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本土空襲の墜落米軍機と捕虜飛行士

横浜BC級戦犯裁判で裁かれた搭乗員処刑事件

(注)(  )内は、「GHQ法務局調査課報告書」(INVESTIGATION DIVISION REPORT, LEGAL SECTION, GHQ/SCAP)の番号、及び「アメリカ陸軍第8軍法務官による横浜BC級戦犯裁判の再審 1946−1949」(REVIEWS OF THE YOKOHAMA CLASS B AND CLASS C WAR CRIMES TRIALS BY THE U.S. EIGHTH ARMY JUDGE ADVOCATE 1946-1949)に示された事件番号を示す。

(注)以下に列挙した各事件のうち、千葉県一宮町事件、父島事件、台湾軍軍律裁判事件は、横浜裁判で裁かれたものではないが、日本国内で起こった事件、または関連深い事件なので、一緒に記載しておく。

≪千葉県日吉村事件≫

(GHQ報告書3号、350号、624号、871号  再審記録25号、270号)
 裁判の期間:1946年4月5日〜20日(境野鷹義は1948年1月7日〜21日)

1945年5月25〜26日の東京大空襲時の深夜、1機の29が千葉県長生郡日吉村(現・長柄町)に墜落し、搭乗員11人のうち4人は墜落死したが、5人は捕虜になり、残り2人は瀕死の重傷を負っていた。
 夜明けとともに、捕虜5人は茂原憲兵隊員によって連行されたが、重傷の2人は日吉村の長栄寺に駐屯していた東部第426部隊第1大隊第1挺身中隊(隊長は満淵正明大尉)に預けられた。

中隊では手当を施す術もなく、2人の米兵は放置され、1人は間もなく死亡するに至り、もう1人のDarwin T.EMRY少尉も苦しみ続けていた。中隊長の満淵正明大尉は、命が助かる見込みはないとして処刑を決意し、集まって来た100人以上の村民が見守る中で衛生兵の境野鷹義曹長に命じて斬首させた。その後、菊地重太郎少尉の指示によって、EMRY少尉の死体は初年兵の刺突演習の材料とされた。

戦犯裁判で中隊長の満淵正明大尉は、「処刑は、安楽死のために武士の情けで介錯したもの」と主張し、「武士道裁判」と呼ばれた。

判決の結果は、満淵正明大尉は死刑、処刑実行者の境野鷹義曹長は無期懲役(戦後逃亡を続けていたため、分離裁判)、刺突演習を指示した菊地重太郎少尉は懲役25年、刺突演習に加わった下級兵士6人は懲役1〜2年となった。

  

≪千葉県佐原町事件≫

(GHQ報告書395号  再審記録276号)
 裁判の期間:1948年4月12日〜5月13日

1945年6月23日、千葉県香取郡佐原町(現・佐原市)近郊の久賀村(現・多古町)の山中にP51が墜落し、操縦士のJohn V.SCANLAN Jr.中尉がかなりの傷を負って佐原国民学校に置かれていた第152師団司令部へ連行された。

彼は傷の手当を施されることなく、やがて、数人の兵士たちによって学校の前庭に引き出され、群衆の前に引き出されて殴打を受けた。その後、詰めかけた群衆の数は数千人にもふくれあがったので、彼は改めて校庭へ移され、そこでさらに群衆から殴打暴行を受けた。その間、衛生兵が何度かカンフル注射を繰り返したが、数時間後に死亡するに至った。

戦犯裁判の結果は、第152師団参謀長の霜田千代士大佐が懲役40年、同参謀の新郷良夫少佐が懲役5年、酒井興三中尉が懲役5年、高橋一中尉が懲役5年、本宮宇之助中尉が懲役5年などの他、暴行に加わった佐原町民4人も懲役1年となった。

第152師団長の能崎清次中将、同高級副官の笠井平馬少佐、佐原町民7人は、直接の関与はないと認められて無罪となった。

  

≪千葉県紙敷村事件≫

(GHQ報告書1834号  再審記録296号)
 裁判の期間:1948年3月11日〜30日

1945年4月15〜16日の川崎空襲時、1機の29が千葉県市原郡白鳥村(現・市原市)に墜落し、搭乗員11人のうち2人は墜落死したが、9人はパラシュート降下して捕虜になった。

このうちMarvin G.GREENSPAN伍長は夷隅郡紙敷村(現・大多喜町)に降下して、16日昼過ぎに警防団員に捕まり、手を縛られて湯倉付近まで連行され、西畑小学校に駐屯していた陸軍203部隊に引き渡された。この時、兵士と市民がGREENSPANに暴行を加えたので、彼は縛られていた両手を解き放ち、100メートルほどの距離を逃亡した。兵士たちが追跡し、田村一平少尉の命令で奥光政上等兵と南出多七上等兵が彼を斬殺した。

戦犯裁判の結果は、田村一平少尉は懲役12年、奥光政上等兵と南出多七上等兵は無罪となった。

  

