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学習会・講演会

2009年POW研究会例会
「千葉県中部域における連合軍機墜落事件」

日時:2009年10月3日〜4日
場所:千葉県長生郡一宮町・長南町・睦沢町・長柄町

千葉県内では、1944年12月から1945年8月にかけて、数多く(約40機)の連合軍機が墜落し、搭乗員が殺害・処刑される事件も発生した。今回の例会では、千葉県長生郡内で起こった3つの事件(エムリー事件、ホックレー事件、ボナス事件)についての現地見学会を行った。案内役は、POW研究会会員で睦沢町立歴史民俗資料館学芸員の久野一郎氏。

 

10月3日

・ホックレー事件現場見学(長南町・睦沢町・一宮町)

・ボナス事件現場見学(睦沢町)

・睦沢町歴史民俗資料館見学(睦沢町)

・ミーティング(一宮町の民宿にて)

10月4日

・エムリー事件現場見学(長柄町)

ホックレー事件(別名:一宮事件)

事件概要

1945年8月15日午前10時頃、長生郡西村(現・長南町)大字佐坪字永沼の田んぼに、イギリス空母インデファティーカブルより飛来したシーファイア戦闘機が、茂原航空隊の零戦との空中戦で被弾して墜落。同機パイロットのホックレー(Fred HOCKLEY)中尉は、同郡東村小生田にパラシュート降下して警防団らに捕えられ、東村国民学校(現・長南町立東小学校)に連行。玉音放送の後、リヤカーで土睦村(現・睦沢町)字岩井の妙勝寺に駐屯する第147師団426連隊本部に送られ、さらに夕方、一宮町に駐屯する426連隊の中隊本部に連行された。この間に、426連隊長の田村禎一大佐が147師団司令部にホックレーの処遇を問い合わせたところ、師団参謀の平野昇少佐が「連隊で処置せよ」との指示を与えたとされる。当時の軍隊では「処置」とは「処刑」と同じ意味で使われることが一般的で、田村大佐は部下の藤野政三大尉にホックレーの処刑を命じ、藤野大尉はその夜、ホックレーを一宮市街地4キロ南方の洞庭湖と呼ばれる沼付近の山中に連行し、拳銃で撃ち、刀でとどめを刺した。遺体はその場に埋められたが、同年10月中旬、田村大佐らにより掘り起こされ、火葬された後、一宮町の実本寺に遺骨が安置された。
 この事件は戦後、香港でのイギリス裁判で裁かれ、426連隊長の田村禎一大佐と147師団司令部参謀の平野昇少佐が絞首刑、処刑実行者の藤野政三大尉が懲役15年の判決を受けた。ホックレーの遺骨はその後、横浜の英連邦戦死者墓地に埋葬された。

現地見学

ホックレー機の墜落現場、第1連行場所(東村国民学校)、第2連行場所(426連隊本部跡)、第3連行場所(426連隊中隊本部)、殺害場所(洞庭湖付近)を見学。
 墜落地点は佐坪永沼の谷間の田んぼ。近隣住民がこの時の空中戦や墜落の模様、降下してくるパラシュートを目撃している。機体は斜面に激突して粉々に砕け、稲が真っ赤に焼けたという。
 ホックレーは一山越えた小生田の山中に着地したが、怪我はなく、最初に村人に出会った時にはおびえた様子もなく、携行食を差し出したりしたという。やがて出動した警防団や駐屯部隊に捕まり、ロープでぐるぐる巻きに目隠しされ、東村国民学校に連行された。
 東村国民学校とは現在の東小学校で、当時426連隊の教育隊が駐屯していた。ホックレーは裏の農具小屋を改造した集会所で尋問を受け、もうすぐ戦争が終わると言っていたという。敵兵が捕まったと聞いて、近隣の住民が大勢集まってきて大騒ぎだった。頭に鳶口でやられたらしい傷があったという証言もある。しばらくして玉音放送があった。
 午後、ホックレーはリヤカーで土睦村岩井の妙勝寺に駐屯する426連隊本部に移送され、将校の宿舎として接収されていた隣家の庭の木に縛られた。その姿を納屋のすき間から覗き見たというその家の婦人は、ホックレーが外人にしては小柄だったと語っている。妙勝寺は、今は無人寺になっている。
 夕方、ホックレーはさらに中隊本部が駐屯する一宮町の煉瓦商の屋敷に移送された。広い屋敷跡には今、倉庫が一棟残っているのみである。
 その夜、彼は山中に連れ出されて銃殺されるわけだが、その場面を目撃したという人物がいる。当時10歳だった煉瓦商の息子O氏で、彼は屋敷から連れ出されるホックレーの後を友だちと2人でこっそりついていった。1時間ほど歩くと、洞庭湖を背にした低い山に出た。その8合目付近で銃殺場面に遭遇したのだという。家に帰って父親に話すと、「絶対に誰にも言うな」と言われ、戦後ずっとこの記憶を封印してきたが、その光景と銃声がいつも頭にこびりついて離れなかった。リタイア後、彼はこのトラウマに向き合いたいと調査を始め、久野氏に協力を求めた。これらのことは、2001年8月9日〜15日に「朝日新聞」千葉版に連載された記事「消えない銃声」に詳しく記されている。
 洞庭湖は一宮の中心部から4キロほど離れており、人気のない寂しい場所である。人目を避け、秘密裏に行われた処刑だったことがわかる。殺害現場となった山は今、鬱蒼とした木々が繁り、踏み分ける道もなかった。
 終戦後、147師団や426連隊の関係者の間で様々な隠蔽工作が行われ、事件が発覚した後にはどろどろとした責任のなすりあいが繰り広げられたが、結果として前述のような刑が下された。
 筆者は、奇しくもO氏と久野氏が調査していたちょうど同じ頃に、全く別ルートでこの事件について調査し、イギリスのホックレーの甥にも会いに行ったが、彼はその前年、英紙「Daily Telegraph」でこの事件のことが報じられるまで、叔父の死の真相を全く知らなかった。生きて帰れたはずの叔父のあまりにむごい死に涙が止まらなかったと言う。この経緯は拙著『連合軍捕虜の墓碑銘』に詳述している。
 それにしても、無事にパラシュート降下したホックレーが、なぜ玉音放送の後に殺されなければならなかったのか、そして事件の本当の責任者は誰だったのか、今なお多くの謎が残っている。

