POW研究会トップ活動報告学習会・講演会>善通寺・板東フィールドワーク参加記
 
学習会・講演会

善通寺・板東フィールドワーク参加記

手塚優紀子

日時:2010年9月17日・18日
場所:香川県鳴門市・善通寺市・丸亀市

はじめに

旅の始まり9月17日は波乱含みでした。後に全国で大暴れする台風15号が南海上に停滞し、岡山発高知行きの特急電車は、阿波池田止まりに変更されていました。雨が降ったり止んだりする中を、最初の目的地善通寺をめざします。天候のせいで、乗り遅れたりする人が出るのが不安でしたが、みんな間に合ったようです。

善通寺1:第一次世界大戦時の丸亀俘虜収容所について

善通寺の駅前では、森広幸さんが香川近代史研究会の方とともに迎えてくれました。車に分乗し偕行社に向かいます。偕行社は、1903年に陸軍第11師団の将校クラブとして建てられました。いかにも明治の洋風建築という風情の、白い軽やかな建物です。森さんは、「ここの会議室を借りたかったのですが、自衛官採用の面接試験日とかちあってしまって残念でした。」と言って、隣接するカフェに案内してくれました。奥の大きなテーブルのまわりに座って、近代史研究会の田村さんから、第一次大戦中に丸亀市にあったドイツ人俘虜収容所について、講義を受けました。以下、その内容を箇条書きにします。

1.第一次大戦は、1917年7月28日に始まり、8月に日本は日英同盟に依拠してドイツに宣戦した。戦場は、中国山東省のドイツの租借地チンタオ(青島)で、そこにはドイツ兵が五千人ほど駐屯していた。ただし、その六割近くは、開戦時中国や日本で暮らしていた人々からなる志願兵であった。11月に青島のドイツ兵は降伏し、16日には324名の俘虜が多度津港に上陸した。将校は市内の旧日赤看護婦養成所に、一般兵士は本願寺塩屋別院に収容された。

2.町の人たちは俘虜に同情し暖かく接したが、寺での生活は厳しかった。大広間に、雑魚寝の状態で、顔の前に仲間の足がつきだされる狭さ。夏になると、丸亀名物のうちわの原料である竹を沈めた水槽、そこからの蚊の大発生。とうとう、戦前日本で教師をしていたジークフリート氏は、妻を通してまだ中立国であったアメリカに窮状を訴えた。開戦当初は、この戦争が 4年余りに及ぶなどと、どこの国も予想だにしていなかったのである。

3.なんとか、プライベートな空間を作ろうと工夫した人もいた。ヨハネス・バルト氏は、寺の床が高いことに着目し、床下に新聞を張りめぐらして自分用の部屋を作った。

4.俘虜生活がながびくにつれ、俘虜たちは自分の本来の生業に関わる物を造り始めた。また、1914年末には楽団が結成され、やがてエンゲル・オーケストラの名称で定期公演も行うようになった。体操用具やボールが支給され、器械体操やサッカーもさかんに行われた。

5.1916年になると、俘虜と町の人の間の交流も広がった。許可を得た俘虜が、町に買い物に出かけることも増えた。10月には音楽教師だった俘虜二人が丸亀高等女学校に招かれ、教員のために模範演奏を披露した。丸亀市長は、女学校でのエンゲル・オーケストラの演奏会を企画したが、収容所がわが許可しなかったので実現には至らなかった。一方、俘虜の製作品が、四国製品品評会で展示された。

6.1916年、丸亀収容所は松山・徳島の収容所とともに、板東収容所に統合されることになった。その直前、市内の寺で俘虜の作品展示会が開かれ、大勢の市民が訪れたので、一日だけの予定が二日に延長された。4月7日、丸亀収容所は閉鎖された。この間の俘虜の死者は1名であった。

