POW研究会トップ活動報告元捕虜の訪日記録日本政府招聘によるアメリカ人元捕虜・家族の来日 2013>アメリカ元捕虜との市民交流会 2013
 
元捕虜の訪日記録

アメリカ元捕虜との市民交流会2013
(2013年10月16日)

10月16日午後2時から、大阪経済法科大学麻布台セミナーハウスを会場に、米元捕虜&家族との交流会が開催されました。当日は台風の影響で交通機関が大幅に乱れ、一時は開催すら危ぶまれましたが、午後には何とか晴れ上がり、60人近い参加者を得て盛況となりました。また、NHKの国際局と報道部の2クルーが交流会の模様を取材し、国内外に放送されたのは意義深いことでした。

日時:2013年10月16日(水)

場所:大阪経済法科大学麻布台セミナーハウス(東京都港区)

主催:元捕虜・家族と交流する会(代表:福林徹・笹本妙子)

協力:POW研究会(代表:内海愛子・福林徹)/捕虜 日米の対話(代表:徳留絹枝)

司会:小宮まゆみ&田村佳子(POW研究会)

通訳:神山真紀子

藤田幸久参議院議員の挨拶

皆様、こんにちは。参議院議員の藤田幸久と申します。本日ははるばるお越し下さいましてありがとうございます。私は国会議員といたしまして、八年前、テニーさんに初めてお会いしました。その時に非常にショックを受けましたのが、日本政府から招かれていなかったのは、アメリカの元捕虜の方だけだったということです。オランダやイギリス、そしてオーストラリアの元捕虜の方は既に日本政府の招きによって来日されておりました。

皆さんは日本兵から様々なひどい虐待などがあったと思います。私たちはそのことをしっかり受け止めて反省し、そしてこれを忘れないということが、将来私たちの間の架け橋になる礎になると考えております。

この元捕虜招聘プログラムは、与野党議員の協力によって四年前に始まりました。当時、私ども民主党は政権を担当しておりました。大切なことは、このプログラムをずっと続けていき、日米両国の間に新たな橋を架けていくことだと思います。

東日本大震災の時には、「友だち作戦」というプロジェクトによって、多くのアメリカの方々が日本のために尽くして下さいました。大切なのは、皆さんの世代のお気持ちを未来の世代に伝えていくことだと思います。そして、私たち双方の協力によって、問題の解決に戦争という手段を用いないような努力をしていかなければならないと思います。

私は過去4年間の民主党政権下で、他の戦後補償の問題にも取り組んで参りました。例えば、シベリアに抑留された人々に対する財政援助、或いは在外被爆者に対する支援、また硫黄島などの戦地の遺骨収集など、これまであまり着手されていなかった問題にも取り組んで参りました。

今回来日された7組のうち、未亡人の方も3組いらっしゃいます。また、車椅子や手押し車をお使いの方も増えておられるようで、困難を乗り越えて来ていただきましたことを感謝申し上げます。そこで、ご高齢になった元捕虜の方々がお元気なうちに、できるだけ早く日本に来ていただけるよう、日本政府に働きかけて参りたいと思います。

今回来日された7組のうち、未亡人の方も3組いらっしゃいます。また、車椅子や手押し車をお使いの方も増えておられるようで、困難を乗り越えて来ていただきましたことを感謝申し上げます。そこで、ご高齢になった元捕虜の方々がお元気なうちに、できるだけ早く日本に来ていただけるよう、日本政府に働きかけて参りたいと思います。

元捕虜・家族の皆さんのお話

マーヴィン・ロスランスキーさん
Mr. Marvin Roskansky
91歳

グアム島で捕虜

42.1「あるぜんちな丸」で日本へ

43.2泰緬鉄道に送られ、幾つもの収容所を転々としながら建設工事に従事。

善通寺収容所(香川県)

※善通寺収容所の詳細はこちら >>PDF

私はレークヴィル高校に通って、1940年に卒業しました。アメリカで1940年といいますと、 英国とドイツはすでに交戦中でした(注*)。それで、私は軍隊に入ろうと決心したのです。1941年3月、海兵隊に入隊し、基礎訓練はサンディエゴで受けました。短期間サンフランシスコで勤務した後、9月になるとグアム島に派遣されました。