ホックレーが乗っていたシーファイアのプラモデル(真行寺重昭氏製作)

ホックレー機墜落現場(長南町大字佐坪字永沼)

第2連行場所(睦沢町妙勝寺)

殺害現場(一宮町洞庭湖付近)

ボナス事件

事件概要

1945年8月15日午前10時頃、長生郡土睦村(現・睦沢町)沖の海上?に、イギリス空母インデファティーカブルから飛来したアベンジャー哨戒機が墜落。同機乗員のJohn F. BONASS中尉はパラシュートが開かず、同村下之郷付近に落下して死亡した。遺体は一時、上之郷のT字路付近に寝かされていたが、その後、月代台の下の農耕牛馬捨て場に埋葬された。終戦後、米軍が調査に来て遺体を回収していった。
 戦後、GHQは村人による殺害を疑い、関係者を厳しく取り調べたが、事件性なしとして終結した。

現地見学

ボナス中尉の落下現場と、仮埋葬地(農耕牛馬捨て場)を見学。
 現場は当時も今も広い田んぼで、落下の衝撃で穴があき、稲が数㍍も吹き飛んだという。
 久野氏は近隣住民から、ボナスの遺体が上之郷のT字路に寝かされていた時の様子、リヤカーでどこかに運ばれていった様子などを聞き取り、仮埋葬地が月代台の下の農耕牛馬捨て場であったことを突きとめた。住民の証言によれば、そこは牛馬の骨が露出している気味の悪い場所で、ボナス埋葬後、土まんじゅうができていたが、初秋の頃、村人たちが遺体を改葬して墓を作り、周囲の竹や雑草を刈り取って竹垣を巡らせ、木の墓標に「無名戦士之墓」と書いて花を供えた。その後、米軍が遺体を回収に来て、ジープが曳くトレーラーで運ばれていったという。
 今、この場所には4本の桜の木が植えられ、春になると美しい花を咲かせているという。ボナスは今、横浜の英連邦戦死者墓地に眠っている。

ボナスの仮埋葬地(睦沢町下之郷)

エムリー事件(別名:茂原事件・日吉村事件・榎本事件)

事件概要

1945年5月26日午前1時30分頃、長生郡日吉村(現・長柄町)字榎本長栄寺付近の田んぼにB29が墜落。搭乗員11人のうち5人は付近の各所にパラシュート降下して捕虜となり、茂原憲兵隊を経て東京憲兵隊に送られた。4人は墜落機体の中で死亡、残り2人は瀕死の重傷を負って、第147師団426連隊第1大隊第1挺身中隊が駐屯する長栄寺に運ばれ、うち1人はまもなく死亡したが、虫の息で苦しんでいたDarwin T. EMRY中尉は、中隊長満淵正明大尉の「楽にしてやれ」という命令で、100人以上の村人が見守る中、部下の境野鷹義曹長の手により斬首され、その遺体は、菊池重太郎中尉の指揮の下、初年兵の刺突演習の材料となった。遺体は、他の5遺体ととともに長栄寺裏の墓地に埋葬された。捕虜となった5人は、終戦後米国に帰還したが、うち1人は航海中の病院船内で死亡した。
 戦後のBC級横浜裁判で、満淵大尉は「処刑は、安楽死させるために武士の情けで介錯したもの」と主張し、「武士道裁判」と呼ばれたが、残虐行為の首謀者として絞首刑に処せられた。実行者の境野曹長は逃亡を続けていたが、後に出頭して終身刑、菊池中尉は懲役25年、刺突演習に関わった下級兵士6人は懲役1〜2年となった。

