三さん

叔父がサイパンに渡ったのは1944年4月でした。叔父は20歳すぎの上等兵でした。米軍の総攻撃が始まると、日本軍の通信システムは壊滅的な打撃を受け、伝令が唯一の通信手段に。叔父は部隊長からある夜、直属中隊への伝令を命ぜられ、洞窟を出た直後に、左足と右大腿部の上に炸裂する砲弾の破片を受けた。伝令役が果たせぬまま、所属部隊からも離れてしまい、傷口が化膿し、移動は困難に。武器は手榴弾一個のみ。疲れ果て横になっていると、米兵に銃を突きつけられ捕虜となった。

叔父は捕虜になることは日本人として最低と考えていた。マラリア熱に朦朧となりながらも、「戦陣訓」の言葉が浮かんでは消えた。ところが、収容された野戦病院で、米軍の衛生兵がしたことは叔父の全身を丁寧にアルコールで拭き、負傷以来初めてとなる薬品を傷口に注いだことだった。叔父は驚き、自分の体に食い込んだ破片の摘出手術に医療スタッフが懸命に取り組む姿に頭が下がった。

叔父は回復すると、病院船で最初の収容所であるハワイへ。ハワイを経て米本土のサンフランシスコ湾へ、さらに内陸部にある収容所へと移動を重ねた。食事も寝具も申し分がなかったが、捕虜の身を恥じる気持ちは複雑だった。日本の降伏のニュースを聞いて、初めて「これで帰れるかもしれない」という希望の灯が胸にともった。再びカリフォルニアの収容所に戻り、さらにハワイの収容所を経て、2年半にわたる捕虜生活を終えて帰国したのは1947年1月だった。叔父の手には捕虜に支払われた労賃約3000円が握りしめられていた。米一升40円だった当時、大金を手にしての帰還だった。

地元紙は「生きた英霊帰る」という小さな見出しで報じたが、その後の叔父の人生には捕虜は不名誉で恥であるという戦前の教えが後遺症のように深く体に刻まれていた。

澤田猛 報告

 

滝沢夫妻