≪千葉県一宮町事件≫

(GHQ報告書155号、254号、624号)
1945年8月15日午前、千葉県長生郡西村(現・長南町)にイギリス海軍の艦載機が撃墜され、Fred HOCKLAY少尉が捕虜になった。

彼は一宮町の一宮国民学校に置かれていた第147師団426連隊本部へ送られた。この前後、日本の敗戦を告げる「玉音放送」があり、426連隊長の田村禎一大佐は、師団司令部にHOCKLAY少尉の処遇を問い合わせたところ、147師団参謀の平野昇少佐は、「連隊で処置せよ」という意味の指示を与えたとされる。当時の軍隊では「処置」という言葉は「処刑」の意味で使うことが一般的であり、田村禎一大佐は、部下の藤野政三大尉にHOCKLAY少尉の処刑を命じた。藤野政三大尉は夕方、HOCKLAY少尉を山中に連行し、殺害した。

この事件は横浜裁判でなく、香港のイギリス裁判で裁かれ、426連隊長の田村禎一大佐と147師団参謀の平野昇少佐が絞首刑、処刑実行者の藤野政三大尉が懲役15年の判決を受けた。

    

≪東京立川憲兵隊事件≫

(GHQ報告書163号  再審記録217号)
1945年8月8日午後、東京の中島飛行機武蔵製作所を空襲した1機のB29が、北多摩郡谷保村(現・国立市)に墜落し、搭乗員12人のうち10人は墜落死、2人が捕虜になった。

彼らは立川憲兵分隊へ連行され、このうち1人は翌日の夕刻に東京憲兵隊司令部へ送られたが、もう1人のSerafine MORONE軍曹は、翌日の午後、立川憲兵分隊長の矢島七三郎少佐の指示で、近くの錦国民学校(現・立川市立第三小学校)の校庭に連れていかれ、集まった800人の市民から2時間にわたって竹の棒で殴打され、重態に陥った。空襲警報で市民が立ち去った後、彼は憲兵隊員によって近くの正楽院墓地へ連行され、首切り役を買って出た立川陸軍航空廠の将校によって斬首され、その場に埋められた。

矢島七三郎少佐らは、敗戦後すぐ遺体を掘り返して焼却し、病院の医師に「墜落死」との死亡証明書を書かせるなど、証拠隠滅をはかったが、匿名の投書などにより、事件は米軍の知るところとなった。

戦犯裁判の結果は、立川憲兵分隊長の矢島七三郎少佐は無期懲役、補佐役の関昇憲兵准尉は懲役20年となったが、処刑実行者の立川陸軍航空廠の将校の身元は判明しなかった。

    

≪東部軍一戸中佐事件≫

(GHQ報告書773号、1293号  再審記録265号)
裁判の期間:1947年12月22日〜1948年1月16日

1945年3月10日の東京大空襲時、1機のB29が茨城県筑波郡板橋村(現・つくばみらい市伊奈町)に墜落し、搭乗員11人のうち8人は墜落死、3人が捕虜になった。このうち2人は無傷であったが、もう一人のLeland P.FISHBACK少尉は重体であった。

彼はトラックで東京憲兵隊司令部に運ばれたが、空襲下の混乱もあって、どの病院からも引き取りを拒否された。その間、東部軍から園部六郎軍医中尉が診察に来たが、助かる見込みもないとして手当をせずに帰った。結局、憲兵隊が身柄を引き取ることになったが、処置方法に困り、一戸公哉中佐の指示で、翌々日に東京憲兵隊の本川貞中尉と何人かの兵士が付き添って、憲兵隊司令部の近くの東京外国語学校(現・東京外国語大学)の構内へ連行し、防空壕の中で斬首し、ゴミと砂礫の中に埋めた。

戦犯裁判の結果は、一戸公哉中佐は死刑(再審で懲役25年)、捕虜を斬首した本川貞憲兵中尉は死刑、斬首と埋葬に協力した桑原正雄憲兵軍曹は無期懲役、FISHBACKの治療を拒否した園部六郎軍医中尉は懲役2年、現場へ付き添った東部軍兵士3人は無罪となった。

    

≪東京上野憲兵隊事件≫

(GHQ報告書1139号  再審記録306号)

1945年5月25〜26日の東京大空襲時、1機のB29が足立区入谷町に墜落。搭乗員11人のうち2人は墜落死、8人が捕虜になったが、残る1人Dwight M.KNAPP少尉は逃亡し、荒川放水路の支流付近で捜索中の警防団員にピストルを発射し、2人を殺害(1人は後日死亡)した。

その2日後、彼は西新井駅の貨車の中に隠れているところを発見され、警官に捕らえられて東京上野憲兵分隊に引き渡されたが、分隊長の堀江アキラ少佐は、東京憲兵隊長の大谷敬二郎大佐から「殺人を犯した米兵を捕虜として扱う必要なし」との指示を受けたために、部下の野口悦二曹長に命じて千住新橋付近の河原で米兵を処刑させた。

