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セミナー

B-29国際研究セミナー
空襲と連合軍捕虜飛行士をめぐって

2007年5月20日(日)、鎌倉市内の私立栄光学園において、POW研究会主催による「B-29国際研究セミナー:空襲と連合軍捕虜飛行士をめぐって」が開催され、日米の研究者7人がそれぞれの調査研究や活動の成果を発表した。参加者は約70名。

プログラム

5月20日
■開会挨拶・POW研究会について
POW研究会 笹本妙子
■研究発表
POW研究会/京都府立高校教諭 福林徹
米国コンコルディア大学准教授 トーマス・セイラー
POW研究会/新潟国際情報大学教授 グレゴリー・ハドリー
POW研究会/千葉県睦沢町郷土歴史民俗資料館学芸員 久野一郎
POW研究会 長澤のり
神奈川県歴史教育者協議会/横浜の空襲を記録する会 手塚尚
POW研究会/名古屋大学大学院/栄光学園OB 平松晃一
POW研究会/大阪経済法科大学客員教授 内海愛子

発表概要

①福林徹

日本本土周辺で450機近い連合軍機が墜落し、568人の飛行士が捕虜となったが、その半数近くが処刑、殺害、毒殺、生体解剖、抑留中の傷病や戦災などで命を落とした。戦後BC級戦犯横浜裁判で裁かれた「東京立川憲兵隊事件」「東海軍事件」「中部軍・中部憲兵隊事件」「西部軍事件」など15事件について紹介。当時、日本軍はこれら飛行士を捕虜とは見なさず、無差別爆撃を行った戦争犯罪人として扱ったが、正規の軍律裁判も行われずに処刑、殺害されたケースが多い。一方、東海軍の岡田資中将が「無差別爆撃こそ国際法違反。斬首は日本古来の武士道に基づく処刑方法」と“法戦”を挑んだ例もある。現代の戦争は総力戦であり、空襲と捕虜飛行士をめぐる問題は今なお未解決の問題を投げかけている。

②セイラー&ハドリー

B-29捕虜飛行士たちへの聞き取り調査をベースにした報告。彼らの生育歴や教育訓練、典型的な任務、戦争に対する気持ちなどを紹介した後、ケーススタディとして新潟で墜落した捕虜飛行士の体験を報告。彼らの多くが過酷な捕虜生活によるPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しみ、今なお日本に対する激しい敵意を抱いている。日本の歴史教育では戦争を被害者の視点から教えられているが、負けた側の人間が最も冷酷になる場合もあることを知ってほしい、特に若い世代は過去の事実を直視して平和の遂行に努力してほしい、と提言。以下は質疑応答の概要。

Q「飛行士たちは日本がジュネーブ条約に批准していないことを知っていたのか?」

A「知っていた。またラジオのプロパガンダ放送などを通じて、捕虜が虐待を受けていることも知っていたので、撃墜されたら陸上ではなく、海上に不時着水するよう指導されていた。

Q「海上に不時着水した方が安全とされたのは?」

A「下には味方の潜水艦がいて墜落機を発見すれば救助。上空にはスーパーダンボと呼ばれる救援機がいて巨大な救命ボートを投下。陸に下りた場合は自存せよと45口径のピストルを与えられた」

Q「彼らは自分たちが爆撃した工場などに連合軍の捕虜たちがいたことを知っていたのか?」

A「飛行士たちは知らなかった。捕虜輸送船についても同様で、爆撃により1900人(米捕虜)が海没した。捕虜たちが働いていた工場や乗っていた船については、情報関係者は知っていても、現場の司令官には伝わっていなかった」

Q「無差別爆撃について、飛行士たちはどんな意識を持っていたのか?」

A「我々の調査は60年後に聞き取った話なので、60年の間に彼らの意識は様々に変化しているとは思うが、例えばある捕虜は“もっと焼き尽くすべきだった”と語った」「他のある捕虜は、父親がルーテル教会の牧師だったが、“私のやったことは赦されるのだろうか? 私はひたすらボタンを押し続けただけだったが”と考え続けたという」

③久野一郎

千葉県中部地域で発生した榎本事件(1945.5.25)、大多喜事件(同5.29)、ボナス事件(同8.15)、ホックレー事件(同8.15)について報告。榎本事件では、瀕死の飛行士が寺の境内で駐屯部隊により斬首された後、兵士たちの刺突訓練の材料となった。戦後のBC級戦犯裁判でこの事件の責任者が絞首刑となったが、1996年にこの寺の住職が双方の犠牲者の慰霊碑を建て、毎年法要を営んでいる。