偕行社カフェでの勉強会

質疑では面白い話しがでました。

まず、床下に「個室」を作ったバルト氏、彼の娘さんとP研の小宮さんが知りあいでした。バルト氏は第一次大戦後日本人の女性と結婚し鎌倉に住んでいました。そして、1940年シベリア鉄道で一時ドイツに帰国します。その直後に独ソが開戦、太平洋戦争も勃発します。バルト氏は、日本の家族の元に帰るため、ドイツ政府から日本政府への文書を運ぶ任務を引き受け、決死の覚悟で潜水艦に乗船します。彼は、シンガポールで下船し飛行機で日本にたどり着きますが、乗ってきた潜水艦は、その後アメリカ軍により撃沈されています。小宮さんは、バルト氏の娘さんから、以上のような父の波乱万丈の後半生の話しを聞いたそうです。

また、丸亀高女の学校誌には、「元祖なでしこジャパン」の写真が載っていました。大正10年(1921)に撮影されたもので、敵味方を区別するために一方のチームは白タスキをかけ、袴姿でサッカーに興じているのです。丸亀収容所では俘虜たちがサッカーを楽しんでいました。交流のあった高女に、俘虜たちからサッカーが伝わった可能性は十分あります。脱走を試みた俘虜も何人かいます。もっとも遠くまで逃げた人は鳴門海峡を泳いで渡って淡路島まで。「えっ、渦潮が巻いているのに」と私たちがびっくりすると、田村さんは「渦潮は一日二回だけですから」と笑いました。なるほど、凪ならば鳴門と淡路は指呼の間の近さです。

私には、第一次大戦中の収容所というと、板東収容所のことだけが頭にあって、それ以外の収容所のことや、板東収容所開設以前の二年余りのことなどは、すっかり失念していました。独仏の兵士たちは1914年の開戦の時、恋人や家族に「クリスマスには帰って来るよ。」と言って、出征したそうです。しかし、俘虜としての生活は長く過酷なものに変わりました。第一次大戦という史上初の総力戦が、「牧歌的」な俘虜待遇にとどめをさしたのだろう、と考えました。

善通寺2:第二次世界大戦時の善通寺収容所の跡地をめぐって

講義が終わって窓の外を見ると、偕行社の建物もかすんで見えるほどの豪雨が降っています。車に分乗し次に向かうのは、1899年竣工の陸軍第11師団司令部の建物、現在自衛隊の本部の一画にあり、二階が初代師団長乃木稀典の記念館として公開されています。(ただ見学には事前の手続きが必要。)車は豪雨の中を西へ、左がわには公共施設が並びますが、戦前は軍関係の建物が続いていたそうです。その道を数百メートル進んで左折、その右手が護国神社の杜で、その並びに第二次大戦時の善通寺俘虜収容所がありました。現在は善通寺西中学校となっていますが、本来なら下車して見るところ、豪雨のため、そのまま自衛隊本部にむかいます。

本部の門を入ると右手に戦車や戦闘機の実物が展示されており、ギョッとしました。記念館自体は、偕行社に比べると二階建で威風堂々ですが、玄関のアーチや窓はおしゃれな雰囲気の建物でした。玄関を入った所は吹き抜けになっており、正面の階段は途中で左右に分かれ、二階に上がった所はバルコニー状の小広間になっています。その中心に平なガラスケースが置かれ、中に第二次大戦中の善通寺俘虜収容所の資料が展示されていました。展示品は、小林皓志さんや森さんが丹念に発掘した資料と新聞記事で、公的な資料はありません。小林さんは、「このケースだけではなく、パネル板も展示できれば写真や図版ももっと展示できます。また、書類ケースを置いてくれると資料を利用しやすくなるのだけれども。」と話しておられました。そうした申し入れがP研からできないものでしょうか。もと俘虜の家族や子孫から市への問い合わせがあっても、職員には知識がないために、失望させてしまうことが多いそうです。森さんが市に申し出て孤軍奮闘しています。調査に協力し証言している方も少なくなる中、今のうちにできるだけ資料を集め精査しないと史実が永久に不明になってしまう、と焦りを感じます。なお、一階はふだん自衛隊音楽隊の練習場として使われているそうです。