グアム島は海軍が管理していたので、そこには約200名の水兵と147名の海兵隊員がいました。というのは、グアム島は… の病院だったからです。12月7日(注:グアム島は日付変更線の西側になるので8日の誤り)の開戦後、日本軍はグアム島の空襲を開始し、10日には上陸しました。

私たちは捕虜になり、翌1942年1月、日本に移送されました。高松(注:善通寺。以下同じ)に行き、戦争中はずーっと高松の波止場で荷揚げをしました。

私たちは1945年9月15日まで日本にいました。私は帰国したとき 軍務に復帰しました。戦後、歳月の大半は自動車を解体して過ごしました。

高松にいた期間、波止場での荷揚げ、貨車からの荷卸しで、倉庫との間を往復しました。戦争中を通じて、1日12時間、2週間単位で働きました。原爆が投下されてから、もう仕事をしなくてもよいと言われました。

(注*1940(昭和15)年:ルーズベルトが2選目の大統領選挙に立候補したとき、彼は欧州の戦争に参戦反対、英仏の援助を政綱としていたが、英国とは駆逐艦・基地交換協定に基づき駆逐艦を提供した。彼の当選後、アメリカの参戦絶対反対を唱える孤立主義は次第にその勢力を失い、アメリカの中立は、英仏寄りの中立へと変化して行く。一方、太平洋や東洋では、アメリカは太平洋艦隊を西海岸からハワイに常駐させて日本を牽制、また、日米通商航海条約も失効させた。日本も北仏印に進駐、アメリカの嫌うナチス・ドイツ、その盟邦イタリヤと三国(軍事)同盟を締結し、日米間の緊張は急速に高まって行った。)

アーウィン・ジョンソンさん
Mr.Erwin.Johnson
92歳

フィリピンで捕虜

「バターン死の行進」

42.10「鳥取丸」で釜山へ

奉天収容所(満州)

※「バターン死の行進」と奉天収容所の詳細はこちら >>PDF

1940年、ルイジアナ州ニューオーリンズで陸軍航空隊に入隊したとき、私は19歳でした。そこからジョージア州サヴァンナに移動し、軍用列車に貨物の搭載を手伝ってから、サンフランシスコに向かいました。サンフランシスコから、私たちは「プレジデント・クーリッジ」に乗船しました。以前、この船は観光船でしたが、軍隊輸送船へと改造されていました。1941年11月1日、サンフランシスコを発って同月20日にマニラ着。それから小舟に乗ってマニラ湾を横切り、バタアン半島南端のマリベレスという所に送られました。

バタアン半島における私たちの日本軍に対する反撃は手遅れでした。もちろん、マッカーサー将軍は、援軍を乗せた輸送船団が向かっていると言い続けましたが、船団は来ませんでした。そこでキング将軍の命令で、私たちはバタアン半島で降伏し、マリベレスに戻りました。そこでは、日本軍が私たちをかき集め、約150名ごとのグループにして、あの悪名高い「バタアンの死の行進」が始まったのです。そのとき、私は自由をなくしました。自由を失うことは、とても不愉快なことなのです。

「死の行進」では、6日間に65マイル(約100㌔)歩きました。私たちにはご飯1杯と水が与えられました。水筒の中にあったのは水(だけ)でした。オドネル収容所に行き、その後、マニラ周辺の数か所の違った収容所に滞在しました。それから地獄船(注:捕虜輸送船)と呼んでいた日本船「鳥取丸」に乗せられて台湾に着き、しばらくの間、そこにいました。それから北に向かいました。そのとき、アメリカの潜水艦が魚雷を2本私たちの船に目がけて発射しましたが、船長が上手く操船して 回避しました。

私たちは朝鮮(現・韓国)の釜山に上陸し、汽車で満州の奉天(現・瀋陽)に着きました。さて、今ここにいる仲間の多くは東京やその近辺の収容所に収容されていましたが、私は満州の収容所に1945年8月までいました。それから、大連港まで移動し、米海軍の艦艇に乗りました。この艦に翻る星条旗を見たとき、私は再び自由を得たと感じました。ありがとうございました。

