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オーストラリアセミナー
よりよい理解に向けて
〜日本軍政下のオーストラリア人戦争捕虜の経験を読み直す〜
2006年8月22〜23日、キャンベラのオーストラリア国立大学(ANU)において、同大学太平洋アジア研究所アジア太平洋歴史部門とPOW研究会の共催によるセミナー「よりよい理解にむけて〜日本軍政下のオーストラリア人戦争捕虜の経験を読み直す」が開催された。POW研究会から13名、オーストラリア側からは研究者や元捕虜・その家族など、2日間でのべ100人が参加した。
プログラム
発表概要
日本軍の捕虜になったオーストラリア兵士は2万2千人、死亡者は 8千人。人口700万人の国でこの数は巨大なものであり、またヨーロッパ戦線が主舞 台だった他の連合国と違ってオーストラリアは対日戦が主だったため、捕虜問題への関心はひときわ高かった。戦後しばらくするとその関心は低下したが、1980年代になると再び高まり、オーストラリアのナショナルヒストリーとして確固たる地位を占めるようになった。それは大きな戦果を上げた英雄や偉大な勝利の物語としてではなく、虐待や苦難の中での連帯や友愛精神──オーストラリア人の美徳を体現するものとして語り継がれている。
日本に連行された連合軍捕虜は約3万6千人で、国内130ヵ所の捕虜収容所で過酷な生活を強いられ、約3千5百人が死亡した。収容所の施設、食事、衣服、労働、医療、監視員と懲罰などの概況を報告。戦後のBC級戦犯裁判において、捕虜収容所関係者475人が起訴され、捕虜への暴力、逃亡捕虜の殺害、医療処置の欠如、食糧の支給不足、赤十字救恤品の横領などの罪を問われた。うち28人が死刑を執行された。
軍医としての捕虜体験を語る。ジャワで捕虜となり、泰緬鉄道での奴隷的労働の後、「捕虜輸送中」の標識のない船・楽洋丸で日本に送られたが、米潜水艦の雷撃で沈没、日本の駆潜艇に救助されて、山形県の酒田収容所に送られた。捕虜虐待の責任は、現場の監視兵や収容所本部、地域の指揮官、天皇または大本営の3段階に分類されるが、天皇とその側近は責任を負っていない。公式の謝罪は未だなされず、適切な補償もない。我々が生きている間に、国としての謝罪と事実の認識を望む。
1942年1月、日本軍のニューブリテン島上陸後、オーストラリア人看護婦ら18人が捕虜となり、島の修道院で恐怖の抑留生活を送った。同年7月、彼女たちはラバウル部隊の豪将校たちと共に鳴門丸で日本に送られ、横浜の神奈川第2抑留所(横浜ヨットクラブ)を経て、戸塚区和泉町の抑留所に収容された。慣れぬ気候や生活習慣、食糧や物資の不足など困難な情況を知恵と勇気と団結力で耐え抜き、全員無事に故国に帰還できた。
1)映画「戦場に架ける橋」では、アメリカ人将校率いるゲリラ部隊がクワイ河の橋を爆破したと描かれているが、これは架空の橋で、実際にはタマルカンのメクラン河に架かる2つの橋が空爆によって破壊された。この地域の空爆には中国大陸を基地とする米陸軍航空隊のB24とインドを基地とする英連邦軍のB24が関わったが、最終的に橋を爆破したのは英連邦軍である。2)私は終戦後、戦没者墓地捜索隊の一員として、泰緬鉄道沿いに無数に埋葬された捕虜の遺体捜索作業に従事した。任務の1つは遺体を捜して記録すること、もう1つは日本人や朝鮮人監視員による捕虜虐待の証拠物件を掘り当てること。捜索は1945年9月22日から10月10日まで行われ、この地域に詳しい日本軍憲兵隊通訳の永瀬隆氏も同行した。
マレー半島ピースサイクル(MPPC)は、自転車でマレー半島を巡り、各地の戦跡を訪ね、現地の人々と交流する平和運動で、1994年から開始して昨年で6回目。2005年の輪行では、映画・小説「戦場に架ける橋」のモデルと言われるソンクライ橋の正確な位置を突き止め、その川底にコンクリート製の基礎6つを発見した。場所はタイ〜ミャンマー国境に近いソンカリア村を流れるソンカリア河に架かる橋。
オーストラリア空軍兵士で日本軍の捕虜となった者は約375名で、オーストラリア捕虜全体の1.6%に過ぎないが、拷問や処刑、泰緬鉄道や日本などでの過酷な捕虜生活によって135人、約3分の1が死亡した。私は今残っている25人の生存者への聞き取り調査を続けているが、泰緬鉄道の話は身の毛がよだつ。彼らは戦後トラウマに苦しめられ、戦争が終わらなければ自分も死んでいただろうと語っている。