乃木資料館に展示された善通寺俘虜収容所の資料

次の見学地、陸軍墓地跡に着いた時には、幸い雨は小止みになっていました。かつて墓標が林立していたであろう区画は整理され、茫々とした草むらになっていました。その一隅にポツンと墓石が建っています。故横川敏雄氏が、善通寺俘虜収容所で亡くなった俘虜を供養するために建てた墓です。墓石には、亡くなった人の名が日本語で刻まれています。横川氏はなぜこの墓を建てたのか、森さんが家族の方々に尋ねましたが、どなたも知りませんでした。墓は現在、市が管理しています。収容所の記憶を忘却の彼方に押し流そうとする大きな力に対し、市井の人が抵抗のくいを打っているような感動をおぼえました。駅への帰り道、赤レンガの倉庫の並ぶ道の前方に五重の塔が見えてきました。空海が父のために建てた四国七十五番札所善通寺のものです。倉庫に面した道路は観光スポットになっていますが、倉庫自体が自衛隊の施設であるため、今後の保存については不安があるようです。季節をかえて再び訪ねたいと思う町でした。貴重なお話しや資料をいただき、ありがとうございました。

善通寺俘虜収容所で死亡した10人の墓(陸軍墓地)

徳島:第一次世界大戦時の板東収容所の跡地をめぐって

徳島へは、阿波池田経由で向かいます。土讃線は少々遅れ気味でしたが阿波池田に着きました。ここから板東太郎(利根川)筑紫次郎(筑後川)とともに四国三郎と呼ばれる吉野川は、東方向に向きを変え、JR徳島線も吉野川に沿って走ります。川の両岸の平地には町が発達していますが、川は増水し中州は姿を消していました。しかし、徳島に着くと雨はやんで雲の切れ目から太陽が顔をのぞかせました。駅でモートンさんと合流、アーケード街の中心にある「徳島文理大まちかど教室」へ向かいます。この教室で受けたドイツ人デレク・ギュンターさんの講義は、翌日の見学にとても役立ちました。以下、その内容を箇条書きにします。

1.第一次大戦の俘虜は、当初は東京の浅草から福岡まで全国12ヶ所の収容所に収容された。大半の収容所がお寺の仮住まいで、一部公民館や学校の寮など、公的施設が利用された。戦争が長期化したため、日本政府は全国の6ヶ所に収容所を新設し、四国では既存の三つの収容所が板東収容所に統合された。

2.板東収容所の松江豊寿所長は、俘虜の要望に耳を傾け、その実現に努力した。たとえば、1000人余りが収容できるように八棟のバラック(収容棟)が建てられたが、私的空間がない(プライバシーがない)という声に答えて各人の居住スペースを板で区切った。所内には、酒保・印刷所・劇場が建てられ、松山収容所で俘虜たちが作ったボーリング場が移築された。隣接する土地を借りてサッカー・ホッケー用のグラウンドやテニスコートを造成した。所内では、俘虜が店を開くのも許可。店が軒を並べる一画は、俘虜によってタパタオと名付けられた。この名は、青島の商店街の名に由来するものであった。

3.多岐にわたる俘虜の活動
 松山・丸亀・徳島で結成されたオーケストラは、板東でも活動を続けた。合唱団も二つあった。演劇団もあったが、女性の役は小柄な男性が女装して演じた。印刷所では、ガリ版摺りの「バラッケ」という新聞・雑誌を発行された。多色摺りのガリ版を用い、ポスターや劇場用プログラム・絵葉書も製作された。また、パン職人は、本格的なパン焼きかまどを作り、ドイツ風のパンや菓子を焼いた。俘虜のユーハイムは、ここでドイツ菓子を焼き、第一次大戦後バームクーヘンを代表とする製菓会社を創設した。これが今のユーハイム社の起源である。また、牧場も営まれ、牛・豚が飼育され、バターやチーズが作られた。また、敷地内に「別荘」も作られた。こうした費用には、多くの場合留守家族からの仕送りがあてられた。