ロバート・ヒーアさん
Mr. Robert Heer
92歳

フィリピン・ミンダナオで捕虜

42.9「りま丸」で台湾へ

花蓮港収容所

屏東収容所

台北第6収容所

45.2「大皇丸」で日本へ

函館亀田収容所(北海道)

45.5赤平収容所(北海道)

※亀田収容所の詳細はこちら >>PDF

※赤平収容所の詳細はこちら >>PDF

私の名前は、ロバート B. ヒーアです。もし、皆さんがコンピュータをお持ちでしたら、私の名前、Robert B. Heer で検索してみてください。私が書いた三つか四つの記事がオンラインで見られます。

今日、ここでお話ししたいことは、1940年、カリフォールニア州リバーサイドの高校を卒業した1週間後、私は空軍(注:正確には「陸軍航空隊」)に入隊していました。私が予備役将校訓練課程(注*) にいたとき、高校時代の仲間の一人は、ハロルド・シラタカ・ハラダという日系二世の少年でした。彼と私は他の4人と共に親しい友人でした。私たちの人生は皮肉なことに、ハロルドはアリゾナ州ポストンの日系人強制収容所、その後ユタ州トパーズへ、1942年3月には別の収容所に送り込まれ、その2週間後、私は日本軍の捕虜となりました。私たち二人は、その同じ月に戦争捕虜になったのです。後日、妻と私はクラス会でハロルドに会いました。皆さんもカリフォールニア州リバーサイドのハラダ一家について、多くの情報が得られることと思います。そこに国立博物館があります。ありがとうございました。

一つだけ言うべきことは、あの典型的な捕虜生活は、不愉快ではなかったということです。というのは、当時、第二次世界大戦以前と大戦中の日本軍人の武士道・サムライ哲学を理解していませんでした。しかし、私たちは彼らの表情、心の動き、そして態度を読み取ることを学びました。このことから、彼らに話してもよいか、話しかけてはいけないか、判断できるようになりました。これで終わります。ありがとうございました

(注*:主として大学に設置された陸海空軍の将校を養成するための教育課程。修了者は、初級将校に任官する。在校時の月謝免除の恩典もある。)

フィリップ・クーンさん
Mr. Phillip Coon
94歳

フィリピンで捕虜

バターン死の行進

44.10「北鮮丸」で台湾へ

員林収容所

45.1「めるぼるん丸」で日本へ

小坂収容所(秋田)

※小坂収容所の詳細はこちら >>PDF

私はマイケル・クーンと申します。父に頼まれ、私が代わりに話したいと思います。父フィリップ・クーンは1919年5月28日、オクラホマ州で生まれました。オクラホマのマスコギ・クリーク部族の一員です。酋長は父のことを部族の宝と呼んでいます。現在、94歳です。

私たちインディアンの文化には儀礼の場があり、私たちの儀礼の場はニュー・ヤカと呼ばれています。それは私たちの文化であり、文化を通じて培われてきた儀礼の踊りをします。私たちには27の郡(注:氏族の誤りか)があり、1人1人が氏族に属しています。

1941年、父は高校を卒業しました。そして同年9月に入隊し、第31歩兵H中隊に30口径機関銃手として配属されました。1942年、父はマニラ[ママ]で捕虜になりました。バターン死の行進に耐えることを強いられ、オドネル収容所に移送され、そこで2年間、埋葬の仕事をさせられました。

その後、1944年10月に台湾に移動し、1944年9月(注:正しくは1945年1月)、そこからメルボルン丸で日本の仙台に送られました。それから、秋田県の小坂に移され、収容所から解放されるまで、銅山で奴隷労働に従事しました。

父は(原子)爆弾が投下されたすぐ後に解放されました。彼らは自由になったのです。

父は捕虜になったフィリピンに何度か戻っています。そして、彼の軍隊での経験やその他の一連の物事に事実上の区切りをつけるため、日本にも来ました。父は、いつも私たちに話しました。父が私たちに言う好きな格言は「汝自身と同様に、汝の隣人を愛せよ」です。それで、父の中に、日本人に対する心の平安が宿っているのだと思います。父は海や戦場や収容所で亡くなった戦友、父が埋葬した大勢の戦友たちのことを、まだ忘れてはいません。しかし、父が言うように、それらはすべて過ぎ去ったことです。父は人生を前向きに過ごしてきました。父はオクラホマ州のバプテスト教会の助祭で、南部バプテストの一員です。