私は野戦救護部隊に所属していたが、シンガポール陥落後はチャンギ収容所で傷病捕虜の看護に当たった。多くの者が栄養失調が原因の弱視、皮膚病、脚気、ペラグラに加え、赤痢やマラリアにも苦しめられた。泰緬鉄道から送られてきた病人たちが「ああ嬉しい、家に着いた」と言ったのには驚いた。泰緬鉄道に比べればチャンギはずっとマシだったのだ。日本軍がもっと食糧や医薬品を支給していたなら、我々は有能な労働隊として彼らの大東亜共栄圏に貢献したであろうに、それが未だに謎だ。
直江津収容所(新潟県上越市)には約300名のオーストラリア兵捕虜が収容され、終戦までに60名が死亡した。戦後、捕虜虐待の罪を問われて収容所関係者15名が有罪判決を受け、うち8名が絞首刑となった。そのため地元では捕虜の問題は長年タブーであったが、1978年に元捕虜から届いた1通の手紙がきっかけとなり、収容所の歴史を伝えていこうという市民運動が起こった。1995年に収容所跡地に平和公園が建設され、平和記念像や亡くなった捕虜と刑死した日本人双方の慰霊碑も建立、以後、元捕虜やその家族との交流が続いている。
祖父は元イギリス兵で、チモールで捕虜となり、ジャワやシンガポールの収容所を経て、東京丸で日本に送られ、長野県の満島収容所と新潟県の鹿瀬収容所に収容された。祖父は今9?歳でニュージーランドに住むが、私は祖父やその捕虜仲間100人を訪ね歩いてインタビューした。彼らの過酷な体験から学んだことは「報復は自己の破滅を招く」「生き延びるためなら何でもするのが人間」「敗者は勝者より多くを学ぶ」などの教訓。
・2日間の活発な議論で、互いの理解が少しは進んだと思う。
・日本ではこれまで、捕虜問題はほとんど注目されてこなかった。戦犯裁判であれだけ大きな問題になったというのに、公的な出版物には捕虜や民間抑留者についての記述はほとんどない。
・捕虜管理の任務は日本軍隊の中では低く見なされ、権限も限られていたが、連合国の戦争犯罪の追求は捕虜虐待に集中し、多くの捕虜収容所関係者が裁かれた。裁かれた者は、権限に比してその責任追及の厳しさに戸惑い、裁判を理不尽と感じた人も多い。そのため、有罪になった人の多くが戦後口を閉ざし、特に処刑された人の遺族が住む村では、捕虜問題について語ることはタブーだった。
・また、戦争裁判資料が長い間公開されなかったため、捕虜研究も進まなかった。今、ようやく外務省が外交史料館で保存してきた史料を公開し始めている。国会図書館でも米国立公文書館所蔵のGHQ/SCAP資料をマイクロフィルムで閲覧できる。米国立公文書館、オーストラリアの戦争博物館や公文書館の資料も公開され、日本がなぜ捕虜を虐待したのか、双方の視点から調査研究することができるようになった。
・元捕虜たちも長い年月を経てその苦しい体験を語りはじめ、細々とした糸ながら日本との交流が続けられてきた。POW研究会のように、戦後世代が中心となって捕虜問題に取り組むグループも現れた。
・日本軍の捕虜政策は途中で変わった。第2次大戦で日本軍は予想以上に多くの捕虜を捕獲したが、当初は明確な政策を持っておらず、それが決まったのは1942年5月のこと。その方針とは、日本が白人に勝ったという大々的な宣伝と、捕虜を労働力として戦争遂行のために利用するということ。そのために日本国内、東南アジアの「大東亜共栄圏」に収容所を作り、そこに朝鮮人や台湾人の監視員を配置した。1990年代に入って、元捕虜やアジアの強制労働者たちが補償と謝罪を求めた裁判を続々と起こし始めた。その際に必要なのは文書資料。それがなくては裁判にも勝てない。彼らを支えていけるよう、私たちはこれからも日本の中での聞き取りや資料発掘に取り組み、調査研究を続けていく。市民によるこうした調査研究の継続が日豪のよりよき理解を進めることになるはず。小中高生など若い世代への継承にも取り組んでいきたい。
オーストラリア国立大学キャンパス |
セミナーの参加者たち |
セミナー風景 |
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