4.地域の人たちとの交流も多岐にわたり、音楽家のエンゲルは霊山寺(四国一番札所)に出向き、音楽や楽器の基礎を教えた。彼の教え子たちは、後に徳島オーケストラの結成の際中心メンバーとなった。また、俘虜たちは、大麻神社からの依頼を受けて神社の敷地内に二本の橋をかけた。落成式に際し、神社側は感謝のしるしにビールを用意した。だが時は真夏、式典の間にビールはぬるくなってしまい、捕虜たちは丁重に辞退したという話しです。俘虜たちが築いた橋はドイツ橋と呼ばれ、今も残っている。1918年には、俘虜たちが収容所内で作った作品の展示会が霊山寺で開かれた。四日間の予定だったが、見物客が多く好評のため日程が六日間に延長された。こうした交流の中で日本人の間にドイツの技術が伝えられ、1920年代の鳴門は、ドイツ風の食品や工作品を扱う店のならぶモダンな町になっていた。

5.映画「バルトの楽園(ガクエンと読む)」でクライマックスシーンとなったベートーベンの第九の演奏会は、1918年 6月 1日に行われた。日本での初演ではあるが、この演奏が不完全なものであったことも確認してほしい。楽器は揃っていなかったし、合唱団に女性はいない、楽譜は指揮者のハンセンが記憶をたよりにおこしたもので、その場でオーケストラや合唱の状況に応じ編曲されたものだった。厳密な意味では初演ではないとも言えるのである。

6.1920年に収容所は閉鎖された。戦争終結後二年も収容が続いたのはなぜだろうか。敗戦後の混乱の中、極東日本の俘虜帰還のための手続きに、ドイツ政府が着手できなかったためである。収容所が閉鎖される際、俘虜たちは、収容中に亡くなった仲間のために慰霊碑を建てた。時代がたち、1968年に元俘虜の会から鳴門市に、収容所跡地の現状についての問い合わせが届いた。鳴門市は、現状を写した八ミリフイルムを送った。そのフイルムには、加藤さんという老婦人が碑の周囲を清掃しているところが写っていた。元俘虜たちはその様子に感動し、これがきっかけとなって板東とドイツとの交流が復活した。

7.板東収容所での俘虜の待遇について
 こうした板東俘虜収容所での待遇は、当時国内にあった収容所すべてにあてはまるものではない。たとえば、福岡県の久留米収容所(所長は二・二六事件の黒幕真崎甚三郎)は、将校クラスの俘虜にも暴行が加えられるほどの過酷な収容所であった。板東収容所での待遇は、松江所長の人柄に負うところが多いとされている。映画にも取り上げられた俘虜の海水浴の話しは、はじめ上層部から不許可とされたが、松江所長が「夏の衛生を保つための水浴」と言い換えて、実施にこぎつけたものだった。松江所長が、維新の敗者会津の出身だったことが、こうした配慮を生んだとされている。

最後にギュンターさんは、「映画が有名となったので、展示などで第九の演奏の話しばかりが注目されます。ですが、俘虜と地元の方との交流をもっと幅広く、そして今日まで続いているのです。」と言われました。また、話しには出て来ませんでしたが、板東でサッカー活動の中心となったドイツ人は、帰国後故郷にアスレチック・クラブを作り、このACは有名となります。ここ出身の有名サッカー選手がギド・ブッフバルト氏で、彼は選手生活の晩年日本のJ1の浦和レッヅで、選手監督として活躍し、今は日本人女子選手をドイツリーグに紹介する仕事をしています。板東の地がこうした関係や、第一次大戦期の収容所についての資料なども収集し、研究公開する拠点となればよいとかんがえました。