皆さんの言葉にもありがとうという言葉があると思いますが、私たちインディアンの感謝の言葉は「マドー」といいます。ありがとうございました。

マージーン・マクグルーさん
Mrs. Marjean McGrew
86歳
故Alfred McGrew氏の妻

亡夫はAlfred McGrew:

フィリピン・コレヒドールで捕虜

44.8「能登丸」で日本へ

大森収容所(東京)

日清製粉収容所(川崎)

諏訪収容所(長野県)

※諏訪収容所の詳細はこちら >>PDF

私はマックグルーと申します。亡夫の名前はアルフレッドです。彼はコレヒドール島で捕虜になり、数か所の収容所にいましたが、最もひどかったところは、日本軍のために鶴嘴とシャベルを使って、飛行場を建設したマニラでの2年間でした。その飛行場は結局使われることはありませんでした。彼はそれから船で日本へ移送され、国内の数か所の収容所にいました。そして、最後にいたところが諏訪でした。

彼はとても長い間諏訪にいてから解放されました。数年前、夫と私は諏訪を訪れました。彼はこんな話をしました。収容所の周囲の塀にはゆるくなっている板があったので、夜になると塀を抜け出し、近所の畠からジャガイモを失敬したそうです。ある夜、彼と仲間は迷って、帰り道が分からなくなりました。彼らにできたことは、明るくなるまで祈ることだけでしたが、そのうちに収容所の明かりが見えてきました。彼らは無事に塀の中に戻り、盗んだジャガイモをベッドとマットの下に隠しました。私たち夫婦が諏訪を訪れたとき、年配の夫婦が道に出てきました。私たちが大勢の新聞記者と一緒だったので、何が起こったのかと思ったのでしょう。女性は小さな車いすに乗り、男性は農作業のために、とても腰が曲がっていました。そして、その人こそが、夫がジャガイモを失敬した畑の持ち主だったとわかったのです。そう言うわけで、彼ら老夫婦に出会えたのは、とても素晴らしいことでした。

それから、私たちの諏訪訪問中、ずーっと一緒だった通訳の安代が、その夜、町の交流会に連れて行ってくれました。夫が、老農夫に「ジャガイモを一袋買って欲しいですか」と尋ねますと、彼は黙って笑っていました。そんな次第で、とても素晴らしい旅行になりました。夫は苦しいことも体験していますので、彼のためにもよかったと思います。とても楽しく、面白い旅でした。

エッサー・ジェニングズさんMrs Esther Jennings
90歳
故 Clinton Jennings氏の妻

亡夫はClinton Jennings:

フィリピン・コレヒドールで捕虜

44.7「日昌丸」で日本へ

桂川平山収容所(福岡県)

福岡第1分所(福岡市)

宮田収容所(福岡県)

※宮田収容所の詳細はこちら >>PDF

私たちの話を聞くためにお集まりいただき、ありがとうございます。皆様がどなたか存じ上げませんので、後でお話しする時間があればと思います。私はエッサー・ジェニングズと申します。カリフォールニア州サンフランシスコから参りました。亡夫クリントン・ジェニングズの妻です。

少しばかり読み始めます。合衆国陸軍に入隊する前、彼は民間の自然保護団体に所属していました。彼は「我々はどこかに出かける。海外だ。エキサイティングだよ」といいました。コレヒドールは、とてもエキサイティングになったようです。彼は「リパブリック」に乗船して出征し、K 大隊第59中隊 … に所属、コレヒドールに駐留しました。この大隊には大きな探照灯がありました。その後、1942年5月6日、ウェインライト将軍の命令で降伏し、いくつかの違った収容所に送られましたが、大きな収容所はカバナツアンにありました。

そこから、彼は地獄船「日昌丸」で日本に向かい、悪夢のような二週間の航海の後、門司に着きました。門司への航海中、捕虜輸送中の標識をつけていない船(注:国際法では「捕虜輸送中」を示す標識を定めていない)は、アメリカ潜水艦の攻撃を受けましたが、無事に切り抜け、門司到着後は、福岡第23分所に送られ、炭鉱で奴隷労働に従事しました。その後、宮田町の福岡第9分所に移されました。

