POW研究会トップ活動報告オーストラリアセミナー>カウラ訪問
 
セミナー

オーストラリアセミナー
カウラ訪問
〜日本兵捕虜収容所、日本人墓地、日本庭園など〜

プログラム発表概要|カウラ訪問|

セミナーの後、メンバー全員でキャンベラから約250キロの町カウラを訪ねた。ここには第2次大戦中捕虜収容所があり、多数の日本兵やイタリア兵が収容されていた。1944年8月5日未明、日本兵約1100人が食事用のナイフやフォークなどを武器に、死を覚悟の集団脱走を決行、豪軍との銃撃戦によって日本兵231人、豪兵4人が死亡した。

戦後まもなく、カウラ市民の発意と豪政府の好意によって日本人墓地が建設された。その後、市民有志の間で日豪関係修復の気運が高まり、日豪両政府や民間企業、市民団体などの協力や資金援助を得て、平和と友好のシンボルとして日本庭園が建設され、また収容所跡と墓地と日本庭園を結ぶ桜並木も整備された。

日本庭園建設に尽力したドン・キプラー氏とトニー・ムーニー氏の案内で関係スポットを訪問。

町の入り口のビジターセンターには、日本兵・イタリア兵捕虜収容所の写真や脱走事件の遺留品などが展示されている。日本兵の悲壮な表情とイタリア兵の屈託のない笑顔がまことに対照的である。

広大な収容所跡は草原と化し、わずかな土台が残るのみ。展望台には当時の収容所の写真や見取り図のパネル、脱走事件の事実を刻む銘板、イタリア兵の慰霊碑などが建つ。

日本人墓地には、脱走事件で死亡した日本兵の他、戦前真珠採りダイバーとして出稼ぎに来ていた人々の墓もある。脱走の突撃ラッパを吹いた「南忠男」をはじめ、墓石に刻まれた日本兵の名前の多くは偽名という。収容所での待遇は決して悪くなかったというが、「生きて虜囚の辱めを受けず」と戦陣訓の教えをたたき込まれた日本兵たちは、決して本名を明かすことなく、「郷党家門の面目を思ひ」「罪禍の汚名を残」さぬよう、死の道を選んだのである。毎年8月5日には慰霊祭が営まれ、近年は生還した元日本兵も何人か参加しているという。日本庭園や桜並木はこの時ちょうど花盛り。オーストラリアの乾燥した大地では、桜の管理は苦労が多いと聞くが、カウラの人々のあたたかい心を象徴するかのように美しく咲き誇っていた。

その後、グループごとにゴールドコースト、シドニー、メルボルン、タスマニア、ニュージーランドなどに散り、元捕虜や民間抑留者や研究者などを訪ね、それぞれに大きな収穫を持ち帰った。(詳細は前掲の報告集に掲載)

収容所跡地

日本人墓地

桜が満開の日本人墓地の門

日本庭園

笹本妙子 記

▲ページのトップに戻る