戦犯裁判の結果は、堀江少佐は戦後自決。野口悦二憲兵曹長は懲役12年、東京憲兵隊長の大谷敬二郎大佐は懲役10年となった。

    

≪東京陸軍刑務所飛行士焼死事件≫

(GHQ報告書255号、351号  再審記録78号)

裁判の期間:1948年3月24日〜7月8日

1945年5月25〜26日の東京大空襲時、渋谷の東京陸軍刑務所が炎上、収容されていた日本人の囚人約400人は無事脱出したが、米捕虜飛行士62人は救出されずに焼死した。そのうえ、この時逃れ出ようとした何人かの米兵は日本人の看守により斬殺されたという。ただし、『戦犯裁判の実相』では、看守は留置場の扉を開き、飛行士のうち23人を外へ出したが、塀に阻まれて逃げ場を失い窒息焼死したものであり、不可抗力であったとする。

戦犯裁判の結果は、東京陸軍刑務所長の田代敏雄大尉が死刑(再審で懲役40年)、看守長の越川正男少尉が死刑(再審で懲役30年)、米兵を斬殺したとされる看守の神戸初明軍曹が死刑(再審で懲役10年)、看守の神本啓二軍曹が死刑(再審で懲役10年)、看守の大久保又一曹長が死刑(再審で懲役10年)となった。

    

≪東部憲兵隊事件≫

(GHQ報告書110号  再審記録294号?、295号、310号、369号)

(A)捕虜飛行士の虐待事件

裁判の期間:1948年5月24日〜10月13日

東部憲兵隊(東京憲兵隊)司令部(東京都千代田区九段)に収容された多くの捕虜飛行士に対して、適切な居住設備、衣服・食事・医療処置などを与えず、疾病その他の苦痛を与えたこと、病気や負傷に対して十分な手当を加えず、17人の捕虜飛行士を死に至らしめたこと、暴行・虐待を加えたことなどにより、東京憲兵隊関係者が責任を問われた。

戦犯裁判の結果は、藤野鸞丈中佐が懲役5年、杉原栄一憲兵少佐が懲役5年、和知信重少尉が懲役8年、根本常少尉が懲役3.5年、川野正二軍医少将は無罪。東京憲兵隊長の大谷敬二郎大佐は、捕虜の待遇不良のため、捕虜の疾患負傷等を惹起、死亡者を出したとして、上野憲兵隊事件とあわせて懲役10年となった。

(B)捕虜飛行士毒殺事件

1945年3月〜6月ごろにかけて、捕獲飛行士が憲兵隊へ連行されて来た時、重体であった者に対して外山敏男大尉の指示で、東部軍の平野健二軍医中尉、憲兵司令部付の森末軍医少佐、東部軍司令部付の長谷部見習軍医士官らが毒薬を注射、合計9人を毒殺したとされる。

森末軍医少佐と長谷部見習士官は戦後自決。戦犯裁判において被告側は「助かる見込みのない者に対する安楽死」と主張したが、結局、外山敏男大尉と平野健二軍医中尉が無期懲役となった。

    

≪東海軍事件≫

(GHQ報告書16号、73号、209号、261〜267号、1502号  再審記録251号、289号)

東海軍(第13方面軍)では、1945年4月7日に名古屋市近郊で捕獲したB29搭乗員3人は東京に送り、4月24日に静岡県沖で捕獲したB29搭乗員3人は名古屋捕虜収容所鳴海分所へ送った。これらのB29搭乗員は市街地無差別爆撃でなく、軍需工場を爆撃したものであったため、捕虜に準じた扱いを受け、終戦後本国へ帰還することができた。

しかし、それ以後に捕まった38人のB29飛行士は、市街地無差別爆撃との理由で処刑されるに至った。

(A)軍律裁判による11人の処刑

裁判の期間:1948年1月22日〜3月4日

1945年5月14日の名古屋空襲時、名古屋市西区児玉三丁目と伊勢湾に撃墜された2機のB29の搭乗員11人が捕虜になり、東海憲兵隊を経て東海軍司令部(名古屋城内)へ送られた。

彼らは7月11日に東海軍の軍律会議にかけられ、2時間ほどの審理の後、無差別爆撃との理由で全員が死刑判決を宣告され、翌日、東春日井郡小幡ケ原射撃場で斬首により処刑された。

戦犯裁判の結果は、軍律会議の検察官役を務めた伊藤信男法務少佐が死刑(再審で無期懲役)、審判官役を務めた松尾快治少佐が懲役20年、陪席審判官役の山東広吉法務中尉が懲役20年、同じく片浦利厚中尉が懲役15年となった。