終戦時の彼は身長6フィート1.5インチ(約187cm)で、体重は89ポンド(約40㌔)、脚気、マラリア、下痢、ペラグラ(注:ニコチン酸欠乏症群)を患っていました。その後、彼は引き続き陸軍に25年残り、その間にトルコ、韓国(朝鮮戦争後)、それからサンフランシスコで勤務しました。私も陸軍で働いていました。夫は私の事務所にやってきて、それから後は過去のできごとです。

笹本さん、福岡について調査してくださって、ありがとうございます。私はこれらの資料を今まで見たことがありません。夫も見たことはないと思います。お骨折り、ありがとうございました。とても感謝しています。

マックグルーさん

ちょっとばかり、補足してもよろしいでしょうか。この端にいらっしゃる方(フィリップ・クーンさん)は、アメリカのインディアンの有名な種族の出身の方です。彼らはご自分の地域、衣装、民族を指すとき、少し違った言語を話しますが、彼らはとても愛されています。彼らはとても強靭な人たちです。夫か収容所から帰ってきたとき、こんな話をしてくれました。「日本軍はだんだん賢くなって、英語の暗号を解読し、アメリカ艦艇のやり取りを、あれやこれやと少しばかり理解するようになった。我々にはアメリカ・インディアンがいるし、多くのグループがあり、それぞれ独自の言語を持っている。だから、彼らがインディアン語で話せば、日本人は絶対にそのインディアン語を理解できないだろう」と。彼らは特別な人たちなのだと言う必要があり、皆さんにも知っていただきたいと思いました。

質疑応答

佐久間美羊 訳

Q: ロスランスキーさんへの質問です。1945年8月6日、善通寺の収容所にいらっしゃったと思います。その時に広島の原爆の雲は見えましたか。後にそれが原爆だと知ったときに、どう思われましたか。

A(ロスランスキー): いいえ、いいえ、とても。広島は善通寺から西へ60マイル(注:実際には75マイル=約120㌔)にあります。ですから、原爆雲は、上空を流れて行ったのではないでしょうか… 風は東から西に吹きます。(注:風は空気の流れ。気象現象は、通常、西から東に移動する)

Q: 原爆についてはどう思いますか。

A(ロスランスキー): 私たちは、原爆については本当に何も知りませんでした。日が経つにつれ、日本が降伏した8月14日(注:西半球では)以後、原爆について、より多くを知りました。ニュースにありました。投下された直後には知りませんでした。

Q: ヒーアさんへの質問です。ヒーアさんは台湾の花蓮港に収容されていた時に、日本軍のプロパガンダ放送に協力をさせられたと聞いていますが、そのことについて少しお話を聞かせてください。