現地見学

B29の墜落現場は、今も広々とした田んぼが続いているが、全長30㍍もの巨大な機体が墜落したときの衝撃と近隣住民の驚きはいかばかりであったろうと想像する。機体が片づけられた後も、田んぼには長く油が浮いていたという。
 墜落現場から長栄寺までは数百㍍。小さな寺である。この境内に機体内で死亡した4人の遺体と、エムリー中尉ら重傷の2人が運ばれ、竹藪の前に寝かされたが、1人はまもなく死亡した。夜明けとともに、近隣から大勢の住民が見物に集まってきた。住職の大橋慈恒氏は所用で不在だったが、夫人がこの時の様子を見ている。虫の息のエムリーを「楽にしてやれ」と満淵大尉が境野曹長に命じた。自分で体を起こすことのできないエムリーの上半身を綱で竹藪の竹にくくりつけて支え、境野曹長が首をはねると、住民から歓声がわき起こった。遺体は刺突演習の材料にされた後、裏の墓地に他の5遺体とともに埋められた。寺に駐屯していた部隊は、まもなく九十九里の方へ移動していった。この事件は上部に報告されなかったが、戦後米軍が遺体を回収に来て、斬首の事実が発覚した。境野曹長は戦犯を解除になってから2度ほど寺を訪れ、「お世話になりました」と礼を述べていたが、1982年に亡くなり、妻が位牌を納めに来たという。
 大橋住職はこの事件に心を痛め、1996年にエムリー中尉と満淵大尉を弔う鎮魂碑(日本文・英文)を建立し、毎年法要を営んだ。碑にはこう刻まれている——「大東亜戦争終戦の年、昭和20年5月25日、B29が日吉村榎本地区に墜落。搭乗員11名の内エムリー少尉(?)が日本駐屯兵のなかの境野鷹義曹長により斬首され、その後満淵中隊長が全責任を負い巣鴨にて絞首刑となり、すでに50年。ダーウィンTエムリー少尉(?)と満淵中隊長の鎮魂と世界平和を祈念し、茲に碑を建立す。平成8年5月25日 天台宗福壽山長栄寺第三十八世 権大僧正 大橋慈恒」。大橋住職は「釈尊は『人間はみな平等で尊い』と説かれた。釈尊の御心を心として、世界平和を実現すべきなのです」と語っていたという。大橋住職は何年か前に亡くなり、寺は今無人になっているが、鎮魂碑の前には美しい花が手向けられていた。

エムリーが乗っていたB-29のプラモデル(真行寺重昭氏製作)

B-29の墜落現場(長柄町榎本)

エムリー処刑現場となった長栄寺の境内 右側に鎮魂碑

鎮魂碑

ミーティング

・連合軍機墜落事件解説&現場見学の感想 …… 久野一郎(会員)&会員

・ホックレー事件のその後〜関係者の証言をめぐって …… 笹本妙子(会員)

・日本軍における連合軍機搭乗員の扱いとBC級戦犯裁判 …… 福林徹(会員)

・横浜大空襲とB29搭乗員 …… 小野静枝(横浜の空襲と戦災を記録する会)&手塚尚(会員)

小野さんは1945年5月29日の横浜大空襲の体験者で、その体験を語り継いでいる。この時の空襲で撃墜され、君津市にパラシュート降下したB29の搭乗員ブルース・A・ヤングクラス氏が、1996年夏に来日した時、小野さんは作家の早乙女勝元氏、横浜市立大学名誉教授の今井清氏とともに、ヤングクラス氏と座談会を行った。小野さんがこの空襲の被害者であることを話すと、ヤングクラス氏は突然嗚咽して言葉にならず、傍らの夫人が小野さんの手を握りしめて「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝ったという。その後ヤングクラス氏は、久野氏の誘いで長柄町の長栄寺を訪れ、この碑に対面した。彼は大橋住職の志に感謝しつつ、エムリーの位牌を握りしめて涙したという。

・本土決戦計画と九十九里防衛 …… 幸治昌秀(戦史研究家 風の資料館「航風館」主宰 睦沢町在住)

首都東京に近く、長い海岸線がのびる九十九里は、連合軍本土上陸の想定地とされていたため(連合軍コロネット作戦)、日本軍は厳重な防衛態勢を敷き、各地に陣地が構築された。九十九里を防衛したのは第12方面軍第52軍で、ホックレー事件やエムリー事件は、この中の第147師団第426連隊の配下で起こった。147師団は北海道で編成された師団で、「護北師団」とも呼ばれ、師団長は石川浩三郎中将、司令部は市原郡鶴舞町(現・市原市)に置かれていた。

・英軍艦載機シーファイア&米爆撃機B29のプラモデル …… 真行寺重昭(会社員 山武市在住)

真行寺氏は趣味で航空機のプラモデルを製作しているが、戦争と平和の問題にも関心を持ち、今回の例会のために、ホックレーが乗っていたシーファイア、エムリーが乗っていたB29のプラモデルを披露してくれた。非常に精巧な作りで、各機の大きさや質感を実感でき、事件現場を見学する際にとても役立った。

笹本妙子 報告