(B)軍律裁判なしの27人の処刑

上記以後に捕まった27人の搭乗員は、軍律裁判も省略し、2回にわたって斬首により処刑された。

6月28日   瀬戸市赤津町(?)宮地の山中で11人を斬首。

7月14日   東海軍第2兵舎裏で16人を斬首。この処刑は、軍司令部に勤務する軍人・軍属100人ほどが遠巻きに見守る中で行われ、刺突演習という残酷な方法がとられたとの証言もある。

これら38人の飛行士の遺体は現場に埋葬されたが、敗戦後東海軍は証拠隠滅をはかり、遺体を再発掘して火葬にした。

戦犯裁判において、東海軍司令官の岡田資中将は自己責任を認め、部下をかばうとともに、米軍に対しては「無差別爆撃こそ国際法違反であり搭乗員の処刑は正当。軍による搭乗員の虐待はなく、むしろ激高した民衆から危害を加えられるのを防いだ。斬首刑は、日本古来の武士道にもとづく処刑方法であり、野蛮とは言えない」と主張して「法戦」を挑んだ。

判決の結果は、死刑執行は岡田資中将のみ。高級参謀の大西一大佐が死刑(再審で無期懲役)、米村正熊大佐が懲役25年、足立誠一中佐が懲役17年、保田直文少佐が懲役15年、処刑実行者の山田仂雄中尉が懲役20年、成田喜久基中尉が懲役30年、菅井康治少尉、田辺光夫見習士官、谷田具潔見習士官、桑田春雄曹長、川上末高軍曹、鶴田義亮軍曹、信田英司軍曹、山本英三郎軍曹、近藤清元軍曹、藤田隆義軍曹、古山又一軍曹、土山敏之伍長、林重朝上等兵が懲役10年となった。

    

≪中部軍・中部憲兵隊事件≫

中部軍管区では、1945年3月から敗戦までに57人のアメリカ飛行士が捕獲され、このうち55人が処刑、あるいはケガや病気に対する医療処置の欠如のため死亡し、2人だけが情報収集のため東京へ送られ、戦後本国へ帰還した。

(A)軍律裁判によるネルソンとオーガナスの処刑

(GHQ報告書12号  再審記録123号)

裁判の期間:1947年7月18日〜8月28日

1945年3月17日の神戸空襲時、1機のB29が生田区再度山に墜落、搭乗員11人のうち9人は墜落死。Robert W.NELSON少尉とAlgy S.AUGANUS軍曹の2人が捕虜になった。

彼らは中部憲兵隊司令部(大阪城前)へ送られて取り調べを受けた後、5月に石切の大阪陸軍刑務所に身柄を移された。この間に中部軍による法的処置の検討が加えられ、7月18日午前に中部軍司令部(大阪城内)で軍律裁判が行われた。

裁判官役は中部軍情報参謀の山中徳夫少佐と法務部の小野武一大尉、検察官役は法務部の荻矢頼雄中尉、通訳は森隆夫曹長で、審理は1時間ほどで終わり、山中少佐は、2人のアメリカ飛行士が無差別爆撃で市民を殺傷したとして死刑を宣告した。ネルソンは、「爆撃が日本の法律や国際法に違反することは知らなかった。我々は軍の命令に従っただけで、それが死刑に値するというなら、あらゆる国の兵士は全部死刑になるだろう」と抗議したというが、もちろん取り合われなかった。

午後、2人はトラックで大阪府泉北郡の横山射撃場(現・和泉市福瀬町)へ連行され、事前に掘られた穴の前に座らされ斬首された。2人は穴の中にころがり落ちたが、オーガナスは死にきれず、うめき声をあげて苦しんでいたので、1人の日本兵がピストルでとどめをさした。

敗戦後、隠蔽工作が行われ、2人の遺体は掘り返されて焼却されたうえ、死因として、大阪城が爆撃された時に爆死したという話が考え出された。この案は間もなく破綻したが、その後も、処刑が斬首でなく銃殺であったと虚偽の報告がなされたが、これも後に真相が判明した。

戦犯裁判の結果は、8人が起訴され、中部軍司令官の内山英太郎中将は懲役30年、中部軍参謀長の国武三千雄中将は懲役3年、中部軍法務部長の太田原清美少将は死刑(再審で無期懲役)、中部軍情報参謀の山中徳夫少佐は懲役25年、中部軍法務部の小野武一大尉は懲役30年、中部軍法務部の荻矢頼雄大尉は懲役3年、松森英雄中尉は懲役10年、大阪陸軍刑務所長の中道貫治大尉は懲役3年となった。

(B)53人の飛行士の虐待・殺害事件

(GHQ報告書136号、150号、1503号  再審記録328号)

裁判の期間:1948年8月2日〜1949年1月3日

中部軍管区では、上記のネルソンとオーガナスが捕まって以後の捕虜飛行士の取り扱いは、主として中部憲兵隊(大阪憲兵隊)にまかされていた。その間に、留置中に傷病死する者や、重傷を負っていて毒殺された者があり、また、1945年6月頃に出された憲兵司令官大城戸三治中将からの「秘密の私信」により、軍律裁判をも省略した処刑が行われた。