A(ヒーア): 喜んでお答えしましょう。その番組をアメリカでは“The voice in the night”(夜の声)と呼んでおり、花蓮港収容所で捕虜生活を始めてからまもなくのことでした。収容所長が、私や仲間の捕虜に、ハガキ大の紙に両親への伝言を書けば、両親宛てに送ってくれると言いました。日本人は伝言を放送してくれるというのですが、誰も信じませんでした。というのも、私たちが彼らに協力しているほど、彼らは私たちには協力的でなかったからです。
 とにもかくにも、私たちの伝言は東京に運ばれました。そして、1945年、私が帰郷したとき、妹が「兄さんに見せたいものがある」と言いました。妹はアメリカ全土で私の伝言を受信した通信士から来た16通の手紙を持っていました。伝言は、1943年の3月東京から放送されたものでした。確か27日だったと思います、とにかく、母は「私はアマチュア無線を持っており、あなたの息子さんに関ついて東京からの放送を受信しました」という伝言が書かれたハガキを20通持っていました。
 私はこのことについて本を作りました。母に手紙をくれた人たちの名前を探し当て、彼らの人生についても私が調べ得る範囲でちょっぴり書きました。そして、この本を作り上げると、歴史として残すために、地元の1,2箇所の博物館や米国コレヒドール防衛部隊戦友会(ADBC)に寄贈しました。
 伝言は届き、基本的にはこんな内容でした――「元気にしています。病気はしていません。仕事をしています。キャンディ、タバコ等を送ってもらえるとありがたいです。よろしくお伝えください」そして、よろしく伝えて欲しい人の名前を書き、最後に「愛しています。息子のボブより」と書いて締め括りました。届いた伝言はそういったものでした。今ここで皆さんにお見せできればよかったのですが。
 私が帰省したとき、伝言が届いていたことは驚きでした。日本人が伝言を届けてくれるとは夢にも思ってもいませんでした。
 日本でもその番組に名前が付いていたようですが、日本側の取り組みの元々の目的はプロパガンダ放送をすることだったと思います。しかし、それは逆効果になりました。日本人は、アメリカ人の息子、夫、その他の人々がどこかの捕虜収容所にいることを知られたくなかったでしょうが、多くのアメリカの母親や妻たちにとって、(家族の消息を知ることは)とても大きな安堵になったのです。これが、プロパガンダ放送について、思い出してあなた方にお話しできる一番良いことです。私にとって、(伝言が届いたことは)本当に驚きでした。
 ドイツでも、捕虜に対して同じことをしています。「枢軸サリー」と呼ばれるアナウンサーがいました。彼女はドイツの放送局で働いて、伝言を放送したのです。一人だけ、2年前、伝言について私に電話をしてきました。「その伝言を手元に持っていますか」と私に尋ねましたので「届いた18通の伝言が全部手元にあります」と答えました。彼女は、「あなたにお話ししなければならないことがあります。私の祖父が亡くなったとき、70通の手紙が見つかりました。日本とドイツから来た70通の手紙が、祖父のトランクの中にあったのです」。そこで彼女はとても意欲的になり、本を書こうと決めました。今までに、彼女は二冊の本を書いています。彼女の名前はリサ・スパーといいます。リサ・スパーです。最近も彼女の本が出版されたので、入手できます。
 これが私のお話ししたいことの全部です。これは、本当によいことの一つでした。そうすることが彼らの目的であったとしても、捕虜収容所にいる夫や息子を心配している多くの両親や妻たちにとって、大いなる安堵だったからです。ご清聴、ありがとうございました。

Q: アン・ジョンソンさん(アーウィン・ジョンソン氏の妻)へ。お兄様を亡くされたと分かった時の家族のお気持ち(注:アンさんの兄は奉天収容所で死亡)、そして今の心境、特に日本にいらしてからのことをお話いただけますか。

A(アン・ジョンソン): 兄が死亡したことを知らせる電報を母が受け取ったとき、私は10歳だったと思います。私は田舎の大家族の7人兄妹の末っ子でした。母は、私たちの面倒を見て懸命に働きましたが、死亡通知を受けとったあの日、母はただ寝室に入って、実際のところ、その後何年も現れませんでした。時たま料理や皿洗いをしたりという点で部屋から出てきたことはありますが、基本的には抑うつ症にかかってしまったのです。今となっては分かりますが、そのときは知りませんでした。母は単に瞑想しているのだと思ったのです。母は多くの本を読みましたが、読んではいなかったのです。
 そんなわけで、とにかく、時が過ぎ、私は大学に通い、成長し、母は家族に留意していなかったことが分かりました。そこまでの感情的な余裕がなかったのです。そして、抑うつ症は大変なことだとようやく理解しました。今日なら医者が何か処置をしてくれるでしょう。しかし、時が経って、それ(兄の死?)について、多くのことを考えました。というのも、彼は特別な兄だったからです。兄妹はみんな特別でした。何年も何年も兄が死んだ状況を考え、奉天にも行って、兄の亡くなった場所を見ました。そして何とか生き延びようと奮闘した兄のことを思い描くことができました。
 しかしそれ以来私は、1860年代にアメリカでは南北戦争があり、将軍の一人が「戦争は地獄だ」といったことが理解できました。戦争はその例で、本当に地獄です。悪いこと、とてもひどいことが、どちらの側にいても、民間人であれ、軍人であれ、どこにいても起きます。
 恐ろしい出来事がありましたが、戦争は終わりました。兄は故郷に戻りました。彼は小さな墓地に埋葬されています。私たちの町は350人足らずの町です。兄はそこの墓地に埋葬され、私はアーウィン(夫)と一緒に、しばしば墓地に行って両親や兄に「ハロー」と挨拶します。でも、それ(兄の死亡?)は過去のことで、終わりました。人々は最善を尽くし、人生は続いていきます。
 今日、私は日本の人たち、特に若い人たちに対しては、憎しみを持っていません。彼らは成長途上にある年少者で、立派に成長してほしいと思います。アメリカの若者も成長するでしょう。今日、日本人とアメリカ人は友人です。私たちは今後も継続して、両者が友人であるように働きかけます。といいますのは、友情には努力が必要だからです。このことは、友人が直ぐ隣に住んでいようと、大陸を横断したはるか彼方に住んでいようと、同じです。私たちはそれに取り組まなければなりません。今回の旅行でその機会に恵まれたことを喜んでいます。それはとても大切なことです。そう、とても大切です。