板東収容所について講義するギュンターさん

18日朝、かつての遍路宿を思わせる古風な二階屋が点在する道を歩いて、「バルトの庭」に向かいます。ここは、当時を再現するため、映画「バルトの楽園」のセットを一部移築して作られた施設です。解説ボランティアの方も映画のエキストラだったらしく、俘虜役として映画に出演したモートンさんと握手していました。縮小してあるとはいえ、管理棟・衛兵詰所・収容棟などが再現されています。松江所長は、俘虜の個人空間を作るため仕切りを作ることを認めました。当時の日本人一般にはこうした考えは理解不能だったでしょう。また、そうすることは点呼するさい全体を見渡せず不便にもなるのです。松江所長がなぜ俘虜の思いを理解しえたのか、私は会津の経験と武士道だけでは説明できないと思います。彼の思想については、より深い考察が必要でしょう。喫茶室では映画がビデオで上映されていました。モートンさんの出番をご自身が捜してくださり、郵便物をもらうために群がる俘虜の後ろにモートンさんの顔が見えると、みんな歓声をあげました。

ここで焼いているパンは、撮影で使用したかまどを改良したもの、「パンを入れますよ」という案内にみんな見物にいきます。この調子で以後は集合時間無視が続出、モートンさんに「小学校以下の集団だ」と怒られました。

映画用に再現された「板東俘虜収容所」の正門

にわか雨が降り出したので、公園の方が小型バスを出してくれることになりました。収容所の建物は第二次大戦戦後まで残り、引揚者住宅として利用されたそうです。映画の中で敵役を演じた板東英二は、この住宅で少年時代を過ごしたそうです。現在敷地の一部に県営住宅などが建っていますが、収容棟の土台や浄水池などは史跡として保存されています。昔、俘虜たちが手作りのヨットを浮かべた池から浄水池へと登って行くと、加藤さんが守ってきた慰霊碑がありました。隣りには三倍ほどの大きさの碑がならんでいます。板東の碑が守られていたことを知った元俘虜の会が、日本で死んだ全ての同胞の名を刻んで新たに建てたものです。公園は緑に囲まれて美しく、バーベキューができる施設もあり、多くの人に訪れてほしい所です。

新旧2つの慰霊碑
左奥は板東で死亡した俘虜を、手前は全国で死亡したドイツ兵俘虜を追悼

果樹園に囲まれた小道を通り、広い道路に出て高速道の下をぬけるとドイツ館です。童話に出て来る貴族の館の様な真っ白な建物で、二階が展示室になっています。第九の演奏の場面は、等身大のエンゲル氏の人形が解説する十五分ほどの劇仕立てのもので、見事なものでした。また展示室の中央には、収容棟の大きな模型が据えられています。その扉や窓を通して、収容所の日常をジオラマで見ることができます。またガラスケースの中には、俘虜たちが作ったものなども展示され、多色摺りのポスターなどは大変美しいものでした。P研のために、非売品の研究紀要をいただきましたが、もっと学芸員を増やし資料収集や研究に力を注いだらと思いました。なお、隣りの物産館は収容棟を移築したもので、市の有形文化財に指定されていました。

鳴門市ドイツ館

私たちは、皆と別れ賀川豊彦記念館にむかいましたが、多くのメンバーは、モートンさんの案内で一番札所霊山寺にむかいました。見学の後モートンさんの案内で入った店には、モートンさんが英文で書いたお遍路さんについての解説書があり、みんな購入しサインをしてもらったそうです。この本は、輪袈裟や手甲脚絆などの英訳や、役の行者から始まる山岳信仰や巡礼のことを詳しく解説した本格的なものです。サイン入りのこの本は稀覯本になるでしょう。また昼食で入ったうどん屋の人が、固いうどんが苦手な人のために、やわらかく煮たものを出してくれたそうです。うどんは、やわらかくても腰が失われず、みんな感心したそうです。(小宮さん・西里さん談)

私たちが賀川記念館を出る特、受付の人が「バルトの庭」園で借りていた傘を預かってくれました。地元の人の好意に甘え、また、二日間解説を引き受けてくれた小林さん・モートンさん・ギュンターさんに助けられ、楽しい旅でした。もう一回訪れてみたくなる旅でした。