6月〜7月   6人を3回にわたって中部憲兵隊司令部で毒殺。毒殺の理由は、伝染病や墜落時の負傷で重態の者を、助かる見込みなしとして処分。

7月5日     大阪府信太山演習場で5人を射殺

7月20日   大阪府信太山演習場で15人を射殺

8月5日    大阪市の城南射撃場で14人を射殺

8月15日   「玉音放送」の後に証拠隠滅の目的で、大阪市の真田山陸軍墓地で5人を処刑。

5月〜8月   8人は中部憲兵隊に留置中、医療処置の欠如と虐待によって死亡。

戦犯裁判の被告の数は29人で、16人が有罪、13人が無罪となった。

憲兵司令官大城戸三治中将は、「秘密の私信」で事実上の処刑命令を出した責任を問われて無期懲役、それを受けて処刑を決定した中部憲兵隊長長友次男中将は無期懲役、それを容認した中部軍司令官の内山英太郎中将は懲役40年、中部軍参謀長の国武三千雄中将は無期懲役、捕虜取り扱いの中心にいた中部憲兵隊藤岡英雄中佐と志内猪虎磨少佐は無期懲役。中部憲兵隊員の安城浩中佐、浜本次郎准尉、浜田留吉曹長、森隆夫曹長、和田安夫准尉、中部軍参謀大庭小次郎大佐、中部軍民間人通訳中野正元、中部軍情報参謀山中徳夫少佐は懲役2〜15年。憲兵司令部本部長石田乙五郎中将、憲兵司令部外事部長山村義雄大佐は懲役1年であった。ただし、再審において石田乙五郎、山村義雄両名の懲役1年は取り消されて無罪となった。

なお、大城戸、石田、内山、国武、長友、山村、大庭、安城、藤岡、山中、和田については、捕虜飛行士殺害について敗戦後隠蔽工作を行ったことも罪とされている。隠蔽工作というのは、ネルソンとオーガナスについては、上述の通りであり、その他の飛行士ついては、他所へ移送中に空襲で爆死し、14人だけが獄中で病死したことにして、真田山陸軍墓地に偽の墓標を建てたことなどである。

一方、中部軍の高山弘明大尉と法務部の小野武一大尉の2人は、この事件には無関係として、また処刑実行者の中部憲兵隊員小林秀一准尉、杉浦隆三郎准尉、小西新八伍長、森本成己曹長、大筏武一軍曹、高橋伊三軍曹、竹田勉曹長、館野リョウイチ兵長、津野一義兵長、松田定哉兵長、大西正樹一等兵などの下士官以下の11人は、命令を避け得なかった立場が認められて無罪となった。

    

≪高知憲兵隊事件≫

(GHQ資料539号、1256号  再審記録152号)

1945年6月22日に高知市内に撃墜された1機のB29の搭乗員のうち7人は墜落死、4人が捕虜になった。

このうち3人は高知憲兵分隊から呉の海軍刑務所を経て、大船海軍捕虜収容所へ移送され、戦後本国へ帰還したが、重傷を負っていたTheodore W.PRINCE軍曹は、いったん高知陸軍病院に収容されながら、憲兵隊の命令で他の3人の捕虜と一緒に中部155部隊の営倉に移され、間もなく死亡した。

戦犯裁判の結果、この処置が不当であったとして、高知憲兵分隊司令官代理の山本丈夫中尉が無期懲役、中部155部隊の田村甫軍医大尉が懲役25年、同じく見習軍医高見信一郎准尉が懲役20年、高知陸軍病院の筒井肇軍医大尉が懲役5年となった。

    

≪西部軍事件≫

(A)九州大学医学部生体解剖事件

(GHQ報告書604号、712号  再審記録290号)

裁判の期間:1948年4月12日〜5月27日

西部軍司令部(福岡城内)に留置されていたB29飛行士のうち8人が、1945年5月17日、22日、25日、6月2日(日時は推定)の4回にわたって、九州大学医学部で、肺の摘出手術、海水を代用血液とする手術などの生体実験の材料とされて殺された。犠牲になった米兵のうち6人は、5月5日に熊本県上空で日本海軍の戦闘機の体当たり攻撃を受け、大分県竹田市に墜落したB29の搭乗員である。この墜落機は搭乗員11人のうち7人がパラシュート降下し捕らえられたが、機長のワトキンスは情報収集のため東京へ送られ、残りの6人が西部軍司令部に留置されていたものである。その他の2人は、5月頃に大分県や宮崎県で捕獲された別のB29の搭乗員と推定される。

生体解剖が誰の発案と指令によって行われたものかは未だに不明な点があるが、西部軍偕行社病院副院長の古森拓軍医見習士官が、懇意にしていた西部軍捕虜管理参謀の佐藤吉直大佐や九州大学第一外科部長の石山福二郎教授に働きかけたのがきっかけと言われる。この発案に、佐藤吉直大佐や西部軍の他の幹部も同調し、司令官の横山勇中将も暗黙の了解を与えたらしい。