Q: 三人の未亡人の方たちに質問です。ご主人たちが戦時中の苦労について、お話なさったことがあるでしょうか。今までこういう集まりに来たときに、POWに同伴してきた奥さんが、「私は彼の経験を全然聞いたことがなくて、日本で初めていろいろ聞いて驚いています」という方が結構いらしたんですよね。それで聞きました。

A(カミンズ): 夫は、私にフィリピンや自分の体験について話してくれました。彼が初めて帰還したとき、私たちは付き合い始めました。夫は、私には体験を話しましたが、家族には話さなかったようです。家族は、彼が一日目にはどこそこに行って、これこれしかじかをしたと話して欲しかったのでしょうが。夫が遠慮なく話し始めたのは、バタアンとコレヒドール陥落の25周年巡礼でフィリピンに旅した後のことです。夫はくつろいで、違った状況で事態を見たからでしょう。お話ししましたように、夫はフィリピンに行って、彼は … (意味不明)、それで、通常の状況でフィリピンを見なかったのでしょう。それからは、彼は遠慮なくしゃべり始め、とどまることはありませんでした。

A(ジェニングズ): そのご質問にお答えしたいのですが、しかし、夫が帰国したとき、私はまだ彼を知らなかったのです。私が彼と会ったのは1960年かそこいらで、私たちは1970年に結婚しました。しかし、(降伏)50周年の1992年、その3年後、そして60周年にフィリピンに行きました。そして、その間沢山の話をしました。主人はスピーチをし、コレヒドールでは沢山の物を見せてくれました。1つお話ししたいことがあるのですが、皆さん、私の背丈がとても低いのをお気付きになったでしょう。夫は6フィート1.5インチ(187cm)でした。どこかに旅行した時には、彼はいつもグループの後ろの方にいるのです。そこで、私が見えないわよ、とか、聞こえないわよ、前に出て来て一緒に座りなさいよと言います。すると夫は、いや、いいんだ。君は前に行きなさい。私はここ(後ろ)にいるから、と言うのです。それは、夫が捕虜のグループの中で目立たないようにしていたせいだと、私はいつも思っていました。