④長澤のり

1944年12月3日に東京の中島飛行機武蔵野工場爆撃の後、千葉県東庄町にパラシュート降下し、東京憲兵隊、大森収容所で過酷な捕虜生活を体験した元B-29編隊長パイロット、ゴールズワージー氏との出会いと友情について語る。東京大空襲の体験者でもあった長澤の尽力と東庄町の人々の献身により、1997年、ゴールズワージー氏は東庄町に2度目の着地を果たし、町民たちのあたたかい歓迎を受けた。

⑤手塚尚

1945年5月29日の横浜大空襲では、飛来した攻撃機は517機で、1回の攻撃の参加機数としては第2次大戦中最大。投下した焼夷弾は2569トンで、3月10日の東京大空襲の1.5倍。横浜の中心部18キロ四方が完全に焼失、約7万5千軒が全焼、約4千人が死亡・行方不明となったが、実際にはその2〜3倍とも。被害を受けなかった地域は戦後米軍の基地となって朝鮮戦争で大きな役割を果たし、その軍需品生産は日本の経済復興を促し、現在に続く。軍国主義の残り火は今も消えていない。

⑥平松晃一

セミナー会場・栄光学園の近くにあった大船収容所は、日本海軍が情報収集を目的として設置した。海軍が捕獲した潜水艦乗組員やB29飛行士など延べ500人が収容され、尋問を受けた。収容所に関わった人々を役割別に「捕虜」「管理組織(横須賀海軍警備隊)」「設置組織・尋問者(軍令部第三部)」「住民」の4つのグループに分け、それぞれにとって大船収容所がどのような存在であったのかを考察。

■フリーディスカッション

Q「B-29の飛行士たちは、国際法(捕虜になったときの心得や無差別爆撃など)をどの程度教育されていたのか?」

A(セイラー)「リサーチによれば、爆撃機の搭乗員は、訓練期間中にジュネーブ条約について知らされたようである。というのは、捕虜になった場合、彼らが受ける可能性のある取扱に条約が関連していたからである。勿論、欧州戦線で戦っている者については、一層知らされていた。それは一般的にいって、ドイツは条約の条項に縛られていたからである。私がオーラル・ヒストリーのために行なったリサーチでは、太平洋戦線で活躍した若干の搭乗員は、日本は条約を批准していないので、日本軍に捕えられたら、最悪な状態を期待せざるを得ないと聞いていたことを思い出している。
 私がインタービューした30名以上の者は、国際法や無差別爆撃について教わったことを誰も覚えていない。欧州戦線における米国の任務は、その結果は多種多様であり、広範囲を爆撃したとしても、精密爆撃であった。日本の都市に対する焼夷弾攻撃は、小規模な町工場が住宅街に広がっていることを理由に正当化されていたと、太平洋で戦った若干のB-29搭乗員は覚えている。そして、ここでは地域爆撃が実施された。国際法や、それが在来の日本の爆撃にどのように適用されるのかという討論について、誰も聞いた記憶がないという。
 ニュルンベルグ法廷において、米英は(ドイツが行なった)都市爆撃について、告発することを微妙に避けた。彼らはドイツに対して類似の犯罪を告発せず、米英自身による行動に対する気詰まりな討論を避けたのである。
 アメリカ陸軍航空隊のカーチス・ルメイ大将やイギリス空軍のサー・アーサー・ハリス元帥は、戦争の結末が異なっていたら、きっと戦争犯罪人として裁かれただろう。」