このような背景として、1945年4月か5月頃、大本営から「今後は、飛行機の操縦士及び情報価値のある捕虜のみ東京に送るべし」との指令が伝えられ、また、6月には東京の憲兵司令官大城戸中将からの「捕虜は厳重に処置せよ」との指令が各軍管区憲兵隊に伝えられるという状況があり、西部軍の幹部も、捕虜飛行士を軍律会議も省略して処刑するのは中央の意図と受け止めていた可能性が強い。その結果、「どうせ殺すなら医学実験に役立てる」という発想が受け入れられたものと推定される。西部軍の関与は、最初の解剖の日には西部軍参謀の佐藤吉直大佐、同じく薬丸勝哉中佐、相原嘉十郎大尉らが飛行士とともにトラックで九州大学へ同行し、手術にも立ち会っていたことからもはっきりしている。

戦犯裁判の結果は、西部軍関係者16人と九州大学関係者14人が起訴され、西部軍関係では、司令官の横山勇中将が死刑(病死により判決棄却)、参謀長の稲田正純中将が懲役7年、参謀次長の福島久作少将が懲役15年、伊藤章信法務部長が懲役10年、参謀の龝田弘志大佐が無期懲役、航空・捕虜管理参謀の佐藤義直大佐が死刑(再審で無期懲役)、薬丸勝哉中佐が無期懲役、五位山真治大尉が懲役10年、相原嘉十郎大尉が懲役20年など、9人が有罪、7人が無罪。

九州大学関係では、平尾健一助教授が死刑、平光吾一教授が懲役25年、五島四郎研究生が懲役6年、牧野栄一郎研究生が懲役9年、森良雄講師が死刑(再審で懲役25年)、森本憲治九州大学医局長が無期懲役、野川延吉研究生が懲役25年、笠幹研究生が懲役3年、仙波嘉孝研究生が無期懲役、田代次郎研究生が懲役15年、田代友禧研究生が懲役15年、久保敏行研究生が懲役15年、鳥巣太郎一助教授が死刑(再審で懲役10年)、筒井静子看護婦が懲役5年など、14人全員が有罪とされた。なお、手術の中心になった九州大学第一外科部長の石山福二郎教授は起訴の前に自殺、古森拓軍医見習士官は空襲により敗戦前に死亡した。

この他に、古森拓軍医見習士官が生体解剖の後、飛行士の肝臓を偕行社病院に持ち帰り、偕行社病院の5人がこれを試食したとして起訴されたが、証拠がなく全員無罪となった。

(B)搭乗員斬首事件

(GHQ報告書420号 再審記録288号)

裁判の期間:1948年10月11日〜12月29日

1945年5月頃以降に西部軍司令部に収容された飛行士40〜41人を、6月〜8月に3回にわたって処刑。

6月20日   西部軍司令部の裏手にある福岡市立高等女学校(現・赤坂小学校)の校庭で、8人を斬殺。これは、前日の福岡大空襲に対する報復として、西部軍捕虜管理参謀の佐藤吉直大佐、法務部長の伊藤章信少将らの容認の下に行われたものと言われる。現場で指揮をした和光勇精法務大尉が2人、池田金芳准尉が2人、大西保見習士官が1人、冬至堅太郎主計大尉が3人を斬首した。

8月10日   福岡市南郊の油山の刑場で8人を斬殺。これは広島・長崎の原爆に対する復讐の意味も考えられる。西部軍参謀次長の友森清晴大佐らの同席の下、参謀の射手園達夫少佐が指揮し、法務部の和光勇精大尉、吉田寛二中尉、大野峰弘少尉、乙須徳美中尉、楢崎正彦少尉らが処刑を実行。野田英彦見習士官と山本福一少尉は、捕虜2人に対して空手で殺害できるかどうかを試した。その後、楢崎正彦少尉が袈裟切りを試した。最後の1人は、大槻隆見習士官が弓矢で殺害できるかどうかを試した後、大野峰弘少尉が斬首した。

8月15日   「玉音放送」の後、福岡市南郊の油山の刑場で、証拠隠滅のため生き残っていた16〜17人を斬殺。佐藤吉直大佐、楠本留之助少佐らの指揮の下、中山博二大尉、橋山登憲兵中尉、赤嶺輝雄中尉、毎田一郎中尉、窪山秀人軍曹、土山徳蔵曹長、猪上光繁軍曹、松木末勝軍曹、長岡政治伍長らが処刑を実行。

戦後の米軍の取り調べに対して、捕虜飛行士が1人もいないことの説明に困った西部軍では、九大生体解剖事件の捕虜など10人は広島へ送られて原爆で死亡、一部は東京へ空輸される途中、飛行機が撃墜されて死亡などと隠蔽工作を行ったが、結局は全てが白日のもとにさらされた。