A(マクグルー): 長い間アル(夫のアルフレッド)を、また彼が捕虜であったことを知りませんでした。彼と出会ったのは戦後です。彼はすでに帰郷し、仕事をしていました。私が気付いた彼の奇妙な行動は、彼が映画を見ていて、戦争になり捕虜や捕虜収容所の場面が出てくると取り乱すことでした。映画が終わったときにも取り乱しました。(後に)この行動はなくなりました。彼には、多くの元捕虜が経験したような悪夢にうなされることがあまりなかったのは、幸運でした。元捕虜の多くはこれにひどく苦しめられたのです。しかし、一度だけひどい悪夢にうなされました。もし、私が起こされなかったら、思い出さなかったでしょう。捕虜は、窓に背中を向けて立つことはありませんでした。オーノー。それはしてはいけないことだったのです。何かが来て、彼を捕まえるか何かするからです。
 結婚期間中、彼が日本人に敵意を抱いたことはありません。このことは、私にとって喜ばしいことでした。捕虜生活をして、相手国民に敵意を感じないのは、稀ではないでしょうか。この点について、私は幸運でした。
 二人で諏訪に行ったとき、彼は収容所(跡)を訪ねることができて大満足でした。諏訪は日本の収容所リストに載っていません。今でも諏訪は記載されていません。諏訪は遥か離れた奥地にあり、小さな収容所なので、記載されていないのです。当時、私はとても腹を立て、彼らにリストに載せるように言いました。でも夫は、諏訪への訪問を大そう喜び、当地の人たちや誰とでも喜んで話しました。二人の僧侶が世話をしてくれたことはとても素晴らしく、お寺で泊まったのは、楽しい体験でした。
 父親として、彼はとてもよく収容所のことを話題にしました。あるとき、娘たちが「お母さん、お父さんが捕虜収容所のことを話しているのを聞いたことがないよ」というので、私は「そうね、ごめんなさいね。お父さんは、私には話してくれたよ」と言いました。夫は、私だけに収容所での苦難やそのようなこと、どのようにして生き延びたか、ひどかった食物について話してくれたのでしょう。そして、今日まで私が話をして来ました。というのは、彼はもうこの世を去り、彼の著作物や写真をダンボールの中に残してくれましたので。それらはきちんと畳まれており、私はそれを持っています。飯盒(注:携帯用の炊飯具)に米を入れ、彼が教えてくれたとおりに、彼らが毎日置いていたようにかけ、ヘルメットも同じようにかけています。戦争が始まったとき、コレヒドールにあった大砲は、全部1910年と1901年製でした。私は、現地にいった時に見たのです。それらは第一次大戦当時のもので、小銃もそうでした。日本軍が攻撃してきたとき、彼らの兵器はわが国のものより、全てにおいて優れていたのです。本当とは思えませんでした。飛行機やすべての兵器がそうです。

閉会挨拶
POW研究会共同代表
内海愛子

今日はどうもありがとうございました。太平洋をはるばる越えて日本に来る、これだけでも心理的にとても大変だったと思います。

最初に徳留さんが話されたように、同じ捕虜の中でもアメリカの捕虜は、ちょっと扱いが日本との関係では違っていました。なぜかといいますと、一つはイギリスやオランダ、オーストラリアの捕虜には、サンフランシスコ講和条約の第16条で、捕虜一人ひとりにほんのわずかですけど、賠償金が払われました。しかし、このとき、アメリカは除外されていました。アメリカを除く元捕虜の数は203,599人。彼らは補償金、賠償金があまりにも少ないというので、日本政府に補償要求の裁判をおこしました。これは負けました。

アメリカの元捕虜の人達に対しては、アメリカの政府から賠償金が支払われたことがありますか?(元捕虜たちから「ない」との声) 資料によると、アメリカの元捕虜には、アメリカの政府が、アメリカにあった日本の財産、資産を処分して支払う、こういうふうになっていて、アメリカの捕虜が除外されました。(元捕虜たちから「その通り」との声)

そういう中で、捕虜の人を日本にお呼びするときに、どうしてもイギリスやオランダが中心になりましたけど、その後ようやく4年前から、アメリカの捕虜の人たちをこのように日本にお迎えすることができるようになりました。

アメリカの捕虜の人たちは多くの犠牲をはらいました。東京裁判の資料でも、アメリカやイギリスの捕虜の27%が死亡したということがきちんと判決にも書かれています。その東京裁判では600件以上の捕虜の証拠の書類が出ています。そこには、今日話されなかったような捕虜皆殺しの話もまた出てきます。そういうものを私たちは日本側で今勉強しながらアメリカやイギリスやオーストラリアの捕虜の人たちと交流を進めています。

先ほどアン・ジョンソンさんが戦争はどちらの側にとっても地獄だと仰いました。私たちは今日皆さんのお話を伺って、決して再び地獄を作りださない、要するに戦争を起こさないために、これから皆さんの経験を学びながら交流をしていきたいと思います。宜しくお願いします。本当にありがとうございました。はるばるアメリカからいらしていただきました。これを私たちが活かして勉強していきたいと思います。花蓮港からの放送じゃないけれども、アメリカからの声を聞いていきたいと思います。

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