Q「B-29による爆撃戦術は、1945年において、どのように変化したか?」

A(セイラー)「カーチス・ルメイ将軍が第21爆撃軍団の指揮をとるため太平洋戦線に到着した後、1945年の初め、彼は戦術をかえ、日本に対してはB-29をどのように使ったらよいかということで、大いに影響を与えた。次の資料は Wikipedia websiteから再録したものであり、これには、新戦術をきちんと簡単に説明している。
 1945年の初めルメイ将軍は、通常日本の上空では雲が多いので、高高度爆撃からの精密爆撃は効果がないと確信した。日本の対空防御態勢では、昼間の中・低高度からの爆撃は不可能なので、ルメイは日本に対し、夜間の低高度から焼夷弾攻撃を実施することに切り替えた。当時、日本の都市は主として木や紙のような燃えやすい物質でできていた。昼間の高高度精密爆撃は、気象状況が許すときにのみ実施された。
 ルメイは、B-29による日本の64都市に対する大規模な焼夷弾攻撃を含む、次の戦闘作戦を指揮した。これには、1945年3月9-10日の東京焼夷弾爆撃も含まれている。この最初の攻撃で、ルメイは攻撃に参加する325機のB-29から防御用の機銃を取り下ろし、各機にモデルE-46クラスター焼夷弾、マグネシューム焼夷弾、黄燐焼夷弾とナパーム爆弾を搭載し、東京上空で高度5000フィートから9000フィートで続々と飛行するように命じた。
 最初の先導機が、ちょうど3月10日の零時を廻ったとき東京上空に到達した。英国流のやり方に従って、彼らは燃え上がる「X字」で目標地域に印をつけた。3時間のうちに、爆撃隊の主力は1655トンの焼夷弾を投下し、10万人以上の民間人を殺傷、25万戸の家屋を破壊し、市街地16平方哩を焼き払った。
 この着想が手本になった。一機ずつが(横隊に)並び、予め決められた座標上空を飛行して焼夷弾を投下、広範囲に火災を起させたのである。かくして多くの日本の都市が破壊されるか、ひどく損傷した。そして多くの人間が殺傷されたが、その大半は民間人であった。」

Q「横浜ではなぜ計画通りの精密な爆撃が可能だったのか?」

A(手塚)「1つにはレーダーなどの開発が進んだこと。また横浜への空襲は昼間で、低高度からの爆撃だったので、目標がはっきり目視でき、より精密に爆撃できた」

■内海愛子(まとめ)

・今回のセミナーを通じて、改めて「捕虜とは何か」ということを考えさせられた。いわゆる正規の捕虜の他、撃墜された飛行士のように戦争犯罪人か捕虜かという問題もある。また戦争後に捕虜となった日本降伏軍人(JSP)の存在もある。

・捕虜虐待も無差別爆撃も、「上官の命令だから」ということで戦争犯罪を免れることができるのか? 戦争が続く限り、この問題は永遠の課題。

・久野氏の報告にあった榎本事件では、捕虜飛行士の首をはねたら見物人から喝采が上がったという。この時の民衆の心理に注目したい。当時日本では、米兵が日本兵の首をおみやげに持ち帰ったとか、日本兵の死体を土嚢代わりにしたなどの話がプロパガンダとして流され、憎悪が醸成されていった。

・いわゆる捕虜の他に、民間人抑留者の存在がある。日本に住んでいた敵国民間人や海外から連行した民間人を抑留し、厳しい生活を強いた。横浜をはじめ全国各地に抑留所があり、POW研究会の小宮が調査研究に取り組んでいるが、さらなる調査が期待される。

・捕虜の問題は奥が深い。POW研究会は、会員それぞれが自分のテーマを持って調査研究や交流活動に取り組み、1年に1回、捕虜収容所のあった地で例会兼学習会を行っているが、昨年はオーストラリアで元捕虜や同国の研究者らと共同セミナーを開催し、今年はこのセミナーを開催した。この問題に関心ある方はぜひ当会にご入会いただきたい。

【アンケートに寄せられた感想】

・日本の教科書には決して載らなそうな貴重な情報・インタビュー内容を知ることができて良かった。これをもとに良い授業をしたい。(20代、神奈川県)

・大船に住んでいるので、特に大船収容所についての話を聞きたくて参加した。(他の発表も)どれも知らないことばかりで興味深かった。(40代、神奈川県)

・今治にも元B29搭乗員を迎える予定なので、参考になった。セミナー全体にGood。(40代、愛媛県)

・新潟のB29捕虜の行方について詳細な調査が良かった。日本語の説明がありがたかった。(40代、男性)

・大船収容所の正門前が小学生の通り道で、今改めて現代の感覚で話を聞き、驚きと発見があった。終戦直後に投下された物資を探しあさったことを懐かしく思い出す。大変勉強になった。今後も機会があれば多くのことを知りたい。(70代、鎌倉市)

・このような会を開いて下さったお陰で、貴重な事実、考えるべき課題など、多くを学んだ。研究・調査にあたっておられる方々のヒューマンな思いが伝わってきた。どの報告にも「戦争と人間」の様々な姿が明らかにされ、国家の決定による戦争が相互の国民の生命を戦争の手段(「物」)として使役していった実像(「非人間化されていくこと)を改めて学んだ。「国を守る」「国のために」という言葉に足をすくわれがちな今の状況に警告を発するセミナーだった。教育をどう生かすか──多くの重い課題を持ち帰ります。(教師、横浜市)

ハドリー(左)・セイラー(右)による発表

傍聴席風景

フリーディスカッション

閉会後の記念撮影

笹本妙子 記

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