戦犯裁判の結果、西部軍司令官横山勇中将、参謀長の稲田正純中将、法務部長の伊藤章信少将、参謀次長の友森清晴大佐、航空・捕虜管理参謀の佐藤吉直大佐、参謀の薬丸勝哉中佐、参謀の射手園達夫少佐は無期懲役、楠本留之助少佐は懲役40年、参謀次長の福島久作少将は懲役15年、参謀の龝田弘志大佐と参謀の神猪一郎中佐は無罪となった。

処刑実行者の冬至堅太郎主計大尉は死刑、和光勇精法務大尉、中山博二大尉、毎田一郎中尉、楢崎正彦少尉、赤嶺輝雄中尉、橋山登憲兵中尉は無期懲役、相原嘉十郎大尉は懲役5年、加来孝信少尉は懲役25年、野田英彦見習士官は懲役25年、大槻隆見習士官は懲役30年、山上均見習士官は懲役25年、山本福一少尉は懲役30年、大西保見習士官は懲役20年(再審で10年)、吉田寛二法務中尉は懲役30年、大野峰弘法務少尉は懲役30年、池田金芳准尉は懲役20年、土山徳蔵曹長は懲役20年、窪山秀人軍曹は懲役20年、猪上光繁軍曹は懲役10年、松木末勝軍曹は懲役20年、長岡政治伍長は懲役10年、乙須徳美中尉は懲役30年となった。

一方、雪野孔士大尉、村田定由中尉、中村実少尉、西部軍司令部付の江夏徳次憲兵少佐らは、直接の関わりはないとされたらしく無罪となった。

    

≪喜界島事件≫

(GHQ報告書2278号、2279号  再審記録317号、318号)

1945年4月11日、鹿児島県喜界島で米海軍の艦載機が撃墜され、Arthur L.THOMAS少尉が捕虜になった。喜界島に駐屯していた海軍第五航空艦隊(司令部は鹿屋)隷下の喜界島飛行部隊司令官佐藤勇少佐と、第五航空艦隊司令部から視察のために派遣されていた木田達彦海軍大佐は、THOMAS少尉の身柄を鹿屋へ送ろうとしたが、沖縄戦の最中で輸送が難しく、鹿屋からも「適当に処置せよ」との指示が来たため、4月末か5月初め頃、THOMAS少尉を処刑した。この時、吉田政義大尉が現場で指揮を取り、谷口鉄雄大尉が斬首した。

戦犯裁判の結果は、佐藤勇少佐が死刑、木田達彦大佐が懲役40年、吉田政義大尉が懲役40年、処刑実行者の谷口鉄雄大尉が死刑(再審で無期懲役)となった。

5月10日、喜界島で米軍の艦載機が撃墜され、David C.KINCANNON大尉が飛行場設営部隊によって捕虜になった。彼も本土への輸送手段が難しいとして、佐藤勇少佐の承認の下、5月中旬頃、飛行場設営部隊の大島宗彦大尉によって斬首された。この時は村民も処刑を見物していたという。

戦犯裁判の結果は、佐藤勇少佐が懲役20年、処刑実行者の大島宗彦大尉が懲役7年となった。佐藤勇少佐は第1回目の処刑の責任と合わせて死刑を執行された。

    

≪宮古島事件≫

(GHQ報告書347号、1086号  再審記録335号)
裁判の期間:1948年7月6日〜7月20日

1945年4月23日、米軍の艦載機が沖縄県宮古島で撃墜され、搭乗員のJoseph F.FLORENCE少尉が日本の海軍警備隊に捕獲された。

彼は、身柄を本土または台湾に送るのが困難として留め置かれ、日本軍の飛行場の爆弾の除去などの危険な仕事をさせられていたが、米軍が上陸して来た時には軍の配置をしゃべる恐れがあるとして、7月11日に、宮古島第28師団情報参謀の陸路富士雄中佐が外村魚治少尉に処刑を命じ、外村少尉は部下の兵士3人とともにFLORENCEを射殺した。

敗戦後、彼の遺体は掘り返されて焼却され、証拠隠滅がはかられた。

戦犯裁判の結果は、28師団情報参謀の陸路富士雄中佐は懲役35年、外村魚治少尉は懲役9年、竹内次郎軍曹は懲役3年、畑野耕造憲兵伍長は懲役3年となった。

    

≪石垣島事件≫

(GHQ報告書665号、876号  再審記録258号)
裁判の期間:1947年11月26日〜1948年3月16日

1945年4月15日朝、沖縄県石垣島の宮良飛行場を空襲した米軍の艦載機1機が撃墜され、Vernon L.TEBO中尉、Warren H.LOYD一等飛行通信兵曹、Robert TUGGLE Jr.一等飛行機関兵曹の3人がパラシュート降下し、石垣島の海軍警備隊に捕獲された。

彼らは情報聴取の後、その夜に海軍警備隊本部近くの荒地へ連行され、TEBO中尉とTUGGLE兵曹は斬首された。LOYD兵曹は激昂した数十人の日本兵によって刺突演習の材料とされて殺された。死体は穴に埋められたが、敗戦直後に証拠隠滅のために掘り返され、焼いて灰にして海中に投げ捨てられたという。戦後、匿名の投書が米軍に寄せられ、事件が発覚した。

横浜裁判では46人が起訴され、そのうち41人が絞首刑の判決を受けた。その後減刑が行われ、最終的には海軍警備隊司令官の井上乙彦大佐、幕田稔大尉、副司令官の井上勝太郎大尉、榎本宗憲中尉、田口泰正少尉、成迫忠邦兵曹、藤中松雄兵曹の7人に絞首刑が執行され、将校3人と兵曹29人が5年〜無期懲役となった。

    

≪父島事件≫

(GHQ報告書137号、388号、392号、2704号)

小笠原諸島の父島で、1944〜45年に捕まった米艦載機の捕虜飛行士7人が、1945年2月〜3月ごろ相次いで殴打、斬首、銃剣刺突などにより処刑され、日本軍守備隊の幹部らが死体から肉を切り取って食するという猟奇的な事件があった。この人肉事件は食料の不足から生じたものではなく、好奇心あるいは敵愾心から起こったものである。

この事件はグアム島のアメリカ裁判で裁かれ、陸軍守備隊の司令官立花芳夫中将、的場末勇少佐、中島昇大尉、伊藤喜久二中佐、海軍守備隊の吉井静雄大佐の合計5人の絞首刑を含む26人が有罪となった。

    

≪台湾軍軍律裁判≫

(GHQ報告書582号  再審記録208号)

台湾で捕虜になったアメリカ飛行士54人のうち14人を台湾軍の軍律裁判にかけ、1945年6月19日に銃殺。

台湾軍法務部の将校8人は上海のアメリカ裁判で裁かれたが、小池金市法務大尉のみは横浜裁判で裁かれ、懲役4年の判決を受けた。

    

【参考文献】

◇「GHQ法務局調査課報告書」(INVESTIGATION DIVISION REPORT, LEGAL SECTION, GHQ/SCAP)1号〜2798号(国会図書館憲政資料室所蔵)

◇「アメリカ陸軍第8軍法務官による横浜BC級戦犯裁判の再審 1946−1949」(REVIEWS OF THE YOKOHAMA CLASS B AND CLASS C WAR CRIMES TRIALS BY THE U.S. EIGHTH ARMY JUDGE ADVOCATE 1946-1949)(国会図書館憲政資料室所蔵)

◇『米国戦略爆撃調査団報告書』25巻66号(国会図書館所蔵 英文)

◇小山仁示訳『日本空襲の全容 〜マリアナ基地B29部隊〜』(1995年 東方出版)

◇渡辺洋二『本土防空戦』(1983年 株式会社朝日ソノラマ)

◇原田良次『帝都防空戦記』(1981年 図書出版社)

◇東京裁判ハンドブック編集委員会編『東京裁判ハンドブック』(1995年 青木書店)

◇茶園義男編『BC級戦犯横浜裁判資料』(1985年 不二出版)

◇別冊歴史読本『戦争裁判 処刑者一千』(1993年 新人物往来社)

◇小菅信子/永井均解説・訳『GHQ日本占領史第5巻 BC級戦争犯罪裁判』(1996年 日本図書センター)

◇岩川隆『孤島の土となるとも 〜BC級戦犯裁判〜』(1995年 講談社)

◇岩川隆『神を信ぜず』(1976年 講談社)

◇北博昭『軍律法廷』(1997年 朝日新聞社)

◇大谷敬二郎『昭和憲兵史』(1966年 みすず書房)

◇全国憲友会編『日本憲兵正史』(全国憲友会連合会本部 1988年)

◇巣鴨法務委員会編『戦犯裁判の実相』(1985年 不二出版)

◇福林徹「米捕虜飛行士殺害に関する中部軍・中部憲兵隊事件」(大阪国際平和センター紀要 『戦争と平和』所収 2002年)

◇横浜弁護士会BC級戦犯横浜裁判調査研究特別委員会編『法廷の星条旗』(2004年 日本評論社)

◇上坂冬子『昭和史三部作 〜生体解剖・巣鴨プリズン13号鉄扉・慶州ナザレ園〜』(1995年 中央公論社)

◇東野利夫『汚名 「九大生体解剖事件」の真相』(1979年 株式会社文芸春秋)

◇上野文雄『終戦秘録九州8月15日』(1975年 白川書院)

◇秦郁彦『第二次大戦航空史話』中(1996年 中公文庫)

◇秦郁彦『昭和史の謎を追う』下(1999年 文春文庫)

◇吉田一彦『ドゥーリットル日本初空襲』(1989年 三省堂)

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